養老孟司先生

僕は4才の時に父親が亡くなったのですが、物事の記憶がそこから始まるんです。母が小児科医として働いていたので、赤ん坊の泣き声を聞いて育った様なものです。普通の人と少し違うかもしれないところは、父親の死と自分の最初の記憶がまつわりついていてそれに関連することしか覚えていないんですね。それからしばらくして小学校に入るまでの1.2年位のことは鮮明な記憶として残っています。幼稚園時代のこともよく覚えています。僕があまり口をきかないというので、母が「この子は白痴に違いない。」と思ったというんですよ。小児科医のくせに僕を知能検査に連れて行って、検査したんですよ。なぜ僕が話をしなかったのか、今でも理由はわからないけれども、父親の死がかなり大きな衝撃になっていたと思うんです。なぜそれがわかるかといえばその前後の記憶を徹底的に覚えているからです。ほとんど全てがそれにつながっている記憶で、それに関係ない記憶は幼稚園の記憶です。幼稚園の頃の僕の内部の感情というものは、今考えても、よく理解できる。大人の感情に近いです。羞恥心が非常に強かったですね。
だから口をきかないのも当然で、人見知りがとても強かった。母はそういうことをあまり気にしない人だったから。職業的にも医者をやるくらいだから外向的だったと思うんです。まあそういうことはあてはまらないかもしれないけれどね。もう一つは左利きを無理矢理直されたこともありますね。それに内向的だったので、友達とうまくやれなかったので、母が僕のことを誤解していた面もあると思います。それで小児喘息と自家中毒で、年中死にそうになっていたらしいのです。それも今思えば一種の登校拒否で、幼稚園もほとんど休んでいましたよ。休むと次に行くときが恥ずかしいでしょ。だからどんどん行きたくなくなるんです。例えば、幼稚園のホールで子供たちが車座になっていて先生がボールをぽーんと放る。「○○ちゃーん」と先生に呼ばれた子が立ち上がってボールを受け取るということがあったんです。「たけしくーん」と先生が呼んだので、僕は立ち上がったんですが、もう一人の子が立ち上がってボールを受け取ったんです。僕は立ち上がったのが遅いから、そのままもとの席に戻れなくなってしまったんです。その時、僕が何を考えているかというと、先生が僕のことを忘れていたことは間違いない、つまり同じ名前の子が一人しかいないと思っていたことも間違いない。その時の相手の心理まで考えてすくんでしまって動かなくなるんですよ。先生が間が悪いだろうなってことが先に来ちゃうんですよね。ところがあのくらいの子供はだいたいそういうことは全部分かっているんです。大人はみんな、子供にそういう感情がないだろうと決めつけるんですが、そうじゃなくて口がきけないだけなんです。表現しなかったりするから頭の中に何がはいっているのかわからなかったりするんだけど、僕の場合、母親が全く理解しなかったのではないかと思います。仕事を持っていてそこまで関心が回らなかったのと、戦争中だったこと、父親が死んで間もなかったこと、いろんなことが重なってたんでしょうね。
 母親は並みの人間じゃないですからね。母親が作っている世界が子供にとっては世界になるわけですから、その世界のルールを確実に子供は身につけてしまいますよね。だから育っていく過程で一番大変だったのは、母親が作っていく世界と外の世界は確実に違うということをどう學んでいくかっていうことだったんです。しかも普通は父親がいるからバランスがとれていくんだけど、父親がいないから一切を自習しなければならない。しかもその上内向的だから、一歩踏み出してみて間違えて覚えるということをなかなかできない。はっきり言って母親は最後まである面に於いて私を理解しなかったのではないでしょうか。おそらく別な見方をしていたんじゃないかな。母が僕を見る別な見方の中で、非常に大きな位置を占めていたのは、父親だったんです。父は若くして亡くなっていますし、いろいろなことがあって母と一緒になった人ですから、母は私を父親の代わりだと思っているところはあったと思います。
半分は僕を見ているけれど、半分は僕の中の父を見ていたんでしょう。僕には物心ついたときからそのことがわかっていましたね。ですから人の愛情については僕はある意味では冷淡ですよ。今考えれば、そういうところから発しているのではないかと思います。「人が誰かを愛するということは、その人の思いこみで成り立っている」という考えが僕には非常に強いんです。
兄にも言われますね、「母親は孟司だけだった。」しかし僕からすれば、僕だけを見ていた訳じゃない、半分は父親を見ていた、と思っていました。
 母は私を「自由にさせる」と口癖のように言っていました。だけれど非常に強い枠をかけていたと思います。
日本の社会は枠で出来ている。しかしその枠をできるだけ意識しないという約束の上で出来た社会です。いったんその枠に触れようとしたなら、社会的にもものすごい抵抗があります。まさに命がけじゃなければどうにもならないといった枠をもっています。
例えば死体を扱う、パブリックにどうこうするということは日本では徹底的にタブーですからね。僕が大学を辞める直前に実際の人体標本を展示したのです。これだって展示するまではいろいろな意見がありました。一種の強行突破でやってしまいました。最初の委員会があったとき、解剖の先生が10人くらい集まってまず出た意見は「そんなものを一般の人にみせていいのでしょうか?」だから僕は「貴方が30年見ているものを何で一般の人が見てはいけないんだ」って言ったんです。つまりその人の枠は「考えなくてもこれは決まっている枠なんだ」という、その強さというのは大変なもので、僕の母親はそれを体現(大言)していたのは間違いないです。徹底的に自由にさせていると言ってますけれど、その枠だけは外せない。しかもその枠を、子供を見てコントロールできるくらい、頭のいい人でしたから、ずるずるずるっとその枠を表面的に後退させていくことは母にとって何でもないことなんです。しかしまた、押し返して来るわけでしょ。日常的に何気なく。僕はグレートマザーと言う言葉を聞いたときすぐにわかりましたね。これはうちの母だって。
だから僕が東大にいる時、「権力」というものに徹底的に反発したくなるというか、それを中立化してしまおうと無意識のうちに反応していたんです。
それは母に対する反応と一緒ですよね。その世界は暖かくて居心地がいいとは思えないんですね。普通は「母の愛」とポジティブに考えられるのかもしれないけれど、僕にはそうは思えなくて「母の枠」と漠然と考えてしまうんです。だから僕は、子供は何でも良く分かっているんだと言いたいのです。
 母親が僕に医者になって欲しいと言う気持ちは非常に強くて、僕が進学するときに「動物のことをやりたい」と言ったら、母はたまたまその時、急性肝炎にかかっていて、寝床で死にそうな声を出して「医学部を受験してくれ」と言うんです。だから仕方なく僕は医者になったけれど、結局医者はしていないでしょ。考えてみれば子供の頃からやっていることに一番近いのは解剖でしたね。母がそういう方向に押してくるから、僕も別な形で押し返していくわけで非常に辛抱が続くわけです。闘っているようなものです。絶対に飲み込まれまいとする時の絶対の武器というのは、相手方に合わせて押したり引いたりしていることですね。もう一つのやり方は縁を切って出て行くしかないんですよ。でもそういうことを理性的に話せる年齢になった時には、母はそんな言葉が通じない年齢になっていましたから、結局そういう話はできないままでしたね。母は若い頃、体力にも恵まれ、サポートする人にも恵まれていましたからね。何らかの才能や、外見にしても、世の中を生きていくためには随分得なものをいっぱい持っていた人だったと思います。
 姉と兄が僕にはいたのですが、いつも「この子は変な子だ」と僕は言われていたんです。おねだりをしない。物を買ってもらいたいときでも非常に遠回しに言うんです。「買ってもらえなくてもいいんだけど…」という感じで言うんです。子供らしくない、素直じゃないって言われていましたよ。それは相手のことを先回りして考えるのが習慣になってしまっているんです。しかしそれはグレートマザーの裏返しですよ。母は僕のことを考えてこういう格好になった、こういう格好になったと言うものですから、子供はそれを見ているんですね。だから僕は小さくて何もできないくせに、相手よりも先に相手を飲み込んでしまおう、包み込んでしまおうとしてしまう。それを母は無意識に僕に教えているんです。こどものくせに大人をかかえこむことなんかできっこないのに、どうしても抱え込もうとする癖は、僕はそうやってできたんだと思うんです。
父親は僕とは全く違ったみたいですよ。今考えてみると子供の僕は父親としてかけた愛情をかけてきた、だから僕はどうなったかというと人間を見るよりは自然を見るようになったんです。幼稚園から帰ってきて、家の横町に座り込んだまま動かない。しばらくして「何をしているんだ?」と聞かれて「犬のふんを見ているんだ」と言うと「そんな物見て何が面白いんだ?」と聞かれて「虫が来てる」と言ってまたじーっと見てる。それくらい虫が好きだった。実際僕はカニが大好きで、海に行くと小さなまん丸の砂粒を作るカニがいるんですよ。穴を掘って砂の中に入っていって、まん丸の砂粒をたくさん作るんだけど、足音がするとすっと穴の中にはいっちゃう。僕はそのカニをずーっと見ているんですよ。今でもそのカニをたまに見ると、どきっとするくらい惹かれるんです。そういう意味で僕は人間嫌いなんですよ。小説で一つだけはっとおもったことがあって、曾野綾子が沢山の人とお見合をしてその相手について書いた小説があるんですが、ある農学部の人で虫や動物が好きな人がいて、その人は人間に対する愛情が足りないと書いていたんです。僕がそのことが印象にあるのは、僕の側にそういう感情があるからでしょうね。一般的にもそんなことあるはずはないんですけれど、さかのぼっていけば何か理由があるということなんでしょうね。僕は人との関係を無意識的に避けて来たんでしょうね。関係を問われる立場に引き込まれそうになると、逃げちゃう。大学をやめるのだってそれに近いですよね。しかし自分の息子を見ていると僕と全く逆のことをやっているから面白いね。やっぱり人を動かそう、動かそうとしてるんですよ。だから自分が何もできない状況でも自分が特定の態度をとることで周りを騒がせようとする。僕の母がそれに近いですね。僕はそれを権力とよんでいるわけで、権力者の発想だと思うんですよ。とにかく周りの人間を自分の力で動かそうとするんです。しかし個人の力は限られている。状況を見てそこにいろいろな状況を作り出していって、その中で人が動くことに満足する。権力志向というのはまっすぐに出る場合と、屈折して出る場合と二通りあるんですね。毛沢東と周恩来みたいなもので、母はどう見ても毛沢東でしたね。まったく自分では意識しないけれども必ずボスでいなければ気が済まない人でしたね。でも母の面白いところは、それと同時に絶対に公職につかない。世の中のオーソドックスなルートを、鼻から拒否しているところがありましたね。だから、僕が今この年になって、もう一度勉強し直さなければならないのは、普通の人間になるにはどうすればいいかと考えなければならないんですよ。それじゃ、そういう世界からとっくの昔に飛び出せばいいじゃないかと思われるかも知れないけれど、子供の時にかけられた世界の枠というのは極めて強い物なんですね。今の人たちは、人間関係の中で出てきているから、殆どそうなんです。それを救ってくれるのは自然だけなんです。あれは人間の作った物じゃないから、こちらが浅知恵で考えても、とんでもないことが起こる。それは救いなんですよ。自然は信頼していいものなんです。その中で起きたことで人間の力不足なことも、これが人間の本来の生き方だと思うんです。けれども人間関係の中ではそれと違うことが起こる。裏切られたり、というのはまさしく人間関係だからです。自然は、決して裏切ったりしませんからね。
 奇妙な話ですが、自分の今考えていることをさかのぼって考えていくと、子供の頃から同じなんです。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、全くその通りと思います。
 おまえは学者以外なれないと周りからずっといわれてましたからね、それはもう母の持っているものが移っているんですね。「ああもう面倒くさい!組織なんてどうでもいいじゃない」なんて一番最後に言い出したり。
 身体は自然、心は人工だと僕はいつも言っているんです。心は意識できますからね。そう言うと誤解を招きますが、要するに身体というのは完全に意識の思うようにならないという面を持っているんです。(オウムの多くの人たちは)交通事故がきっかけで入信している。自然に対する感受性がないんです。他の人間まで意識だと思っているから、彼らは「洗脳」ということを信じられるのです。彼らの闘いは意識の闘いです。(上祐氏は)言葉の世界は言葉の世界で独立して動いていることが、誰にでもわかってしまうのです。けれども若い人たちの中にはかなり多くああいう人がいるように思います。
 解剖学は人間の身体を言語にしていく作業だ、と僕は若い人たちに言っていました。人間の身体はもともと言葉になっていない、人間は自然の中に生まれて、周囲の物に名前をつけていった。空に光っている星、照りつける太陽、とにかく中身はわからなくてもレッテルをつけていくと安心するから、まるで缶詰のラベルのように名前をつけていったのです。しかしある日はっと気がついた。自分の身体の中には名前がついていないじゃないか?だから解剖は名前にこだわって、学生は名前を覚えさせられて閉口するという構図ができているんです。
しかしそこにあるものは、世界を言葉にしていった人間たちが、まだ言葉にしていないという領域を発見する歴史である、解剖学はその典型なのです。ところが、僕は最初の本を書いたときに愕然としたのだけど、「言語はコミュニケーションの手段である。」と言われた方がいて、僕は「言葉は作り出すものだ。」と憤慨したんです。けれども現在の日本では「言語はコミュニケーションの手段である。」とまさしくそれなんですよ。人間と人間の間を通じさせる物は言葉であって、それがどこかから産み出されている、つまり自然なら自然、僕は現実と言っていますが、現実と直面することによって産み出されてくるという意識はもうゼロです。できあいの言葉をたくさん知っているに過ぎないのではないかと思います。(上祐氏は)言葉の運転の達人だけれどもただそれだけに過ぎない。
学生に講義していて一番いやだったのは、僕の言葉がそう受け取られているということがわかっていたからです。だから僕の言っていることが学生にとっては、ある一つの論理的可能性に変わっているんですよ。そうしたら講義するのがいやになってしまったんです。本音を言っても通じない。「先生はこう言ってるけど、こういう考え方もありませんか?」こうくるわけです。そう言われたら、僕が57年間やってきたことは一体何なんだろうと思うわけです。全てが論理的可能性にもう一度初めから還元するんであれば僕の話していることは何の意味も持たないことになる。それを理解する感性がないんだよ。講義していて質問されるとすぐにわかりますよ。こういう可能性もあるんですが?」というタイプの質問が来る。だから僕は「君、頭がいいね。」と答えますね。言ってることは正しいんですよ。けれど実際に物事に直面してほしい。若い人に言いたいのはこれだけです。
マニュアルというのは極めて平たい物でしょ?個人の責任というのはいったいどこにあるんだと言いたいんです。個性を大学がつぶして何になるとも言いたい。それが枠の考え方ですよ。江戸からの伝統ですね。学校教育で絶対に触れないこと。それは「宗教」と「哲学」なんです。犯人は「教育勅語」なんですよ。教育勅語が出来た時にその中に入っていなかったもの、それが「宗教」と「哲学」だったんです。「言うことを聞きなさい。自分で考えなくてよろしい。」ということなんでしょうね。それがマニュアルでしょう。だから教育勅語の中身は百科事典から消えています。項目はあるけれども中身は消えている。内容を消してしまえば形式は残る。それが江戸以来の日本のやり方なんです。  僕は「おまえの好きにしなさい。」と母に言われても最後まで納得しませんでしたね。
「あんなこと言うけど好きにできないじゃないか。」と思っていた。それはまさしく日本の社会そのものでしょ。
 オウムの報道の時、桂文珍のコメントを聞いていたら「国民は情報を十分に知らされていないから」と言ってたんですよ。でもこの考え方が一番怖いと思う。国民は知らされていないという意見の中に、オウムは国民ではないというニュアンスがあるんですよ。警察も国民ではないという。それがまさしく戦争中の非国民というものですよ。だれが国民を定義したというんだ?麻原彰晃だってちゃんと国民で日本人ですからね。
 日本では根本的に意識されるものでなければ「存在」していないんですよ。だから、別の言い方をすれば、人間を信頼していない。それでは人間同士がみな同じ人間であることを保障しているのは「意識」か?そうではない。今の生物学で言えば遺伝子なんです。我々が頭で考えなかったものですよ。この話をするときに僕が言うことは、100人いる部屋で「皆さんの座席に自分の脳を取り出して置いて下さい。」と言うんです。もちろんできることではないですけれどね。「そしてその脳を椅子の上に置いて、一度退出して下さい。」と言うんです。「私がその脳を全部入れ替えますから、戻ってきたら自分の脳のあるところに座って下さい。」座れないですよね?しかし1個だけ人間の脳を残して、あとをゴリラとオランウータンとチンパンジーの脳にしたら、「この一番大きいのは俺の脳だ!」と言って人はそこに座ると思うんですよ。人間が人間であることを保障しているのは教育でも意識でもないんですよ。「自然」なんです。ところがその自然に対して、人間は信頼感がゼロですよ。意識の中で人間を信用するのはそもそもの間違いで、けれども根本的な自然というレベルに於いては人間は信用できる。人間はこうだ、というのは自然が保障しているだけであって、それを疑うことはおかしい。これは死体を扱っていると良く分かる。人は「死体」を「人間」と思っていないんですよ。しかし誰でも行く末なるものでしょ。死体に対してものすごく強い偏見があるように見えるし、まさしく「枠」ですよね。僕がしょっちゅう言われた言葉に「先生は人間が物に見えるでしょう?」ということです。「あんた、死んだ人を見たことないね。」と言ってやるんです。「どこまで行ったって物になんか見えないよ。人間は人間だよ。」そういうことを今まで夢にも考えたことがない人が多いことに、僕は宗教と哲学が日本の教育に抜けているということを非常に感じます。
 子供はとんぼの羽をむしったり、とんぼに花火をくっつけて飛ばしたりしていないといけないんですよ。そうやって遊んでいるうちに、こういうことはあまりやらない方がいいなって覚えていく。虫がいたって触ったって害がないんだから、どんどん子供たちに触らせればいいんです。「ああすりゃあこうなる」って論理で子供を扱われちゃたまんないですよ。この学校に入れれば親の望むべき方向に行くとかね。自然のものはそうはいかないのが特徴なんですよ。子供はまさしく自然そのものでしょ。設計図をひいていないでしょ。
 僕が昨年の9月に、来年3月で東大を辞めると言ったとき、同僚たちに「先生、辞めた後どうするんですか?」と聞かれて「癌の告知と同じで、辞めた後気分がどう変わるかわからないから辞めてから考えます。」と答えたんです。不安にならないかと聞かれたけどね。目の前にあるもっと小さな出来事をはるか大きな壁にしておけばそこから先のことは考えなくていいということを人は思うんですよ。でもそれが自然を排除する根本的な原因なんです。だから都会人は現実が狭くなっていって、結局そういう文明は野蛮人に滅ぼされていくんですよ。1995.6.1
 
                          Edited by Atsuko Mikami