馬場 一雄 先生

いんたびゅう      日本大学名誉教授 馬場 一雄 先生

 日大名誉教授の馬場一雄先生は、日本の新生児学に於ける第一人者である。
大正9年生まれの先生は、今年で76歳になられるのにも関わらず、背筋がピンと伸びていて、颯爽としている。身長は、180センチに近いのではないだろうか。
 物静かで穏やかな外見にさっぱりしていて気さくなお人柄は、意外性に溢れていた。

 1920年(大正9年)生まれの馬場先生は、生まれも育ちも東京。2歳の頃から現在まで、70年以上の歳月を中野で暮らしている。
『父親は山形、母親は新潟出身なので、僕は東京の田舎者なんですよ。
子供の頃から住み慣れた70何年前からの木造家屋に今でも住んでいるので、雨が降ると、雨漏りするような家です。』
 昭和19年に東大医学部を卒業し、その翌年小児科医局に入局。すぐに都立駒込病院に勤務するようになった。
『その頃の日本は、本当に貧しい時代でしたから、医局にいても全く所得がないんです。
有給助手が3人くらいしかいないんです。ですから経済的に余裕がなければ医局にいることはできないんですよね。職探しをしまして、都立の駒込病院で2年半働きました。昭和23年に日本脳炎が大流行したのですが、その病気を受け持たせてもらったことは、私にとっては、大変、勉強になりました。それから、当時の小児科の教授の詫摩武人先生から「賛育会病院」に行くように勧められたのです。
 賛育会は、今は東大は直接関係がないと思いますが、その頃は東大とは大変関係が深かったんです。東大のキリスト教青年会の方たちが、本業以外で、世のため人のために役に立つことをやろうということで、一生懸命になっていたんです。当時、言い方は悪いですが、賛育会病院のあたりは貧民街だったんです。そこに古い工場を借りてはじめた病院というか診療所だったのです。
 戦前には世の中の人にそういうものが受け入れられていたのでしょうか、大変盛んだったようです。しかし戦争でほとんど建物が焼けてしまい、焼け残ったコンクリートの本体に、削っていない板で急遽補修をし、診療を始めたのです。
 待合い室は床がなくて土間なんです。患者さんは寒いとき、薪を焚いて順番を待っているような病院だったんです。』
 当時の賛育会病院は非常にお産の多い病院で、都内では賛育会か日赤産院かと言われていたくらいお産が多かったそうだ。しかし設備が不十分で、非常に子供の死亡率が高かった。
『寒い冬の朝に病院に出勤すると、看護婦さんから「今日は未熟児が3人亡くなりました。」とか「2人亡くなりました。」と報告されるんですよ。これはなんとかしなければいけないと思いまして、病院に出入りしている大工さんに頼んで、木箱のインキュベーターを作ってもらったんです。
 そこに未熟児を寝かせると、暖かいので、寒い日でも大丈夫だったんです。ですので、その方法が病みつきになってしまいましたね。
 もともとインキュベーターというのは、ひよこの孵卵器からヒントを得ているのです。フランスで100年前に作られた、いわゆるクベースは孵卵器からヒントを得ているのです。日本でも戦前に木製のインキュベーターが一部使われていました。でも、戦争で全部焼けて無くなってしまったんです。病院もお金がないので買うことができなかったんです。そういうわけで大工さんに木箱を作ってもらったのですが、
木箱の中段にすのこを吊って、すのこの下には20Wくらいの電球を6個つけるんです。
2個ずつ点滅できるように、スイッチを3箇所つけまして、すのこの上に布団を敷いて、子供を寝かせたのです。一番上にはガラスの蓋をつけたのですが、その蓋を3つにたためるように作って、どこか一方を開けられるようにしたのです。それで子供はきちんと育っていったんですよ。』
 
 馬場先生は、先生のお父様が40才の時の子供だそうだ。54才で他界されたお父様は、どちらかというと病弱で医者にかかることが多かったので、子供の一人を医者にしたいという願望があったのかもしれないと、先生はおっしゃる。
『僕の子供の頃の趣味は、切手の収集と、昆虫採集でした。昆虫といっても「蝶々」だけだったんです。高校時代には、友だちと台湾航路の客船に乗りまして、台湾まで蝶々を探しに行ったりもしました。
 中学・高校の一貫校に通っていたのですが、理系を何となく選んでいたのです。しかし、いざ理系に進んでみると、大学はどういう方面に行こうか、考えてしまったんです。当時は高等学校に入ることが大変な時代でしたので、高等学校に入っていればどこかの大学には入れたんですね。実は、僕は当時「哲学」をやりたかったんです。理系の高等学校に進んだにも関わらず、哲学に興味を持ってしまったのです。物事の善し悪しを徹底的に考えよう。自分とは何か、物体とは何かを考えようと思ったら、どうしても哲学に行きたくなるんですよね。その当時は、京都の西田哲学の華やかな時代だったんです。しかし学校の先生から止められたんですね。「おまえのところは母子家庭だから、経済的に余力があるのならいいけれど、そうでないならやめた方がいい。」と言われたんです。哲学に進むというのは、10年くらいは一銭も収入がないのが普通だったんですね。しかし、やはり収入が必要だったので、いろいろ考えて医学部に進むことにしたのです。ですから、医学部進学についてはあんまり人様に話せるような立派な動機はないんですよ。』

 もっと小さい頃の先生はどのような少年だったのだろうか。
『両親と、姉と弟の5人家族でした。意外かもしれませんが、その頃の家庭というのは「厳父慈母」というのとは、少し違ったんですね。「大正デモクラシー」と言われた時代でしたから「子供中心」の家庭生活が誇りだったような時代なんです。子供中心に家庭を営んでいるということを自慢げに話したような時代だったんです。割合に、なんでも出来る限り子供の言うことを聞いてくれる時代でしたね。子供にとっては住みやすいような時代だったかもしれないです。僕の父は農林省の課長くらいでしたので、中流家庭だったと思いますが、そういう家庭でもお手伝いさんがいるんです。父親は、平日は忙しくてほとんど家にいませんでしたが、休みの日になると、テーブルにテーブルクロスをかけて、ナイフとフォークを使って家族全員で食事をするんです。飲み物は決まって「サイダー」でした。大正時代は外国かぶれの時代でしたから、その頃は、そういう家庭はけっこうあったのではないでしょうか。まさに「良き時代」でしたね。
 関東大震災も経験しましたが、3才の時だったので、あまり覚えてはいないです。しかし、その影響で、僕は今でも「地震」が大嫌いなんです。震災の余震がずっと続いたときに、両親が私たち子供を抱えて庭に急いで出るんです。そういうことがきっと自分自身に染み着いているんでしょうね。条件反射のように、今でも地震が起きると、すぐに外に逃げ出します。』

 医学部に進学し、卒業間近になり、小児科医になる決心をした先生は、なぜ「小児科」を選んだのだろう。
『なぜ小児科医になったのかという質問をされると、いつも困ってしまうんです。
 医学部の最終学年で「医局めぐり」というのがあったんですが、最初は外科でした。
患者さんの白血球の数も自分で数えるんです。外科の先生がやってきて、「よし俺が教えてやる」と言って、いきなりメランジュールを上に向けてぴゅうっと吹き出したと思ったら「1万1千!!」と言うんですよ。なんかそれを見て、これはすごいところだなあと、躊躇してしまいました。
 次に整形外科に行ったら、医局で先生方が昼御飯を食べているんですよね。みんな髪型が角刈りで「職人さん」のようなんです。手術をするから髪を伸ばしてはいけないんですよね。畳の部屋で立て膝をして、お茶漬けを食べているんですよ。何かその様子が、大工さんや左官屋さんの世界といった雰囲気でしたね。
 次に内科に行ったのですが、内科の先生方は非常に勉強家なんです。しかしなんだか青白い顔の人たちばかりで、ここは自分には合わないと思いました。
 次に小児科に行きました。調乳法の実習と称して、いろいろなミルクを作って飲ませてくれるんです。カロリーを倍にするのは、砂糖で倍にするんです。当時は食糧難の時代だったので、「小児科に入ればミルクには不自由しないぞ。」と思いましたね。それに
大変、雰囲気が和やかだったので小児科に決めたのです。
 当時は、そういう動機で自分の行く科を決める人が結構いたんですよ。例えば、物療内科ですが、当時は下宿している学生はお風呂になかなか入れなかった、物療内科に入ればお風呂に毎日入れると思って入局したりね。しかし軍隊から戻ってきた時には、もうお風呂が無くなっていて入れなかったという話を聞いたことがあります。
 そういう時代でしたからね、小児科医になったことに特に高尚な動機があったわけではないんですよ。』
 とても面白いエピソードで、失礼とは思いつつ大きな声を立てて笑ってしまった。このエピソードは、当時ならではのことなのかもしれない。

『賛育会病院というのは、とても面白い病院だったんです。片山哲(当時の社会党の代表者)や星島次郎(当時の自民党員)が病院の役員をやっていたんです。院長も革新思想の方だったんですよ。
 実は、僕はそこの病院に骨を埋めてもいいと思っていたんです。
 僕は卒後5年しか経っていないのに小児科部長として賛育会に赴任したのです。ですから、ちょっと偉くなったような気分でいたんですね。
 賛育会はキリスト教の病院なので「集会」があるんです。とにかく毎月何回も集会があるんですよ。集会の場所で座っていると、僕のとなりに掃除のおばさんがいたり、下足番のおじさんがいたりするんです。仕事を離れると神様の前ではみな平等なんですね。そういう精神があちこちに満ちあふれているような病院だったので、「よし、ここでやって行こうじゃないか」っていう気になれたんです。
 全く上下の差別がないんですよ。今考えると、大変立派な病院でしたね。
 病院の周りのバラックの家を往診して回ったりもしましたね。若いうちにそういうことをさせてもらえたことは、大変な勉強になりましたね。
 ただ困ることは、月給がまともな日に来ないことでした。病院も経営が苦しいので、仕方がないんですよね。なんとかしてほしいと思っていると、事務長さんが聖書の上に手を乗せて、一生懸命お祈りしていたりするんですよ。そんなことをされたら、何も言えないですよね。
 着任してまもなく台風があって、床が水浸しだったんですね。旧本所のあたりは、お世辞でも「お宅の地所は、お隣よりも10センチ高いですね。」と言わなければならないような土地だったんです。全体的に地盤が沈下しているんですよね。ですから、病院の玄関は一般道路より低いわけです。そこが水浸しだったので、僕は「1階は診察に使うのをやめましょう。」と院長に言ったのです。でも院長は少しもあわてないで、「いやいや、病院は人が落ち目になった時に来る所だから、玄関は少しでも低い方がいいんだよ。」と言うんです。
 そういう精神の病院は、今は少なくなってしまったような気がしますね。』

 昭和31年に外来医長として東大へ戻られ、その後、昭和38年から現在までの30年以上の歳月を日大で過ごされている。
 研究での一番の思い出は、日大に移られてすぐの出来事だった。
『昭和38年頃のことです。核黄疸という神経核が黄色く染まってしまう新生児の病気なのですが、脳性麻痺になってしまったり、死亡してしまうような病気なのです。しかし僕たちが研究を始めた頃は、核黄疸というのは脳障害の結果であって、原因ではないという考え方をしていたような時代だったので、それでは、これを研究してみようということになったのです。
 モデル動物がいるんですね。「Gunnラット」という遺伝的に強い黄疸が出る動物を手に入れて、研究をしたのですが、それを手に入れるまでが大変だったのです。上野動物園に行って飼育係さんにあつかましくお願いしたりするのですが、「新生児黄疸が出るような動物は絶対にいない」と断られてしまうのです。アメリカには何カ所かGunnラットを飼育しているところがあったので、手紙を出してお願いをしたのですが、やはり断られてしまうのです。
 しかしそれからしばらくして、N.Y.のアルバート・アインシュタイン大学の Dr エイリアスという方が、2つがい送って下さったんですね。その時の研究が一番、心に残っていますね。』

 子供と接していくうちに、先生は「子供を見ていく」仕事を、心から楽しいと思うようになったとおっしゃる。
『子供のことは、自分の子供ができるまでは、あまり好きではなかったですね。
しかし、自分に子供ができると、世の中全体の子供が自分の子供と重なるんですよね。そのうちに、自分の子供と他の子供の区別がなくなっていきましたね。ましてや孫ができると、今度は孫と重なるんですよ。
 ですから小児科医というのは「楽しい」仕事だと思います。子供に関係のある仕事というのは、全体的に、楽しいんじゃないでしょうか。医者を目指している方で、沢山のお金が欲しい人には小児科医は向かないかもしれませんが、「人生、楽しく行こう」と思っている方は、小児科医を選ぶといいと思いますよ。
「子供の発想」というのは、大人と全く違いますよね。それが楽しいのだと思います。
 私が外来に出ている病院の看護婦さんのお子さんが2才くらいなのですが、とっても口が達者なんですよね。その子が私を「おじさん」と呼んだんですよ。だから僕は「どうもありがとう。でもおじさんじゃなくて、おじいさんだよ。」と言ったのです。そうしたらいきなり、「ありがとうじゃないでしょ。ごめんなさいでしょ。間違ったんだから。」と言うんです。僕は「え?」っと思いましたが、子供の発想は非常に面白いなあと思いました。
 犬養道子さんの本で「星々と花々と」という本の中に出てくる話があります。犬養さんの子供時代の話なんですが、クリスマスになると彼女は新しいお人形をプレゼントにもらうんです。その人形に名前をつけて、性格やしゃべり方も決めて遊ぶらしいのです。ある年、クリスマスでもないのに、おじさんから陶器の人形をもらったそうです。それについて「遊ぶ人形じゃなくて飾る人形だから」と言われて、ピアノの上に置いてあったらしいのです。でも子供だから、どうしてもいじってみたくて仕方がないんですね。誰もいない時を見計らって、ピアノの椅子に乗ってその人形をとろうとしたら落として、割れてしまったのです。しばらく泣いているのだけど、そこでいい考えがひらめくんですね。お手伝いさんに頼むんですよ。「時計の針を戻して」って。結局、お父さんにも頼むんですが、そこでお父さんが「時計の針を戻しても、何事もなかった昔には戻らないんだよ。」と教えるんです。
 そんなふうに、子供の発想というのはまるで大人と違う。ですから、子供達と一緒にいるだけで、心から楽しいと思います。』

 そして、現在の子供たちの抱える問題について、馬場先生はこうおっしゃった。
『子供の「いじめ」は個人の問題ではないような気がします。水族館の魚たちを見ていると、いわしの大群は等間隔でいっせいに動くのに、ある瞬間、1、2匹が方向を変えると全部が方向を変えるんですよね。例えば、小児科では、子供の食欲不振を改善させるために、同年齢のこどもたちと一緒に食事をさせたりするんです。いわゆる「社会的促進」というものですよね。つまり、良くも悪くも、集団で生活しているときには、個人では理解できないようなことも起きるんですよね。ですから、「いじめ」については、個人だけを分析してもそれだけでは解決していかないような気がしています。いずれにしても、社会の方向が必ずしも良い方向に行っていないように思います』

         *       *        *
『若い方々へメッセージを送るとしたら、「青春の夢に忠実であれ」ということです。
 青春時代は、皆純粋で、一生懸命だけど、やがて現実の生活に追われて思うようにいかなくなることがある。それでも、いつまでも自分の夢に向かって行ってほしいと思います。そう言う意味で、息の長さやしぶとさというのも必要だと思います。』

 最後に、先生は力強くこうおっしゃった。
『僕は「診療すること」が一番好きなんです。ですから、出来る限り診療を続けていきたいと思っています。』

 
                         

Edited by Atsuko Mikami