石本 工先生

 1995年8月。厳しい夏も残暑を迎えた頃、わが小児科病棟の児玉康利君が自作の曲の1st CDを発売した。小児科だより35・36号でも既に紹介しているが、やっくん(児玉君)の才能が世の中にはじめてひょっこり顔を出すことができ、彼のかくれていた可能性をある日突然見せてくださったのは、都立北養護学校の石本先生である。
 「自分は音楽ができないでしょ。なのに児玉君の作曲の授業をやろうなんて、始めてからも、いつも困っていました。児玉君の曲を1曲弾いて聞かせるのに、15分くらいかかってしまうんですよ。何回も何回も弾き直しをするから彼はきっとイメージが狂ったと思います。音をひとつずつ選んで行く作業も、本当は彼にとって無限に音があるのに、自分が彼に聞かせる音はその無限の一部でしかないですよね。随分、彼が妥協してくれたんですよね。そう考えると申し訳なかったなと思います。」
 石本先生がひとつひとつ音を鳴らしていって、やっくんが目で返事をするという作業なのだが、一つを選ぶのもかなり時間がかかったという。メロディは前の音とのつながりで考えるわけだから、弾いては戻り、弾いては戻り、という作業を根気よく続けなければいけない。その努力が、あんなに繊細で優しいメロディアスな曲を産み出したのだ。
 今日は、やっくんのCD制作の一番の功労者である石本先生にお話を伺おうと思う。
 
 『小学生の頃は、獣医になりたかったんですよ。動物が大好きで虫採りばかりして遊んでいました。水槽に土を入れて一つの小さな自然環境を作って、虫を飼うことがかっこいいと思って、本当に凝っていたんです。家が田端で上野動物園と近いこともあって、動物園の飼育係や園長さんになりたいなとも思っていましたね。
 小学校高学年になってから体操を始めたら、今度は体操一筋になって、中学は越境通学をしてまで体操の盛んな学校に行きました。だから中学時代は朝から晩まで「体操、体操」でしたね。体育大学に進み、進路を考える頃は、もう体育教師になることを決めていました。スポーツインストラクターもまだそれほど多い時期ではなかったですからね。体操をやっていると、やはり体育教師になる道を選ぶんですよね。』
 なるほど、いつもさっそうと歩く石本先生の姿はキャリアのある体育教師という感じだ。ところが少しこちらがびっくりした経験が、石本先生にはあったのだ。
 『実は、卒業の時、教員採用試験を受けるのを忘れてたんです。友達と採用試験の願書を大学の教務課に出しに行く約束はしていたのに、二人ともいいかげんな性格でのんびりしてたんですよ。ある日「そろそろ出しに行こう」と、行ってみたら「東京はもう締め切りだ。」と言われたんですよ。何とかならないか頼んだけど、何とかなるわけないですよね。さあこの先どうしようと思ってるところに、少年院の院長さんが非行問題のことで大学に講義に来たんです。非常にざっくばらんな人で「君達、話を聞いているだけじゃわからんだろうから、一度現場を見に来ないか?」と誘われたんです。自分も興味があったので、その後すぐに行きました。小田原の少年院ですが、「体育実験少年院」という所で、現在もまだ模索中なのですが少年を更生させるために何が一番いいかということで、そこでは「体育」が必要なのではないかと考えていたわけです。見学した後、「宴会」になってしまい、夜中まで「まあ飲め飲め。今夜は泊まっていけ。」という具合で、ついこちらも言葉に甘えて泊まってしまったんです。あくる朝帰る頃になって、「実は職員が足りないんだけど…。」って理事長に言われて。やはり少年院の教官というのは、なかなか、なり手がなかったようですね。
 実は行ってみたら、自分自身、感動してしまったんです。背中には刺青が一面にある子、16才から19才くらいかな、その子たちが庭でサッカーをやっていたんだけど、ちょうどひどい雨が降っていて、その中を、ぼろぼろの靴で、しかも泥だらけになってサッカーをしている姿がとても清々しかった。その姿に打たれて、結局そこの教官になってしまったんです。』
 体育教師になって、部活動を担当してオリンピックを目指して…。そんなふうに考えていた先生の漠然とした将来の構想は、想像もしなかった方向に動き出した。
『あの頃自分が言っていたのは、少し変な表現ですが、「少年院に入るのは、東大に入るより難しい。」ということです。それは、どんなに悪い子でも少年院まではなかなか行かないからなんです。地域でとんでもないワルで大評判でも、だいたい鑑別所で鑑別されて出てくる。少年院に入るのは、家庭環境が悪くて、親の子供に対する保護能力が全くなくて、箸にも棒にもかからないどうしようもない子か、世間を騒がせすぎた、つまり新聞などに出てしまって世間でその子のことを知らない人がいないくらいの事件を起こしてしまった、ふたつのどちらかなんです。何千人に一人くらいの割合です。だからそこまで落ちてくるヤツはかなりのパワーを持っている。そのエネルギーの使い道をうまく転換できれば、独特の個性の持ち主たちですから、どうにかなるんじゃないか。ただそんなエネルギーの持ち主だから、実際には疲れさせておかないとまずいんですよね。だからとことん運動させて絞るんです。足腰が立たなくなるまで運動させるんですよ。
 教官が殴られるという事件もあるんですが、あそこで学んだことは、彼らとは「人間対人間」で、本音で付き合わなければならないということです。彼らはとても敏感です。だからこちらが教師としていいかげんだとただじゃおかないんですよ。愛情に飢えている子が多くて甘ったれな部分がいっぱいありますから、相手の行為に非常に敏感なんですね。こちらが気を使って仕事をしないと「襲われる」か「逃げられる」。少年院の三大事故の一つめは「暴行」、二つめは「逃走」、三つめは「火事」なんです。職務をいいかげんにしている教官は当直のときに限って狙われるんです。教官も20人くらいいて、いろいろな教官がいますから。
 でも本心で接していると、最初は彼らも目茶苦茶なことを言うんですが、たくさん話をしているうちに見事なくらい変わっていくんですよ。それに彼らは辛いことを知っているから、人の痛みも本当はよくわかるんです。だから他人に対して優しくないことを非常に怒る。好きな女の子に対しての愛情はびっくりするほどですよね。そういう彼らからは、もらったものがたくさんあります。ただ家庭も周りの環境も悪い子の場合は、一度少年院を出てもまた戻ってきてしまうんです。少年院にいたという前歴があるので周りが彼らに対して良くしてくれなくて、結局また昔のように戻ってしまう。それは一番辛いことでしたね。彼らを見ている世間の冷たい目が、自分達にとっても一番悲しかったですね。』
 小田原の少年院で5年、茨城の少年院では3年、教官を勤めた石本先生がちょうど30才のとき、大きな岐路にぶつかった。 
『少年院の教官は、一生の仕事にしていきたいと思っていました。自分にとってやりがいのある仕事を見つけたとも思ってたんです。ただ教官は30才になると中間管理職になって、現場に出ることが少なくなってしまうんです。子供たちと走って、汗をかいて、ということが少なくなる。教官を総括する役目になるんです。それはそれでやりがいがあるのかもしれないけれど、考えてしまったんですよ。
 そして、今度は本当に「教員採用試験」を受けてみようと決めたんです。当時はまだまだ学校では校内暴力の問題が尽きない頃でしたから、自分の経験を生かして今度は学校の問題児をびしびし鍛えてやろうと思ったんです。』
 そんな闘志に燃えていた先生が配属された先は養護学校。「びしびし鍛えてやろう」という威勢のいい体育の先生は、「さあ、どうやって子供たちに接したらいいのだろう?」
と思案に暮れる毎日だったという。
『初めの頃、イメージが全く掴めなかった自分は、どうしたらいいのだろうと思っていました。でも養護学校の教員になってわかったことは、養護学校にいる子供たちも、少年院にいる子供たちも、「」という点で、どちらの子供たちも光っているんですよね。かくれているけれど、光るところや可能性がいっぱいあって、そこをうまく伸ばすことができればもっともっと輝くという点では一緒だったんですよね。』
 これからは、子供たちの身体のリハビリテーションを中心にやっていくそうだ。彼らに負けないようにと、石本先生も大きなエネルギーを持ち続けて可能性を追求していくに違いない。
                          (インタビュアー  三上敦子)
 
                         

Edited by Atsuko Mikami