1999.11.12

京都の旅

 10月5日の「待合い室の人々」。覚えてますか?
 あのときはとても面白くて眼科の待合い室風景を書いてみたけれど、そんなことをしていたらバチがあたってしまった。
 その後ちょうど1週間ほどのち、とんでもない病気にかかった。アデノウィルス結膜炎といういわゆる夏の流行目なのだけれど、私のはひどくてひどくて・・・。2週間くらい、顔は腫れるし、角膜もひどい炎症を起こしてあんまり見えなくなるし、目は痛いし、人に会ってはいけないし・・・。こんなにひどいことになるなんて夢にも思わなくて、明けても暮れてもブルーな日が続いた。
 健康っていうのは、なんてありがたいものか、こんな私でも感じずにはいられなかった。治った今だから言えるけれど、ちょっと謙虚な気持ちになれた数週間でもあった。
 その結膜炎の諸症状が出なくなってから、前から予定していた京都の旅に出かけることになった。
 これは研究室の旅行で、土日にメンバー全員と過ごすことになっていた。私はその2日前から仲良しのMさんと女二人旅を楽しむことを計画していたのである。
 Mさんとは何年も前からの付き合いで、国内海外といろんなところを旅している。二人旅っていうのは始めてだったけれど、とにかく気心が知れているのでワクワク度も倍増だった。そして私たちの相性の良さは、ホテルの部屋でのお互いの動きが絶妙なタイミングでずれているところに大きく反映していた。これは「旅」を楽しむ上ではものすごく重要なことである。長い日数の旅になると、ある種の変な気を使い合っていたら楽しさは半減してしまう。ホテルの部屋は、旅の間は「我が家」になるのだから、そこでは思いっきりくつろぎたい。女二人旅っていうのは、どんな格好もあり!みたいなのがなんていっても楽しい。オフモードのときの波長が合わないと旅の宿では苦しいだけだ。このヘンの私たちの絶妙なバランスについてはあとで書くことにしよう。
 秋晴れに恵まれた当日。東京駅で待ち合わせして私たちの珍道中が始まった。なぜか私たちの旅では変な笑いがつきもので、気がつけば「ゲラゲラ」笑っている。よ〜く考えれば大したことではないのだけど、どうも私の笑いのツボはめちゃくちゃシンプルのようだ。そしてもう会った瞬間から笑っていたら、東北新幹線・上越新幹線の改札を通ってしまいそうになった。あぶない・・・。
 一抹の不安はあっても、今日の私はすご〜い安心感に包まれている。なんといっても、同行のMさんはかなりの「京都フリーク」なのである。一年に数度も京都に出かける彼女と一緒の旅は、大船(おおぶね)に乗った気になれた。京都は大好きだけれど、まだ3度しか訪れたことのない私は、全くと言って良いほど地理が頭に入っていない。そのくせ、行ってみたいところがたくさんあるから、次から次に「こっち」「あっち」とリクエストすると、Mさんは「それだったら、これこれこんな風な順番は?」というように的確にアドバイスしてくれる。美味しいお店もたくさん知っている。う〜〜ん、ステキ!頼もしさで新幹線の中で彼女の横顔を見ながら、惚れ直した私であった。 

1999.11.15

京都の旅 2

 新幹線の中でランチタイムを済ませた私たちは、あっと言う間に京都に到着した。
 これから2晩泊まるのは、四条にあるホテルである。チェックインをしたら、スタンダードツインを頼んだはずなのに、なんと!スイートルームだった。料金はもちろんスタンダードのまま。生まれてこのかた、スイートなんて泊まったことのない私は、部屋に入るまで妙にドキドキしていた。
 窓から外を眺めると、鴨川が見える。立ち並ぶ建物はみんな低くて山もすぐ近くに見える。私たちは早く「京都」を歩きたくて、部屋でのんびりすることもなく表に飛び出した。
 とりあえず、清水のほうを歩くことにした。贅沢してタクシーで清水寺のあたりまで行く。乗り合わせたタクシーはガイド好きの運転手さんで、とにかくあれやこれや矢継ぎ早に説明をしてくれた。 
入り組んだ道を慣れた運転で走る。瀟洒なお屋敷の前で
 「あ、これはね、西村京太郎の家。あ、それでこの隣はね、山村美紗の家。推理小説作家のね。数年前に亡くなったけど。西村京太郎と山村美紗の家は裏で繋がっててね、結婚はしてなかったけどね、そういう関係だったのね。有名な話でしょう、これって」
 運転手さんは話が終わると、トランプのババ抜きでジョーカーを他の子に引かせた子どものようにものすごく得意気になって満面の笑みを浮かべていた。
 そうこうしているうちに、目的地の清水寺に到着した。
 清水寺に入ると、平日なのに人がいっぱいいた。特に季節柄、修学旅行生が多い。自分もそうだったけど、ここは修学旅行生にとっては見学お約束の場所なのである。
 清水の舞台のところで暮れかけてゆく夕方の空を眺めながら、空気が美味しいなあと思った。この舞台は、釘を1本も使わずに造られたということも思い出した。大昔の人は本当にすごい。けばけばしくないこういうお寺を見ると、日本人はもともと本当に素晴らしくセンスの良い民族だと思う。日本の自然や気候を考えると、長い年月経って朽ちていくような木の質感が、なんともいとおしく思える。そしてそれを修復していく作業も感動的だ。
 そんなことを考えながら一時間はぼ〜っとしていただろう。それから私たちはとても真剣にお参りをしていた。
 清水寺の脇には有名な縁結びの「地主神社」があった。そこでも神妙な顔の私たちだったのだが、Mさんは以前にも訪れたことがあるので、ちょっと余裕綽々であった。なぜかあわてていた私はお清めのお水のところで「安産」の柄杓を間違って(ホント)掴んでいた。それを見ていたMさんは、「なにか私に言えない秘密があるのかと思った・・・」と、こそっとつぶやいていた。
 それから、目をつぶって石から石まで行き着くことができれば願いがかなうというのにも、恥を忍んで挑戦した。私は外人の赤ちゃんのベビーカーに向かって一目散に歩いていたらしい。Mさんの説明によると、赤ちゃんのお母さんが驚いて、前からやって来る一目散の女から赤ちゃんを守ろうと必死でガードしていたということだ。
 その後も、縁結びの柄杓をやっとのことでつかんだら、コツンと関係ない石に当ててしまったり、おみくじをやったら「待ち人は来ない」と出たり。今後の私の、不吉な(そんなことありませんように・・・)人生を物語るような地主神社であった。
 とっぷりと日の暮れた二年坂を歩くと、骨董屋さんやちょっとしたお土産屋さんが軒を連ねていた。人通りも少なくて情緒たっぷりで、今が1999年なんて思えなかった。      (つづく)