深井尚子さん


 深井尚子さんは今年でデビュー10周年を迎えた、広くヨーロッパで活躍されているピアニストである。昨年より、ピアニスト仲間の山本晴美さんと共に、めだかの学校の部屋で定期的にピアノコンサートを開いて、非日常的な優雅なひとときを病棟にはこんで下さっている。
 ピアノを演奏されている深井さんは、威風堂々としていて、とても大柄な感じの方に見えるけれども、実際に近くでお話をすると、明るくて親しみやすい語り口調のせいか、演奏中よりひとまわり小さく感じられた。

 『子供時代は本当にいわゆる普通の子供だったと思います。今、私がピアニストをしていることが信じられないような経歴の持ち主なんです。日本では一流大学出身の音楽家は、みんな子供の頃に英才教育を受けているんですよ。3〜4歳でピアノをはじめて、ずっと親が付ききりでレッスンに行って、地方の人は飛行機を使ってでも、月に2回位有名な先生の高額なレッスンを受けに行くんです。遊ばないでピアノだけを弾いている人って、世の中にけっこういるんですよ。音楽の世界の中でも、ピアノやバイオリンの世界は、殊にそういうところなのね。
 私の場合は、母に「隣のみずえちゃんがピアノを習いたいらしくて、誰か一緒に行かないかって言ってたけど、尚子ちゃんも行かない?」って軽く言われたことから始まったんです。
最初は遊び半分で、親も続くとは思ってなかったみたいで、バイエル(作曲家のバイエルが作ったピアノの教則本)の後ろに付いている紙鍵盤で、1年くらい練習してたんですよ。親が言うには、紙鍵盤が3枚くらいボロボロになってしまったんですって。そのうち、「どうもこの子はピアノが好きみたいだから、ピアノを買ってあげた方がいいんじゃないか」っていう話になって、はじめて1年たってからピアノを買って貰えたんです。
 昔の人が「6歳6ヶ月から習い事を始めると良い」って言ってたのを母が信じて、本当に私はその頃からピアノを始めたんです。母は教育ママのような行動は一切無かったけれど、「自分が習いたくて習っているんだから、最後まで責任を持ちなさい。1日30分練習するのが約束だからね。」とは言ってました。でも私は非常に遊び好きで、学校から戻ったらすぐに外に遊びに行ってしまうような子供だったんです。今にしてみれば、そういう子供時代を送ったからこそ、今ピアノを続けていられるんだなって思うの。私と同じ年代の人で英才教育を受けてきた人から聞くのは、桐朋学園や東京芸術大学を受ける時に、親の方が一生懸命で、見張られるようにして練習をさせられたということなのね。確かに彼らは指の訓練は良くできていて、基本的なものはとてもよく身についていると思う。だからある程度弾けるんだけど、殆どみんな途中でやめてしまうのね。「桐朋に入ったからいいでしょ。芸大に入ったからいいでしょ。」っていう感じになってしまって、最終目標が学校に入ることだけになってしまって、ピアノをやめていく人が本当に多い。結局、ピアノの練習が義務になってしまっていた子は、子供時代をピアノのために犠牲にしてしまったという気持ちが常に残っているのね。そういう人達が大学にはいると、みんなが上手だから、自分のことをとるに足りない存在だと思ってしまう。もともと、それ程、ピアノを好きではなかったからっていうパターンが非常に多いんです。』
 子供らしく遊び回っていた深井さんが、将来の夢として「ピアニスト」を志したのはいつ頃なのだろう。
 『ほんの10歳くらいのころから「尚子ちゃん大きくなったら何になるの?」っていう質問に「ピアニスト」と答えていたらしいですが、中学の時に、父に「将来どういう方面に進みたいのか?」って聞かれたんです。それは父のひとつの信念みたいなもので、「中学時代に自分の人生をある程度考えないと、いろんな点で遅くなる」って。そういう時にピアノの先生に、「このままピアノをやって行くなら、アップライトピアノをグランドピアノに変えなければいろいろな面で良くないから」って言われたんです。
 父は医者になりたかったけれど事情があってならなかった人なので、私には医者になってほしい気持ちもあった人なんですね。でも、音楽をやりたいなら仕方がないと言われて、私も結構真剣に悩んで、音楽の道に進むことを決めたんです。
 私は北海道の田舎でお山の大将のような感じで、「ピアノの上手な子があそこにいる」って言われていたけれど、高校2年生の時に父の転勤で東京に出ることになったんです。そこで初めて自分のやってきたことの間違いに気付いて、私が弾けるというのは、ごまかしがいっぱいあって弾けるとは言えないと気付いたんです。周りを見ると小さい頃から泣きながら練習してきた子ばかりで、それを見たときに「もう無理かもしれない」って思いました。芸大の先生に見ていただいたら、「何浪しても芸大なんて無理だ」と言われて、高校2年の時は「本当にやめようか」と思いました。でも、10何年もやってきたピアノを今更やめるのは私の身を切られるようなもので、だけど「もうだめだ」と言われているものをやってもいいのかどうか、ものすごく悩んだんです。その時父が「何をする時も最初は大変なのだから、苦労するなら同じことをずっと続けていった方がいいような気がする」と言ったんです。それから国立音楽大学の先生の門を叩いて、門下生にしてもらったんです。親も一緒に行ってくれて直談判みたいな形だったんですが、その先生は「芸大が無理だと言われるほど、ひどくないじゃない」って言って下さったんです。基本のツエルニー50番(ピアノ教則本)からもう一度始めて、1年間は曲は一切弾きませんでした。テクニックの基礎からやり直したんです。その先生がいなかったら、今の私はないと断言できるほどの私にとっての恩人でしたね。
 その時に日本の音楽大学の話を聞いてびっくりしたんですが、お金が無ければどうにもならない世界なんですよ。システムを聞いて、ほとほと日本で勉強するのが嫌になってしまったんです。それで、ヨーロッパに行くことを決意しました。決心してからドイツ語を習い始めて、その先は目標に向かってまっしぐらという感じでしたね。だから、あの頃は遊ばなかったです。小学生の頃とは反対に、朝から晩までピアノばかり弾いていました。その頃は、自分のことを世界中で一番下手だと思っていましたからね。子供の頃にきちんとした訓練を受けていないというコンプレックスの固まりだったんです。』
 幼い頃から志していたことに、16歳の時東京に来てそれを全く否定され、ともすれば投げ出したくなるような心境だった筈なのに、深井さんは前進することしか考えなかった。 
 『そして、19歳の時にウイーンの大学に受かったんです。ヨーロッパは「海のものとも山のものともわからなくても、やる気のあるものは受け入れる」その姿勢があるんですよ。日本を出るときは「あなたには無理だよ」と言われていたのに、ヨーロッパは「未知なものを受け入れる」。これが日本とヨーロッパの本質的な違いかもしれません。
 ですから、本当の意味での私の音楽人生は19歳の時から始まったんです。でも16・17歳の時に開眼しなかったら、きっとピアノの道には進まなかった。考えなければいけない時期に、親が的確な判断をしてくれたことには非常に感謝しています。』
 ウイーンでの6年間の学生生活を終え、日本に帰国した深井さんは、ウイーンで勉強したことをベースに演奏活動を開始し、数多くのソロリサイタルを行った。
 『ヨーロッパは、非常に伝統を重んじるんですね。伝統を重んじるというのは、テクニックよりも、音楽の雰囲気とか、今までやってきたことを伝えていくというのが大部分なんです。そういうレッスンを受けて「なるほど、これがウイーン風か、ヨーロッパ風か」ということが徐々に身について、日本に帰国してリサイタルを開いたりしていたんですが、2年経ってみて「どうも私には足りないものがある」って思い始めたんです。表現という以前に、子供の頃からのコンプレックスだったピアノのテクニックというかメカニックというものが足りない点をどうにかしなければと考えたんです。その頃、留学中にコンクールで知り合った日本人の友達がロンドンにいたんですが、「なんか変わった先生がいるよ」って教えてくれたんです。モスクワ音楽院の、ある一つの系列の先生で、「その先生につけば、たちどころにピアノが上手になる」という評判の先生だったんです。面白そうだからくらいの軽い気持ちで行ってみたら、これが本当にたちどころに上手くなるんです。まるでマジックにかかったみたいになるんですよ。それで今度は貯金したお金をはたいて、1年間ロンドンに行ったんです。
 頭ではわかっていても身体で覚えなければわからないことってありますよね。まさしく身体で覚えるメソッド(方法)なんです。だから注意しないと、すぐに元に戻ってしまうんです。どうしても身体にたたき込むために1年間は必要だったんですね。帰国したときは、抜け殻を1枚脱いだような自分になっていました。
 手法としては本当は逆かもしれないけれど、私の場合は、先に伝統的な音楽を理解して、次にテクニックを身につけたら、音楽的な表現が本当の意味でできるようになった気がして、非常に嬉しかったです。そうやってみてはじめて、自分のやりたいことができるようになったかなという感じですね。』
 表現力とテクニックを、ウイーンとロンドンでそれぞれ身につけ、パワーアップした深井さんは、「ピアノ」・「クラシック音楽」以外には自己の表現形態は見つけられないという。
 『あがり症の演奏者が、観客のことを「じゃがいもや、かぼちゃだと思え」って言うでしょ。でも私はじゃがいもやかぼちゃに向かって弾く気はないんです。それはやっぱり違うと思う。クラシックは、演奏者と観客が「お互いにその演奏時間を集中力を持って共有する」という作業なんです。人々に緊張感を強いているんです。曲に耳を澄ますとか、どんな風に表現しているんだろうとか、考え感じることなんです。だからクラシックは難しいと思われて、離れていってしまうお客さんもいますし、イヤという人も多いので、少し寂しいジャンルだなと思うけれど、それでもめげずに演奏し続けるつもりです。面白いことに、同じヨーロッパでもラテン系の民族は、クラシックが苦手なようです。彼らは踊ったり唄ったり、自分で表現することには非常に集中力がある民族だと思いますが、聴くことはだめなんでしょうね。でもクラシックを聴くことを、無理矢理人に勧めるのは良くないですよね。苦手だった人も、ある日自分の心から「あ、いいな、この曲。」と思ってくれれば、それでいいと思うんです。
 そういう意味で第一にいけないのは、「批評家」ですね。その人たちは、ある程度の音楽教育を受けてきているのだけど、自分で演奏するわけではない。そういう人たちの批評によって、演奏者たちは随分傷つけられていると思います。
 第二は、変に物事を知っているアマチュア。私たち演奏家は、音楽史にしてもそんなにマニアックには勉強しないんですよ。それよりも練習する時間の方が大切なんですよね。マニアックに知っていることは、ただ単に自己満足に過ぎないのではないでしょうか?』

 ヨーロッパで暮らしてみて、深井さんは独特の「居心地の良さ」を感じたそうだ。深井さんが感じた日本とヨーロッパの違いはどのようなことだろう。
 『ヨーロッパはユーモアをとても大切にするんですね。例を挙げると、先生に「今日のレッスンは何号室ですか?」と尋ねると、先生がいきなりモーツアルトのメロディーをハミングするんですよ。答えてくれないから「いったい何号室なのかな?」と、ふと考えると、先生のハミングしていた曲のケッヘル番号(モーツアルトの曲に付けた整理番号)が「203」だったりするんですよ。それで、「ああ、今日のレッスン場は203号室なんだ」ってわかるんです。とりようによっては、いやみな感じもするのかもしれないけれど、日本人にはそういうところが明らかに欠けているような気がします。彼らは難しい話をしていても、ユーモアで会話を和らげるところがあるんです。
 もう一つヨーロッパの良さは、自分がありのままでいられるというところなんです。周りの目を気にしなくていいところ。もともと個人主義の国だから、団体で何かをしようということがないでしょ。私が日本の学生時代にいやだったのは、友達から「あなたは出たがり屋さんね」って言われたことなんですよ。ピアノを弾くということは、別に「目立ちたいから」ということじゃないでしょ?それなのに、そう受けとられていることが、とても不思議だった。「出る杭は打たれる」というのはまさしく本当で、日本ではやりたいこともできないんです。日本では、あら探しをする人が沢山いるような気がしますね。もちろんヨーロッパにだってそういう人はいます。でも圧倒的に少ないですよね。演奏会の雰囲気も全く違うのね。だから演奏者も、考えすぎずに弾ける。ありのままでものを言えたり、行動できるというのは、いいことだと思うんです。外国人だということや、女性ということが、マイナス面にならずに暮らすことができる。それに20歳を過ぎたら、親の出る幕なんて向こうではないんですよ。私は、7年間ヨーロッパで一人暮らしをしていたけれど、自由というのは責任感を持たなければ自由とは言えないんですよね。自由とは好き勝手ができることと思う人が多いけれど、自由ほど自分が束縛されていることは無いと思うんです。責任は全て自分にのしかかってくるわけだから、何かあったら、全部自分で解決しなければならない。例えばサイン一つするにしても、後になって「知らなかった」というのは許されないんですよね。私はヨーロッパでの生活があって、自分のことを「強い人間だ」と思うことができたんですよね。』

         ☆          ☆          ☆
 『自分では、いい時期に考えて方向を決めて来ているな、と思います。「運」が良かったと言うべきなのかな?
 私が幸せだったのは、自分の人生を、あるとても早いうちに決められたっていうことではないでしょうか。高校時代って、結構まだ自分のやりたいことが見つかっていないじゃないですか。自分が入れる大学に入るという人が周りにも沢山いましたけど、私には迷いがなかったから、私自身は良かったと思ってます。もちろん悩むことも必要で、人生は人それぞれですからね。良い悪いじゃないんです。ただ私の性格には、一つの目標を定めてそれに向かって進んでいくことが合っていたんですね。
 世界で名だたる有名なピアニストになりたいわけではなかったから、自分の立場をきちんと認識して、ピアノを弾けるということを使って、これから自分の世界をもっともっと広げることができればいいですね。以前より、驚くくらい急速に世界が広がって行っているので、面白い人生を生きられているなと、この頃しみじみ思っているんです。』
                            (インタビュアー 三上敦子)


 
                         

Edited by Atsuko Mikami