1999.9.27

ゴージャスサンダル

 しつこいくらい「夏が終わってしまった・・・」と書いていた私も、秋を楽しむことに気持ちを変えることにした。街を歩くと暑い中にも秋風を感じて、ますます気持ちよくなってきた。
 そうなったら、一刻も早くもっと秋らしくなってほしいと思う。いい加減で何のポリシーもない。
 どうして秋があまり好きでなかったかを検証してみよう。それは多分にファッションのせいなのである。秋になると今まで白やパステルのきれいな色が街中にあったのに、突然暗い色になっていく。しかもそれは茶色、辛子色、小豆色、鼠色、鴬色・・・(日本語で色を表すと雅な感じがする)というような、くすんだ色のオンパレードになる。もちろん、そういう色はとても美しいし、着てみると肌に馴染んでステキだ。組み合わせてもトーンが落ちている分、いやらしくならないし上品にもなる。モスグリーンとかは好きな色でもある。
 でも、なぜか私は茶系のファッションというのはそれほど好きではなかった。イタリアの人などは茶系を上手く着こなして大人っぽく女っぽく颯爽としているけれど、「モード」ということを考えるとなぜか黒系に気持ちがいってしまう。もうひとつ最大の理由は茶色が自分の肌の色に合わない感じがしていたからだった。
 しかし今年の私は少し違う。ベージュや茶色をあてて鏡を見てみると、なんとなく似合っているのだった。その理由は、髪の毛の色にあった。この春に、髪の色をいつもより明るめにしたところ、あれから半年経っているのにどんどん髪が明るくなってくる(色が褪色しているせいだろう)。そうすると、ベージュや茶色がなんだか似合うようになってきた。似合うと、単純に好きにもなってくるのだった。
 そういう心境にもなってきて、今やまたまた古着ブームになった。しかもそれはフォークダンスを踊りたくなるような胸に刺繍の入ったブラウスやセーターや少し前なら考えにくいようなおばちゃんっぽいスカート。そういう、一見ださいものが可愛い時代になった。そして私はそういうものは大好きなのだ。それに、インドの服や小物や、中国の小物なんかを組み合わせるとまた怪しげな可愛さを醸し出す。そしてまたその色合わせもとってもださいところが可愛い。
 この間は横浜の中華街に、そういう怪しげなグッズを探しに行った。そうすると、あるわあるわ、すご〜い怪しげな物だらけだった。そして私が購入したのは700円のビーズのバッグ。これはとてもかわいい。薄いメッシュの生地にビーズで思いきり刺繍がしてあって、色合いも白と紫でとても美しい。早速持ち歩いたら、突然持ち手が取れたりして、縫い直して使っている。それも700円だから全く許せる。
 それからもうひとつ、欲しかったけれど買わなかった物があった。それは980円のサンダル。安っぽいサンダルにキラキラ光るビーズやスパンコールで花の刺繍がしてある。それも本当にかわいかったのだけどかなり迷ってやめてしまった。それはそのサンダルのネーミングにあった。その名も「ゴージャスサンダル」。なんとなくその「ゴージャスサンダル」という名前が、ただその名前だけが私の気持ちを引き潮のようにしたのだった。

1999.9.30

美しもの好き

 世の中には、風情を大切にする人とそんなことはどうでもいいという人と、2通りいる。
 風情という言葉を辞書で引いてみると、「1.その場の情景から感じられる、なんとも言えない風流な感じ。趣。2.その場におけるその人の様子。3.来客の気持ちをなごませる何物か。」と書いてある。こうして改めて「風情」ということを考えてみると、私自身は風情を大切にしたいと思うほうだろう。1も2も3もどれも外せない事柄だ。私が人を好きになる場合、1を持っているかどうかというのは重要なポイントになる。それは男性でも女性でもそうである。だから野暮な感じが、あまり好きではないかもしれない。
 風情を全く気にしない人もいて、雰囲気とかにこだわらない人もいるけれど、いったいこういうのってどうしてこだわる人とこだわらない人がいるのだろうか。
 思い起こせば我が家では、父親が人並外れた「美しもの好き」であった。若い頃から花や植物を育てることを何よりの生きがいにしていた父親は、よく考えてみるととても女性的な人である。整理整頓が上手く、書斎も物置も父の管轄(?)場所は何から何まできちんとされていた。休みの日も朝も早くから着替えをし、掃除か整頓か花の手入れか本を読むか・・・、とても私の父親とは思えないようなきちんとした人の見本のような人なのである。写真を撮ったり、彫刻をしたり、書道をしたり、そういうこともとても多才な人である。
 ・・・と書いていると、本当に素晴らしい人に思えるが、実はとても恥ずかしい人なのである。
 父の美しもの好きは、古典的な美しいものだけではない。私が中学生の頃、家族全員で銀座に行くことがよくあった。そしてそれはショッピングに行くのではなく、なんと「宝塚劇場」に行くのであった。宝塚劇場に行くのは、宝塚の月組公演とかを観ちゃうためである。私はなんとなくあの雰囲気が恥ずかしくて全く気乗りがしなかった。宝塚ファンには申し訳ないけれど、なんかこう大げさで、ちょっとむず痒くなってしまうようなお芝居が繰り広げられるのが苦手であった。しかし、父親は喜び勇んで私たち家族を連れていくのである。う〜ん、本当に不思議でたまらない。
 公演が終わった後に不二家とかに行けることが楽しみで着いていったような弟と私。母は大らかで淡々としている人なので、だから父親の不思議な趣味に黙って着いていけるのかもしれない。
 その他にも、バレエや歌舞伎やそういう華やかなものが大好きな人なのである。見かけが地味な人って、自分にないような華やかなものが好きなのだろうなあ。
 これから秋が深まると、父の美しもの好きがもっと高じてしまうので、ちょっと恐ろしくなる今日この頃である。