運命力
先週の金曜日発売のananは「運命力」という特集で、タイトルを見た瞬間に手にとってレジに向かってしまった。
運命っていう力学はあるのだろうか?運命っていうと、なんだか自分の力ではどうしようもないような、天から誰かに(神なのか、違うのか?)操作されているような、とっても受動的なものにも思えていた。少なくとも、こどもの頃の「運命」というイメージはそうだった。「運命」っていう言葉を発すること自体が、ちょっと恐いような気がしていた。ベートーヴェンの「運命」は好きだったけれど、タイトルや最初の出だしからして、逃げられないような気持ちにさせられて、私の心を少し縮ませてくれた音楽でもあった。
けれども大人になってからの「運命」という言葉に対しての受け止め方は変わった。それはananの「運命力」っていう言葉にも表れているとおり、運命には力学があるっていうことがわかったからだった。受け止めるだけのものではないことが実感としてわかってきた。むしろ能動的に動かすという気持ちや毎日のその人の生き方が、運命をいくらかは操作するような気がしてならない。動かすには動かすだけの努力っていうのが必要なのだろう。それを虎視眈々とやるのではなくて、さり気ない努力というのが運命っていうのは好きそうな気がする。
私はめちゃくちゃ心配性なくせに、それと同じくらいの(それ以上かも)めちゃくちゃくおめでたい性格のおかげで、自分では運がいいような気がしている。(なんの信憑性もないのに、こういうところがやっぱりおめでたい)
まず起こりもしないようなことを事前から想像して心配したりすることがある。そうすると、たとえばそういうことが実際に起きたら(ああ、やっぱり思った通りだった)って。だからなのか、なんなのか、起きてしまったらはあまりパニックにならない。それで今度はそのことが一段落すると、(ああ、一段落してよかった。もしかしたらこれは後々の自分の人生にとって良いことなのかもしれないぞ)って思うのである。ちょっとこの言葉は適切じゃないけど、でもこんな風に考えている自分が無理してなくて存在する。な〜んておめでたいんだろう・・・とつくづく自分の性格を(アホじゃん)って思うときもある。
転んでもただでは起きないっていうことだろうか?起きてしまったことを、結局は自分の栄養源にしてしまっているような気がしている。
でもそんなんじゃダメなのよね。やっぱり努力っていうのをしなければ!!って、ananを見ながら思った私でした。
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