坂本 龍一来訪記

 めだかの学校の年間で最も大きな行事のパザーが,1993年11月6,7日の2日間,まるでデパートのSALEさながらの賑わいで嵐のように終わった。気が抜けてしまって脱力感でボ一ッとしているところに,思いもよらないニュースが舞い込んできた。
 一度聞いただけでは耳を疑うそのニュースは,『音楽家の坂本龍一氏がめだかの学校に遊びに来たいと言っている。』ということだった。
 もう少し詳しく説明すると,坂本龍一氏がニュー∃−ク行の飛行機の機内で育児雑誌「プチタンファン」8月号に掲載されためだかの学校の記事を読み,ぜひ遊びに来たいと思い,なんとかこちらに話をつけたいということで,媒介者になったM電通の岡崎さんという方が私たちに連絡を下さったのである。
 私にはそれがどうしても真実の話と思えなくて,「どっきりカメラじゃないよね?」と半信半疑だった。
 さらに岡崎さんの話では,全く売名行為ではないという事だった。
 一度打ち合わせに来るという岡崎さんが現れるまでは(もしもなにかの間違いだとがっかりするから,絶対に期待しないんだ。)と舞い上がりそうな心に必死で重しを乗せて,数日を過ごすことにした。
 「こんにちは。はじめまして。電通の岡崎と申します。」数日後,目の前に現れた岡崎さんは背が高くて体格がよくて,貧弱な私からは,ものすごーく大きな人に見えた。
 しかしニコッと笑った顔が邪気の無い,見るからに温厚な方だったので,会った途端に単純な私に変わり,全てを信じることにした。(なんて現金なんだろう)
 これは隠密の計画ということ。私はこの「おんみつのけいかく」という言葉にとてもわくわくした。子供の頃T∨で観た紫の衣装を纏った女忍者の姿が,何故かサッと頭の中をよぎった。それから着々と,この隠密の計画の構想は練られて行った。
 そして,12月17日(金)午後1:00に,坂本龍一氏はめだかの学校の音楽の授業に講師としていらっしゃることが決定した。
 坂本龍一さんについて,その時点までの私の知識は,音楽家で現在はNEW YORKに住み,作曲活動を主に行なっているということ。映画「戦場のメリークリスマス」の“Merry Christmas Mr.Lawrence”という曲や「シェルタリング・スカイ」「ラスト・エンペラー」「子猫物語」などの映画音楽を手掛けたということ。20年位前にYMO(イエローマジックオーケストラ)というコンピューターミュージックを世間に広めた日本における先駆者のグループの一員として爆発的人気を得たこと。奥様が矢野顕子さんという,やはり実力派のミュージシャンであること,ぐらいだった。あまりT∨出演をされない方だったので,私達一般人が彼の人となりを感じられるようなメディアはなかったかもしれない。けれどもYMOを解散してからの彼はいつしか「世界の坂本」と呼ばれていた。
 坂本さんが来るまでに,今現在はどのような曲を創られているのかを知っておきたくて,ヤマハの楽譜売場に行ってみた。そこで売られていたピアノ譜は5種類ほどあって,どの本も馴染みやすいメロディアスな旋律の曲が多かった。私はその中でも一番シンプルなタイトル「坂本龍一」という楽譜を一冊だけ買うことにした。
 真っ白い本のちようど真ん中にいる坂本龍一は,頬杖をついている。ぺ一ジをめくっていると「ゴリラがパナナをくれる日」というタイトルが,目に飛び込んできた。可愛くて面白いタイトルに現代の様々な問題が提議されているような奥の深さを感じて,楽譜を見ながらドキドキしてしまった。

 それからは怖いくらいに話がとんとん拍子に進み,おだやかな晴天の「12月17日」を迎えた。
AM 11:00に電通の岡崎さん,コンサートプロデューサーの石坂さんがいらして簡単な打ち合せをした。これまでにも何回か岡崎さんはいらして下さって話を煮詰めていったが,石坂さんや坂本龍一氏のマネージャーの空さん(美しい方)と谷頭さんも,めだかの学校を事前に見学にいらして下さっていた。たくさんの人がこの計画のために動いて下さっている。
 「トゥ〜ン」・・・普通とは違う,弦を直接弾いているのかなあと思わせるようなピアノの一音一音の余韻がめだかの学校の部屋に響いている。今日のために,ピアノの調律師の方もいらした。
 「この部屋は木の床なのに,音を吸収してしまいますね。なまりが壁にはいっているんでしょうか?」「・・・ここは昔,レントゲン室だったんですね。」調律師の方の質問に岡崎さんが答えている。
 (なまりがはいっているんだ。)少しだけこのことに動揺してしまった。せっかく演奏して下さるのに,ベストコンディシ∃ンでないことがとても申し訳ない気持ちになった。
 それでもピアノを調律する音が心地よく響いている。こんなに真剣に調律の音を聞いたことは,今まできっとなかっただろう。
 先ほどの打ち合せで決定した今日のめだかの学校の授業の流れは,まずいつも通りに音楽の授業をみんなで始めている。始まって10分から15分くらい経った頃,坂本さんが登場する。1時間ほど坂本さんの授業が続き,最後はこちらにパトンタッチするという構想だ。
 今日は、全く予期していなかったゲストの方々も参加して下さる事になったらしい。コンサートツアーで坂本さんと一緒に海外のあちらこちらを回っている外国のミュージシャンの方が3人も応援に駆けつけてくれることになったのだ。こうなると本格的な「めだかライプハウス」である。
PM1:00には坂本さん一行が「楽屋入り」する。2階の名警教授室はにわか楽屋に変身した。

 子供たち,お母さん達で,めだかの部屋はこれ以上入りきれないくらい満員になり,看護婦さんや先生方は廊下での参加となった。めだかの学校で初めての,子供たちが全員参加の授業である。控室では坂本さん達が準備万端で待っている。 
 まずは「いぬのおまわりさん」の合唱。みんな,いつもよりかなり元気なようだ。「とんでったパナナ」を歌い終わったところで合図をされた。わあ一!とうとう坂本さんの登場である。みんなが待ちに待った瞬間。大きな拍手で迎えると,坂本さんもとても緊張した面持ちで入ってきた。
 「こんにちは。坂本です。今日は僕の友達も一緒に来てくれたので,あんまり普段聞いたことのない変わった楽器の音も聞けると思います。」
 マイクは使わないことにしたので,少し聞き取りづらい小さな声だった。卜長調の甘く柔らかなメロディが流れる。オープニングは「200年」という曲のピアノのソロ演奏である。短いけれどドラマティックなこの曲は,すっかりめだかの部屋を“コンサート会場”に変えてしまった。
 そしてメンパー紹介。座布団に座っているパイオリニストの方は,インド音楽の演奏家である。その後ろはプラジルからいらしたチェリストのジャックさん,そして入口近くに立っている黒人の方は,パイオリニストのエパートンさんだ。インドの方は,占師のような霊験あらたかな雰囲気が漂っている。ジャックさんは穏やかで,私が好きだったボプ・ジェームスというミュージシャンに似ている。エパートンさんは少年のようなイタズラっぽい目をしていて,人なつこそうな方だ。
 次は,あの「ゴリラがパナナをくれる日」である。なにか物悲しい感じの切ない曲だった。3曲目は「SONGLINES」。4曲目は「シェルタリング・スカイ」のテーマ曲。そして5曲目は「M.A.Y. in the Backyard」という,坂本さんが小さい頃住んでいた家の裏庭にいた3匹の野良猫が,じゃれたりけんかしたりしている様子を描いた楽しくて軽快な曲だ。演奏中に坂本さんが大きな音をたてて左足で1拍ずつリズムを刻むのが面白かったらしくて,ゲラゲラ笑っている子もいた。
 次は,インドのパイオリニストの方との即興である。即興のようなわけのわからない曲に,子供たちはどう反応するかな?と思ったけれど,みんな,一生懸命聞いている。
 そしてアップテンポの楽しい曲「TONG POO」。これはYMOの「東風」をクラシック風にアレンジした曲である。東洋の風の香りいっぱいに包まれて,この曲ではみんなが身体でリズムをとって楽しんでいた。
 気持ちがすっかり高揚したところで,多くの入が知っている美しいメロディが流れ始めた。「Merry Christmas Mr. Lawrence」である。ピアノの音色が,まるで降り始めた雪のようだ。パイオリンが,繰り返し何かを私達に問いかける様なメロディを,奏でる。
 優しいけれど,果てしない力強さを表現しているようなこの曲を,こんなに近くで聞くことができた。しかもここは「東大病院」の「小児科」の「めだかの学校の部屋」である。恥ずかしいけれど,ただ単純に涙が出てしまった。素直に感動してしまった。
 「ブッダ」を描いた曲が9曲目に流れる。映画「リトル・ブッダ」のテーマ曲である。この曲が,今日のラストの曲になった。
 「あんまり長いと疲れちゃうと思うので,これで終わりにします。たくさん来てくれてありがとう。がんばって病気と戦って早く元気になってください。」
 小さくて聞き取りづらい声だけれど,説明もあいさつも最初から最後まで一貫して,子供たちにわかりやすいようなやさしい表現だった。
 その後の質問コーナーでは,やっくん(児玉康利くん)が自分で作曲した曲を坂本さんに聞いてもらいたいとお願いをした。坂本さんは目を丸くして感心して,「自分の由は好きですか?」とやっくんと目を合わせられるくらい首を傾げて,やっくんの表情をじっと見ている。やっくんは,大きく自信を持って「YES」と返した。
 とうとうプログラムの最後。いつもめだかで歌っている「鳥になる」の合唱が坂本さんへのプレゼントになった。

 一見,鋭く何もかも見透かしてしまいそうな目には「今を見ている」というより,後にも先にも「時代のもっともっと遠く彼方を見ている」ような深いものを感じた。それは,こんな小さな空間で演奏をしている時の坂本さんの態度に集約する。彼はあれほど有名でありながら居丈高なところがなく,むしろ「特別には見て欲しくない」と匂わせるものを端々に秘めていた。末知に対する緊張感と開放感が共存していた。彼の周囲の方々にも,それに似ている「におい」を感じた。
 本当に偉大な人は,皆そうかもしれない。まして音楽で自身を表現して押しも押されもしない存在になった場合,常に自分と,自分を見ている周りの目とのギャップがあるに違いない。
 いつでも心のままの表現をできる為に”ストレンジャーになれる”場所が必要で,だから彼は東京でなくニュー∃−クを拠点としたのかもしれない。  (1994.3.1発行・東大小児科だより30号)