人間関係の基本は「孤独」から始まる 

              哲学研  安藤 博行

 

 あたかも他にニュースが無いかのような錯覚に陥ってしまう如く、連日連夜、オウム真理教の情報で溢れかえっている今日この頃。
 南青山の総本部前では老若男女を問わず、幹部をあたかも芸能人を追いかけるのと同じ感覚で、花束を持ってサインをせがみ、あるいは、幹部が出入りするたびに、“いってらっしゃい”“おかえりなさい”と黄色い歓声を上げている光景が繰り広げられている。そして、それらの人たちの中には、“今とりあえず何をして良いのか分からないから、教団に入って教えてもらいたいから入信した”という若者たちが少なからずいる。
 しかし、この考え方は明らかに間違っているのではないか。人生にはマニュアルや解答などあろうはずもないのに、それすらも他人に依存し、何から何まで提示してもらわなければならない自分自身に、何の疑問すら抱かないということは恐ろしいことである。確かに、“人間は何のために生まれ、何のために生きているのか”という命題は哲学始まって以来の問題であり、誰もこの問題に対しての答えは出していないが、だからこそ、人間は希望を持って自分自身の「足」で生きようとするのではないか。
 「価値の多様化」ということが言われるようになって久しいが、価値が多様化すればするほど、人々は自分自身の判断を見失い、言葉を失い、集団が作り出した「集団的な価値」、つまり「共通の言葉」に自分自身を埋没させることによって、自分を見失ってしまっているのではないか。
 「集団の価値」に自分自身を埋没させ、「共通の言葉」を使って生きることは、個人にとっては「孤独」を感じることもなく、他人と軋轢を生じることもないので楽な生き方であろう。なぜなら、そこでは自分自身の価値基準も判断も問われないからである。ただ問われるとすれば、如何に集団からはみ出ずに、「集団の価値」の意向に添って「共通の言葉」を語っているかどうかだけである。
 しかし、このことは逆に多くの犠牲を払うことになる。それは、「共通の言葉」は他人の価値基準に基づいた言葉であるので、その言葉を盲目的に使うことは、前述した通り、自分自身の価値判断を放棄することになるからである。そして、他人との「関係性」の中で自らを拘束することになる。つまり、「対他的」な関係が優先され「対自的」な関係は不必要になってしまい、自ら「自尊心」すら放棄してしまうことになるのである。
 「自尊心」とは、自分を誇らしく思ったり大事に思う心、つまりは「孤独」を恐れない心である。人は「孤独」になることを恐れるあまり、他人が作り出した「共通の言葉」を使うことにより、「孤独」であることから逃れようとする。しかしながら、そこにあるのは自分自身の眼や感性で確かめ、考え、判断した「自分の言葉」ではなく、他人の価値基準の上に作られた「他人の言葉」だけである。
 「対他的」な人間は、人を判断する時に、“あの人のことは、みんなが………と言っている”という表現をよく使うが、「他人の言葉」をあたかも真実であるかのように錯覚し、何のためらいもなくその言葉を受け入れてしまうことに疑問も抱かない。そして、そのよく使う表現の中には「性質」は表現されても、「本質」は表現はされてはいないし、その「性質」にしても「共通の言葉」が作り出した虚構かもしれない。しかし、その虚構を「対他的」な人間は、あたかも「本質」であるかのように伝導することに何の躊躇いも無いのである。
 「対自的」な人間は、一つの言葉で人を判断したりすることをしないし、「共通の言葉」の共有を迫ったり、他人に対して脅威を与えたりはしない。しかし、「対他的」な人間は時には他人に対して、一瞬のうちに顔つきや態度までを攻撃的に豹変させてしまうことすら、自己肯定的・自己中心的に解釈をし、自分に都合の良い集団の中での自己の安定化だけを図ろうとするのである。
 また、「対他的」な人間にとっては、「孤独」になることを恐れるあまり、「関係性」中に自己を没入させ、自分自身が感じ、考えたこと以上に、他人から見られる自分が重要となってしまう。その結果、ただ自己の保身のために“向こう側ではああ言い、こちら側ではこう言い”というようにイソップ物語に登場する「コウモリ」のような生き方をしてしまうことになる。そして、結果的には、自らの手で「自由」を奪い、「誠実」に生きることを放棄してしまうことになる。
 「対他的」な人間は、「誠実」であることを「関係性」の中で、「外的」に他人とうまくやれたかどうかにおいて判断する。しかし、「誠実」であるかどうかの問題は、正に「対自的」な問題であり、「内省的」な問題である。なぜなら、他人がどう評価するかではなく、「誠実」であるかの評価の価値基準は、自分自身の中にしか存在しないからである。
 しかし、「孤独」であることを恐れ、形だけの「誠実」を求める「対他的」人間は、自分自身に自信がない分、他人に対して「ある言葉」を口にすることを自己の正当性を顕示せんがために強要し、時には、「ある言葉」を口にしないという理由においてのみ、その人間を排除しようとする。
 夏目漱石は“自分に誠実でない人間が、他人に優しくできるはずがない”と言っているが、「関係性」から脱却した自己の確立をしない限り、人はますます自分自身の言葉も失っていくのではないか。そして、自分が使っている言葉がどこから作り出された言葉であるかを自覚的に判断することなく、また、自分の判断が他人の価値基準に依拠してることを自覚することなく、「他人の言葉を」あたかも「自分の言葉」として使っているのではないか。それが「傲慢」である。
 「対他的」人間は、「自分の言葉」を持たないで「共通の言葉」を使うことにより、安易な仲間意識を共有することによって、集団を形成しようとする。
 それでは何故、彼らは集団を形成したがるのであろうか。それは、「コンプレックス」の故である。「コンプレックス」もまた他人の価値基準の中で自分自身を計ろうとするからである。それ故に、自分自身に確固たる自信が持てない分だけ、集団を形成することにより、自己の正当性を主張しようとするのではないか。
 しかしながら、その集団は多くの矛盾を抱えることになる。それは、「共通の言葉」を使うかどうかだけが集団の結束力であるから、共通した個人の価値判断があるわけではない。したがって、いくら表面的には一致団結しているように見えても、結局は、「声の大きい」人間の価値基準に従って、「共通の言葉」を喋らされることになるに過ぎないのである。それ故、個人が「自立」を求め始めた瞬間に、その集団は一気に瓦解するであろう。
 「孤独」になることを恐れず、「共通の言葉」から退いたところに身を置くことにより、初めて、他人の価値基準によって作り出された「共通の言葉」から脱却でき、「自分自身の言葉」を取り戻せることができるのである。その時に初めて、今まで見えてこなかった「本質」も見えてくるものである。
 石川啄木は『喰らうべき詞』の中で、“詩人であるためには、まず人間でなければならない。第二に人間でなければならない。第三に人間でなければならない。”と述べている。職業やその他の一切の「性質」から自らを解放し、ただ「一個の人間」として、他人の言葉や価値基準を一切排除し、「自分自身の中にある鏡」とだけ向き合う、この「対自的」・「内省的」な態度・思考こそが、人間本来の基本的関係である。
 そして「共通の言葉」が持つ魔力から自らを解放し、各個人がそれぞれ「自由」に「誠実」にそして「自尊心」を持って生きることが、東大小児科のますますの繁栄にとって、必要不可欠のものと考える。