小笠原 正博さん

 東京中央区の京橋2丁目。オフィスのビルに囲まれて画廊があちらこちらに点在している。
ギャラリーアリエスは、少し歩けば銀座の繁華街という好環境の、ビルの2階にある。
 オーナーの小笠原さんは、昨年の夏、めだかの学校の子供達にと、無料でギャラリーを貸して下さった。その後、この画廊で個展を開いたことのある新進気鋭の画家の方々を紹介して下さって、月に一度「アートパフォーマンス」と題した、めだかの学校の授業中に子供達の前で作品を創って残すというプログラムの、大きなきっかけを作って下さった。
 小児科のシンボルマーク「ののちゃん」の作者関孝行さんも、以前ここで個展を開いたことがある。

 港区の芝で生まれた小笠原さんは生粋の江戸っ子で、生まれてから今まで銀座界隈を離れたことがない。こどもの頃は、第二次世界大戦でアメリカが勝った影響で、尾張町(現在は銀座4丁目)あたりのクリスマスの賑わいが今とは比較にならないほどの華々しさだったそうだ。
『家は祖父の時代からの寿司屋で、私は長男で弟が3人いました。小学校5年生の時に一人亡くしたので今は兄弟3人です。小さい頃から家の中と商売が一所くたになっていたので、忙しければ手伝うのが当たり前でした。中学くらいから手伝っていましたね。親も、盆と正月くらいしか休まなかったので、働くのが当たり前で、今でもその習性は抜けませんね。そういう人たちが沢山いたから、戦後の日本の復興は速かったのだと思います。』
 お寿司屋さんの子供として育った小笠原さんは、いつ頃絵の世界に目覚めたのだろうか?『子供の頃は外で遊ぶ所がなかったので、いつも絵を描いていましたね。自然に触れられる所は芝公園や浜離宮くらいで、近くに野原があったわけではないですからね。物心ついた頃から絵を描くことが好きでした。好きだと自然と上手くなる。いつも一番でしたね。絵について採点なんてしてはいけないと思いますが、絵が好きな人は上手くなるし、点数もいいのかもしれない。将来絵の道に進もうとは思わなかったけれど、意識して描くようになったのは小学校5〜6年生くらいからでしたね。僕は人と同じ様には描かないようにしていました。物を前から捕らえることと側面から捕らえることを意識して、壊していく作業というのかな?前から見た物を一度壊す、横から見たらどうかな?それをとても意識していた。普通、写生とか静物を描くときその通りに描いてしまうけれど、それはしなかったですね。大人になるにつれて、画家になろうかどうしようか、30才位までは思っていました。現に個展も10回以上開いたけれど、諦めました。売れないし、それ以上の力が無かったし、自分で描くだけでなく同じ次元で見ることができればいいだろうと思ったんです。自分の表現した物を発表したいというだけでしたし、長男として家業を継がなければならないような宿命的な物もあったので、自分だけが飛び出すわけにはいかなかったですね。』 お父さんが亡くなって、門前の小僧から家業を継ぐことになった。その時小笠原さんは既に30代になっていた。
『画廊は40代になってから始めました。日本では世界的な作家が余り出ていない。それは若い作家が育って行ける環境がないからです。絵を買う人も将来いくらになるかという目的があるので、好きだから買うのとは少し違う。一部の大きな画商が作家を作り出していったようなものです。「この作品はいいですよ。」と言われると、日本人は否定できない。評論家が言えばその通りに聞こえたりする。でもそうじゃないんですよ。「誰かがあれをいいと言うけど、僕はこっちが好きだ。」というふうに見る側もそうしていってほしい。僕は、評論に染まってきているある程度の年齢の作家より、今何もない若い人達、これからという人を育てられればいいなと思ったんです。』
 確かにギャラリーアリエスでは、若い瑞々しい感性の作家達の作品を取り扱っている。これまでのアートパフォーマンスでも、油絵や彫刻の作家の方々が、小児科に素敵な作品を残して行って下さった。
『売れている作家だけを扱えば利益になるし、儲かりますよね。だけど「芸術というのは創作することだ。」とか「人に感動を与えなければいけない。」なんて考えていると、「売る」ということとは違ってくる。売れなくてもいい物だけを扱いたいということが認められるのは随分先になってしまうのでしょうね。20代のうちに売れる作家なんていませんからね。やはり40代になってからでしょうから。僕はいい作家を取り上げていきたいという意識しかないですね。自分にとって素晴らしい物を表現してくれる人を選んでいくわけですから、他で売れている人を取り上げていこうとは思わないです。絵に対する「思い」というのはあります。これじゃ食べていけないよね。若い人を取り上げている画廊は「貸画廊」としてレンタルフィーをとってやっていかないと、画廊も成り立っていかないんですよ。作家の人もどこかでアルバイトして稼いで、リスクを背負わないといけない。みんなリスクを負いながらも、いい作家が育ってくれればと、願っているのだと思います。』 
 小笠原さんから、私たちにこんなアドバイスがあった。
『一般の人に言いたいのは、とにかく分からなくても絵を沢山見て欲しいということです。絵は写真で見るのとは全然違うでしょ?何でもいいから沢山見ること。そうすると自然に好きになっていきます。好きか嫌いかでいいんですよ。そのうち、いいものと悪いものをわかってくる。「自分にとってどうか」が一番大切なんです。いい絵というのは、見た時の直感しかないですよね。いい作品はその作品が飛び込んで来るというか、インパクトがあるんです。気持ちを刺激するんです。
 絵が難しいという人は何が描いてあるかを見るでしょう?「これは何だろう?」と言葉に一度置き換えようとするけれども、そうではないんです。音楽は耳で聞いて「好きだな」とか「嫌いだな」と、すぐに感じることができるのに、絵は見てから一旦頭の中に入れて、それから感じたことを言う人が多い。本当は視覚も聴覚も同じで、目で捕らえて、一瞬のうちで好きか嫌いかで、いいと思うんだけどね。絵は決して難しい物じゃないんですよ。』
 小笠原さんが感じる「才能」というのは、果たしてどういうものなのだろうか?
『小さい頃天才的に絵が上手でも、大きくなってからうんと伸びる人は殆ど今までで言えば、「ピカソ」以外いないような気がします。ということは、自意識を持って「何を描くか」ということを整理して描き始めないと、絵は誰でも描ける。しかし描くというのは物を描くという単純なことではないんです。絵が上手いということと、人に感動を与える絵を描くということは違いますよね。絵の上手な人は世の中に沢山いる。本当に沢山いる。でも、感動を与えられる人は何が違うかというと、絵に表す気力、気迫、きちんとしたコンセプト、これらがなければ人の心を動かすことはできないですよね。かつ想像力、現代的な力、現代から未来に続いていくようなもの、上手に描かれているということより人を惹きつける力が有名な作家にはあるんですね。芸術というのは何か特異な物があって、人に感銘を与えられるとしたら、その人自身が「特異性」を持っているということでしょう。それが「才能」と呼べる物ではないでしょうか。
 芸術というのは、創作することですよね。人と違う物、オリジナリティ、少なくとも誰かが以前やっていたことを表そうとしたらだめですよね。音楽も、クラシック、ポピュラーとあるように、絵もPOPな感じの物もあれば、歌謡曲的な物もある。でも、もっと質を高めようと追求していけば、大衆から離れていく絵になるのは仕方ないですね。創作意欲が描きたい物を描こうとすればするほど、人より先を行ってしまったりするんですよ。えてして絵というのは、後から認められるということが多いですよね。没後認められる人が多かったのは何故かと言うと、そういう画家は「物の考え方が先を行っている」わけです。同じ世代では受け入れられなくても、先に行けば受け入れられる。でも、本当は生きている間に売れたかったでしょうね。』
 ニューヨークのメトロポリタン美術館では、小学生の子供達が、ぺたんと床に座って、壁に掛けられた大きな絵を見上げながら、品の良さそうな年配の先生の話に聞き入っていた。日本でもそのような美術教育が小さい頃からされていれば、美術館という場所が、もっと身近で、敷居の高い所ではなくなるだろう。『私たちの国は、今まで経済優先で来てしまって、お金に対しては敏感だったと思います。一番遅れたのは文化、芸術やゆとりではないでしょうか。気持ちのゆとりに刺激を受ける人は今までの世代ではなかったことなんです。それでも日本がここまで来たのは、これまでの人たちの成果で、これから先の人たちに文化的なことを期待したいと思います。好きか嫌いかを、ぱっと判断できる人たちになりつつある。それは素晴らしいことなんです。
 あらゆる所に絵が飾られたら、いいですね。アメリカでは大手の銀行が美術コレクションを伸ばしていて、現代作家の物を大変な金額で買い集めていたそうです。しかも作家の無名時代から買ってあげていたらしいです。
 結局日本の中でトップへと考えた人たちは、勉強や仕事に忙しくて、ゆっくり自分の内面へ働きかける時間がなかったのではないでしょうか。でもこれから何が大切か、認められる時代が来れば変わっていくように思います。ヨーロッパでは絵で食べていける人が沢山いるのに、日本では殆どいないですからね。
 こんなに素晴らしい物に出会ったことがないと思うほど身震いできる物は、人間の創り出す物の中では、芸術しかないですからね。』       (インタビュアー 三上敦子)                                                                                                                                                                                                                         
 
                         

Edited by Atsuko Mikami