老いの繰り言

              杏林大学名誉教授  阿波 彰一




 小生も平成12年3月杏林大学小児科を最後に常勤職からは退き、まだ心身ともに衰えるのをできるだけ先にのばしたい事や、自分らしい時間をもって過ごしたい事、収入、その他もろもろの理由で活動を縮小して、多くの先生友人知人のご厚意に甘えて、プー太郎的(?)毎日を過ごしている。この度、執筆依頼を受けて現在活動中の身というわけでもなく、かなり逡巡したが、若い先生方の参考となる他山の石もあるかと思い、2〜3書き記した。
 家族の中でも、今年始めに母を癌で失い親は皆いなくなり最前列に押し出され、思秋期を過ぎて次春のない、末冬期となった。
 人は年齢をとれば次第に誤謬がましく、反復或いは反芻的、ひとりよがりになるし記憶力も衰えるので、どうしても古い事ばかり残ってしまうが、老いのくり言も時効で迷惑をかける人も少なくなっていると思い、図々しくお許し願えればと思い、書くこととした。
 小生は昭和37年4月当時、高津教授の小児科に入局した。この年は例年になく入局者が多かったが入局数ヶ月後に大学院生を4名とるという話が医局長よりあり、小生も教授のところに伺ったら、「君は成績が悪く能力不充分でとれない」と言われ却下された。
 試験等はなかったので、入局後の能力評価だったのだろうと思うが、これがその後数年の苦難(?)の始まりで、医局の関連病院の短期就職口の維持のため、大学院にいかなかったK.S氏と共に男の身軽さもあったのか、大学院生が大学に残って勉強する間は特にいわゆる”ドサ廻り”を2人で頑張る事となった。
 これは貴重な経験となり今でも感謝している。事実今でも興味を持って続けている心電図ST-Tに関する仕事のきっかけはこの時にある。当時検査としてはXP、EKG位しかなく、仕方なく大学からEKGを持ち出して藤枝市立病院でいつも眺めていて、その後アメリカでYoung Investigation's Awardをいただいた仕事で、このとき、その骨格を思いついていた。
 ちょうど30歳前後の頃、故高津教授が主催された国際小児科学会が東京で開かれ、サバティカルで来日されていたLinde教授(当時、UCLA小児循環器病学)のすすめで東京女子医大名誉教授の門間氏とそれにひきつづいて小生とがUCLAで勉学研究する機会を与えられ34歳で、1969年より約3年半L.A.に留学した。このとき小生は新婚で、日がとれなくて仏滅の日に式を挙げ、L.A.でゼロから生活を始めた。この意味で生を受け、小学校1年まで過ごした現在の韓国。小学校2年より5年まで過ごした北京。その後、終戦と共に引揚者として思春期を過ごした桑名に続いて感覚的には第四の故郷となった。先述したLinde教授は夫婦共に純粋のユダヤ人で私どもに好意を持って接していただいた事で随分救われたが、いわゆるWASPでないという意識は相当強く、いつも気を張り、充分アメリカ人でありながら、どこかアメリカ人になり切れていない屈折した心情が折に触れ読みとれた。WASPと黒人を含めた有色人種の中間に立ちながら、時と場合により、振り子のように揺れ動き、どんな場合でもいつも周囲にalertであった。
 小生も日本人の親に生まれてはいるが、当時、世界地図で赤く塗られていた(日本の意)朝鮮半島(や満州)、北京で終戦までを過ごし、終戦時には北京郊外で数ヶ月、在外日本人として黄砂の砂漠の中に穴を掘って収容所(Lager)生活を送って、学校もなくなっていた時期、多数の中国人物売りの往来におびえて暮らし、帰国時には全ての子ども時代の写真、所有物を取り上げられ(持っているのが見つかると、帰還船に乗る列から外され、船を前にして乗船できなくなると言われていた)、家族全員、無事に帰国出来るかわからなかった時を記憶している。
 小生としてはLinde氏の言動や人格はよく理解できた。しかし一方で、人種のるつぼと言われ、殊にN.Y.と並んでアフリカ系やアジア系、ラテン系の人も多いL.A.での日常や病院での生活に何の違和感もなかったのは小児期の経験が関係している気がする。能力による差別はあって当然であるが、その人のせいでない人種や皮膚色、宗教、文化によって基本的な人権に差が出てきてはならない事は教えられる事としてでなく、小生にとっては、振り返ってみると、自然に問題にする以前の事となっていた。
 よく若い先生から留学の是非について聞かれるが、個々の個人的状況は別にして、意欲のある人は若い間に留学すべきである。日本人は意識せずして、よくも悪くも情けに流され易く、また、村社会意識が強すぎて平和ぼけしている。これは旅行ぐらいではわからないことで、そこで生活してみることが大切である。客観的に自分や日本人、日本の諸事情や傾向がわかるようになり、愛国心も生まれ、その上でほんとうの個人的つきあいも生まれよう。
 少子化、情報化のこれからはいろいろな意味でdispersion(拡散)の時代であり、熱力学でなくても、時間的、空間的に両方向、多方向の拡散の他はない。
 在米中に教室では、高津教授から小林登教授にかわられ、小林教授は外国視察の途中でL.A.にも寄られ、小生は何を血迷ったか、ハリウッドのストリップ喫茶のような所にもお連れしてしまった。ここに深くお詫び申し上げる次第です。
 1972年、帰国すると、まだ小児科は紛争の中心にいて、浦島太郎状態になった面があったが、帰国少し前から関心のあったシステム生理学的手法による臨床生理学的研究を開拓しつつ、関心をもつ若い先生には誰でも臓器専門としての循環器を中心にどんどん啓蒙するようにして学会にも毎年数題ずつencourageしていった。
 小生は生来のあまのじゃくで、世の中で当然の事と思われている事も皆、疑いの目で見る習慣が子どもの頃からついていて、教科書の中に書いてある事も信用せず、生のdataを出発点として整合性をみながら、「なんでそうなるの?」という、コント55号的発想で、何ヶ月も何年も考えている癖があり、そのせいか、若い人たちにはその結果、出てくる生理学的な事でidea manと思われていたようであった。これは杏林大学にうつってからもあったが、たまに学会等で他校の先生から、「共同研究者の発表についてあの考えはどう思いますか」と聞かれ、自分の考えを自分で評価、commentさせられる不思議な違和感を感じる事もあった。
 帰国後、10年くらい近くは毎年学会で地方に行く度に、心グループの先生は幸か不幸か、その地方のストリップに通う羽目になった。そこで他校の学会出席の先生に、ばったり会ったりした事もあった。病気は治っていなかったようである。これがイヤで、心グループに加わらなかった女性もいたかもしれない。平成2年、杏林大学にうつる頃にはこの病気も治癒していて、真面目な度をして終わった。

 育った環境のせいもあると思うが、小生はいわれのない束縛や権威はきらいである。自由な雰囲気に支えられた自由な発想と、患者さんから湧き出る素朴な疑問を生で受け、自由に育て上げて明らかにしていく研究が、臨床家に残された領域と思っている。
 このような性格が災いしたのか、一部の大先生には疎まれた気がするが、若い男性の先生には受け入れられる事が多かったようにも思う。
 平成2年、杏林にうつってからは、片道2時間の通勤と雑用で、その時間がなく離れていたが、生来の音楽好きが高じて大学生になって始めたcelloで東大を離れる前数年は、学生におされて、医学部室内オーケストラのplaying managerをやり、日本女子大の同好グループと公開演奏会も行った。医者に音楽、文学などの愛好者は少なくないが、これは”人間”に対する興味の表れでは・・・と感じている。
 音楽は、宗教や哲学と同様に、一様平穏でない人生に癒しと祈りを与える。音楽の本質は「共有」である。発信する主体は様々であるが、発信され、共有される事を予見して作られ、存在に至り、演奏されて共有に至る。演奏とは様々な感情や感覚に生命を与える事である。
 研究でも演奏でもimaginationに表現を与えるのは技術であり、技術は力を抜くことによって力の入った表現に至る。
 スメタナは「音楽は感情の言葉、言語は思想の言葉」と言ったが、右脳と左脳の渾然一体となった所に優れた演奏と研究が生まれるように思う。
 Love and gratitude are what counts.
     Young colleagues へ。
                       (あわ しょういち・昭和37年入局)
*「小児科だより」36号の「いんたびゅう」で、阿波先生をインタビューさせていただいています。こちらも合わせてご覧下さい。 http://www.interq.or.jp/aries/ped/Int-18J.html
2002.10「東大小児科だより」


菱 俊雄