花澤洋太さん

 一昨年の10月から、めだかの学校で「アートパフォーマンス」の授業が始まった。小児科だより34号でインタビューさせていただいた「ギャラリーアリエス」のオーナー小笠原正博さんの紹介により、新進気鋭の作家達が毎月一人ずつ、作品の制作にいらして下さっている。花澤洋太さんは3回目に登場した画家で、今春、東京芸大の大学院を卒業する。将来を大変嘱望され、29歳という年齢で、小児科病棟の南側に飾ってある大きさ位の花澤さんの作品は、既に100万円は下らないそうだ。
 がっちりとして気骨さを醸し出す外見に、いつも穏和な笑顔。一見スポーツ選手にさえ見える花澤さんの素顔をちょっと覗いてみることにしよう。

 『生まれた時は池袋のサンシャインの近くに住んでいましたが、親父が小さい頃に亡くなってから中野に引っ越しました。妹は一つ違い、姉とは三つ違いで、女姉妹に挟まれて育ったんですよ。
 子供の頃から絵を描くのは好きだったけれど、それよりも外で遊ぶことが何倍も好きだった。落ちている物や、捨ててある物を拾うのが好きで、きれいだなと感じると、拾って集めてた。剃刀の刃を拾った時、刃の両辺が切れることを知らなくて、触っていたら大けがをしたり。とにかく何でも触ってみたかったんだよね。
 虫も大好きで、家にいるときは虫の図鑑ばかり眺めてた。車よりも虫が好きだったんですよ。小学生になってからは釣りが好きになって、市ヶ谷の方まで行って、大きい鯉を釣ったりしてた。昔は結構いたんだよね、鯉が。
 石神井公園や善福寺公園に行った時は、牛乳瓶にビニールの紐をくくりつけて中に小麦粉の練った物を入れてから川に投げ入れる。ちょっとの間「めんこ」で遊んだりしていると、牛乳瓶の中に藻海老が3匹くらい入っている。それを何回も何回も繰り返して、最後に200匹くらいになるんですよ。
 生まれも育ちも東京だから田舎が欲しかったけれど、自分が住んでいた辺りは結構のんびりしていたよね。
 釣り以外は、ローラースケートで高田馬場の方まで行ったりして、行動半径は子供の割には広かったかもしれない。』
 相当ないたずら小僧だったらしい小学校時代。中学時代もサッカーや柔道に明け暮れていたという。
 『高校は都立高校に通い、おぼろげながら将来は「バイオテクノロジー」に関することをやってみたいなと思っていた。でもこれと言って絶対にやりたいことがその頃の自分にはなかったです。だから身体を動かすことばかり没頭していて、柔道やサッカーに明け暮れていたと言っても言い過ぎじゃないよね。高3になってから、成蹊大学に推薦で入れそうだったので「まあそれでもいいか」っていう感じもあったんです。だけどね、学校で同級生が進学のことで騒ぎ始めて、みんながみんな、同じことばかり言い出したんだよね。それを聞いているうちに、無性に人と同じことをするのが嫌になって、人と同じ様な道を歩きたくないって思った。その頃の現代社会の先生が話してくれた戦時中の話で、『「死者○○人」というふうに一人の命が「死者○○人」という形で表されてしまうことは、一人一人の名前があるのだから、絶対に良くないことだ。』と先生は熱く語っていたんだけど、俺も全くその通りだと思った。電車に乗っていても「俺は花澤洋太だ!」って思っていたいし、「乗合バスで行くような人生」は絶対にいやだと思った。でも、実際に自分は何をやったら「自分」というものを出していけるのかな、と考えたら、それは絵だったんだよね。
 それから中学時代の美術の先生に、「とにかく絵がやりたい。」と相談しに行ったんだけど、はっきり言って、美大はどんな所か知らなかったし、どういうふうに勉強したら美大に行けるのかも分からなかった。先生には「美術の予備校があるから1回行ってみろ。」って言われて、予備校に通い始めることにしたんです。
 でも最初は予備校の中でいわゆる「落ちこぼれ」だったんですよ。自由に描くと、「のびのびしていていいね」って言われたんだけど、物の形をそのままに描くことがとにかくできなかった。日本に於けるアカデミックと言うのは「写実的」なことが問われたりする。でも人には2タイプあって、「形だけは綺麗にとれる」タイプと、自分みたいに「形はとれないけれど、調子や色がいい」タイプと2通りに分かれるんだよね。
 予備校には圧倒的に女の子が多くて、女の子は物わかりも良くてすぐに「スッスッスッスッ」って描ける。それを見ていても「俺って全然ダメだな。」って思ってた。予備校は高3の学校帰りの午後5:00から8:00までで、1年間勉強して、美大を受験するのだけれど、絵を描いていく過程を若干プロセス化していくんですよ。最初の1時間は「形」をとる。次の1時間は「下塗り」する。次は……。という風にプロセス化していくんです。俺は最初の1時間の形をとるところで既につまずくわけだから、そのシステムに始めから完全に乗り遅れちゃってるんですよ。いやだったなあ……。でも、絵が好きだったから「やるしかない」と思ってた。
予備校の三者面談があって、お袋と2人で出かけて行ったら、描いた絵を見ながら予備校の先生が「全然ダメですね。」みたいなことをさらっと言うんですよ。お袋はがっかりしちゃって、俺もさすがに(親不孝しているなあ)と思いましたね。思った通り、浪人生活になってしまいました。』
 目標を見つけて浪人生活に突入した花澤さんは、それからどうなったのだろう。
『一浪目の予備校の先生は今までの先生と価値観が違っていて、「形なんかとれなくても、人の百倍描けばいい。」「写真のような形を描くよりも絵の中でそれ自身が良い形ならいい。」という先生だったので、逆に力が少しずつついてきたんですよ。物の形がとれなかったのは結局、見方が足りなかったんでしょうね。そういう点も徐々に補われて行った。
 一浪後の芸大の試験は「自由に描け」だった。本当はすごくいい課題なのだけど、予備校で「物があって描くこと」に慣れきってしまったから非常に困って、結局落ちてしまったんです。だいたい2000何百人受けて、一次に通るのは3〜400人。その時は一次に受かったのだけど、二次で落ちて。そしてまた二浪目に入った。
 二浪してからはいろいろな絵を見たんだけど、その頃はモネとかルノアールとかああいう写実画のどこがいいんだろうと思っていた。「形をきちんと決めることが本当にリアルなのかな?」と思い始めたんですよ。もっと形に「動き」がないとだめなんじゃないかなと思ったんですよ。そうしたら、印象派はいいなと思い始めた。印象派は黒を使わないんです。古典は影を付ける時に、影を暗くしなければいけない。印象派は黒を排除して、「影の中に物がある」と言ったんです。結局光の中にはたくさんの色があって、跳ね返って、またいろいろな色になる。だから、「影の中にも色があるんだよ」っていうわけです。更にまた考えていったら、今度は、「印象派にしても物を中心に描いているな」と思ってしまった。俺は、物以外に画面全体で描きたいなと思い始めた。
 そしてその頃「匂い」という作品を見て「うわあ、すごいなあ。」と思ったんだよね。別に何が描いてあるわけじゃないけど、今までは「物を中心に見せる」作品が多かったのに、絵の具の量やタッチで「何か」を描いている。その時に、絵の具や、画面全体での見せ方があることに気付いたんですよ。じゃあそれを自分の絵にどのように取り入れるかって考えた。それが現在の俺の作品のルーツなんです。
 二浪後の芸大の課題は「森と都市と道」の一つをテーマに描け、という課題だった。今度は「もらった!!」と思いましたね。周りを見ると、俺が一浪の時みたいに「何を描けばいいんだあ。」と頭を抱えている人もいた。結局、浪人中に、物の見方のオリジナリティや、絵の具に対するこだわり、筆に対するこだわり、それを何気なく表現するのではなくて、より「自分はこうなんだ」っていうことが見えて行ったんだと思います。だからすごくいい課題だなと思った。課題を見た瞬間に「だめだ」と思ったら、もう絶対だめですね。
 浪人中に沢山の絵を見たり描いたりしたことで、自分の中に古典から現代までが自然に流れて行った。美術史を敢えて勉強しなくても、試行錯誤しているうちに、自然に自分の中に流れていったんですよね。』
 ここまで話を聞いて非常に意外だったのは、花澤さんという人が「順風満帆に歩いてきた人」に映っていたからだ。いつもおっとりとした笑顔の花澤さんには、失礼だが、心が打ちのめされたことなんて無いように見えた。しかし話が進むにつれて、花澤さんの妄執に憑かれるような内面の激しさが見えてきた。
『絵を描いているときは何も考えてないです。人は歩いたり走ったりしている時、無意識に石をよけたり木にぶつからないように歩きますよね。俺が絵を描いているときはちょうどそういう感じで、臨機応変にあっちへ行ったり、こっちへ行ったりしているんです。
 絵を描いているときが、一番落ちつくんですよ。絵の具や筆やキャンバスに少しでも触らないでいるとイライラしてくる。絵を描かないでいると、自分の存在が無くなってしまうような焦りがある。今まで絵をやめなかった理由は、絵をやめたら「花澤洋太」がいなくなるような感じがしたんですよ。それにしがみつくしかないという感じ。もう他のものは全部捨てたんです。とにかく「石の上にも3年」じゃないけれど、それくらいの気持ちでやろうと予備校時代に思ったんです。絵がなかったら自分はつまらない人間になっていると思うし、それに絵描きはそうじゃなければいけないような気がする。
 自分のプライベートな空間が、唯一、絵を描いているときなんでしょうね。俺にとっては眠っているときと一緒かな。絵を描いているときは狂ったようになるから、人には見られたくないよね。きっと俺のイメージじゃないと思うんですよ。絵を描いているときは時間にも厳しくなりますよね。一分一秒も無駄にしたくないから、他人には冷たくなるかもしれない。今現在に没頭してしまうから、今朝食べた朝御飯のメニューも忘れちゃう。それに俺はその時の気持ちのままで描くから、描き上げるのが速いですよ。10分でもすごく描ける。』

 家族の話になった。飛行機事故で30代の始めに亡くなったお父さんの亡き後、美容学校に通い美容院を開いたお母さんの話も鮮烈な印象だった。
『お袋は、俺の進みたい道については何一つ反対はしなかったけれど、子供の頃の躾は人一倍厳しかった。いたずらをすると、すごい勢いで麺棒が飛んできましたよ。お袋の恐怖政治みたいなかんじでしたね。今は何でも家族で討論するので民主的になりました。
 団結力の強い「花澤家」で、何かあると、とことん話し合う。姉が結婚するとき、義理の兄が遊びに来て、「仲間にいれてもらえるかな」と心配をしたらしいです。もちろん義兄とも仲がいいですけど。』
 家にいながら子供を育てる方法は、と考えて美容師の免許をとり、子供の教育を考えてその頃自然の多かった中野に移り住み、田舎の無い子供たちのために館山に別荘を建てる。花澤さんのお母さんの人生も、一人の人間として話を聞いてみたい、学ぶべきことの多い非常に前向きな生き方に思えた。

『俺の作品って、昔のラグビー仲間にはすごく分かるみたい。キャンバスが「グランド」で絵の具が「泥」なんですよね。雨の日のラグビーが好きだったから。』


 この春、うまく行けば渡米するという。N.Y.で新しい何かに触れて、きっと「花澤洋太」の形を、より明確に、より力強く、見せてくれるに違いない。
                           (インタビュアー 三上敦子)






 
                         

Edited by Atsuko Mikami