鈴木 義之先生

いんたびゅう      東京都臨床医学研究所副所長 鈴木 義之先生

 東京都臨床医学研究所の副所長である鈴木義之先生は、国際小児神経学会の理事長も務め、神経生化学、分子遺伝学の研究では数々の業績を残しておられる。今回のインタビューでは、研究という観点からのアプローチではなく、まだ私たちの知るところの少ない、先生の子供の頃やインターン時代の話を中心に記事を進めていこうと思う。

 『どこの出身かと聞かれると困ります。生まれは新潟市です。それから東京に来たり、朝鮮の京城(いまの韓国のソウル)へ行ったり。小学校時代は福島県の田舎で過ごしていました。本籍は未だに福島県です。どこの出身かというのは、私には難しい質問です。私の「第二日本語」は「福島弁」なんですが、誰も現在の私の発音から福島県人とは思わないようです。』
 確かに、話に織りまぜられる先生の英単語の発音は「本格派」であり、物静かな語り口には「福島弁」は感じられなかった。
 『小学生の頃、山本一清氏の「子供の天文学」という本を読んで、「こんなに面白い世界があるのか」と感動したんです。それからもう一つは、年長のいとこからもらった「フレンド英和新辞典」(岡倉由三郎編)という初級者用の英語の辞書を読むことが好きでしたね。そこに出ている単語を見て「面白いなあ」と思っていました。昭和20年代の、読む本があまりない田舎の生活でしたから。昭和20年の終戦の時、私は小学校3年でしたけれど、それ以後、日本にアメリカ文化が流れ込んできて、同時に英語の面白さを知ったんです。今でも覚えている当時の私にとって大変なショックだった出来事は、辞書を読んでいて、「spring」という単語に全く違う3つの意味があるのを見つけたことでした。「spring」というのはもともと「何かが湧き出てくる」と言う意味なのですが、多くの日本人にとっては、多分「春」という季節の意味しか最初に出てこないと思うのです。しかし「ばね」という意味もあるし、「泉」という意味もある。よく考えてみれば、全部の言葉が「飛び出てくる」という意味を持つわけです。外国語、この場合には英語ですが、全く違う意味を持つひとつの単語が存在するというのは、小学生の私にはショックでした。』

 こどもの頃、英語の辞書を眺めることが好きだったという鈴木先生の夢は「言語学者」か「天文学者」になることだったという。
 『言語学は今でも興味があります。いわゆる「語学」ではなくて「言語学」なんです。19世紀は比較言語学の時代で、20世紀になるとソシュールやチョムスキーなど文法学の時代、どちらも今でも時々読んでいます。私が普段使う外国語は英語、オランダ語、ロシア語、スペイン語など、少しずつかじってみました。もうどれもあまり使い物になりませんが。どちらかというと「比較言語学」が好きです。』

 なるほど、巧みに語学を操る先生だからこそ、はやくからインターネットを使い世界の研究者とコンタクトをとっていたのだろうか。
 『いや、必ずしもインターネットそのものに興味を持っているわけではありません。情報の収集やコミュニケーションという意味ではとても便利ですが。いわば手段としてのコンピュータには関心があります。この技術分野とのつながりができた最大の理由は、現在勤務しているこの研究所が、医学系研究所としては、多分、日本で最も早くインターネットを使い始めた機関のひとつであったということです。現在の環境になったのは一昨年なんですが、今は非常に使いやすくなりました。所内のコンピュータセンター長をやっていることも、理由のひとつです。
 コンピュータは言語学と繋がるところがあります。どちらも重要な情報処理の手段です。さらには現在私が仕事上興味を持っている遺伝子や神経系の問題も、結局は情報処理の問題につながります。個人的にはこんな勝手な理屈をつけています。』
 
 幼い頃に「言語学」「天文学」に興味を持っていた先生が、何故医学の道に進まれたのだろうか。
 『中学から高校に進むときに、どういう方向に行くかと考えて両親に相談したんです。話しているうちにそれでは医学部に行くか、そうしようか、ということになっただけで、あまり特別な動機はありませんでした。
 医学部に進んでからは、卒業後の専門を神経学にするか細菌学にするか迷いました。臨床ならば神経学で、小児科か内科のどちらかだったのですが、小児科を選んだのです。学問としての「小児科学」をやりたかったんです。「個体発生」という現象に興味を持っていて、それから神経系の「個体発生」を考えていました。基礎医学なら細菌学免疫学だったので、多分ガンの免疫でもやっていたのだろうと思っています。
 生物学的な現象として、本当のところ対象は人間でなくてもよかったんです。私が教養学部に入ったのは、Hans KrebsのKrebsサイクル(TCAサイクル)が出て、彼がノーベル賞をもらった2年後だったのです。ですからその頃の生物学はKrebsサイクルが花盛りで、それはそれで面白かったけれども、私にとっては記憶の対象でしかありませんでした。もしも今の生物学の講義を聞いていたら、医学部に進んでいたかどうかわかりません。当時は今と違って、東大理二に入学して、教養過程を終ってから改めて正規の医学部入学試験を受けましたから。』

 そしてインターンになる直前の鈴木先生が選択したことは、多くの学生とは少し異なる方向だった。
 『医学部の卒業直後に、たまたまアメリカの医師国家試験(ECFMG)を受けたんです。卒業試験の最中に、同級生の一人が何か訳の分らない英語の問題集を開いていたので、何だと聞いたら、こういう試験だというのです。それでは「どうせ卒業試験を受けるのだから、ついでに受けてみよう」ということになって受験したのです。4人うけて、2人だけ75点以上という正規の資格を貰いました。
 インターンはもちろん東大病院で始めたのですが、当時の米空軍基地の病院で働いていた同級生が「面白いところだから、一度見に来ないか」と連絡してきたんです。それで、5月の連休に埼玉県のジョンソン基地に見学に行ってみました。今の「入間基地」です。小さな空軍病院でした。ただの見学のつもりで軽い気持ちで行ったのに、着いたら小さな部屋に連れ込まれ、医者3ー4人に囲まれて、いろいろ質問をされました。しかも最後には「6月から来るか?」と聞かれて、はずみで「YES」と答えてしまいました。何のことはない、インターンの一人が都合でやめることになったので、その補充のための面接試験だったのです。しかし英語会話が特にできるわけでもなかったので、苦労しました。実際、面接のあと、「Dr. Suzuki に英語をよくやっておくように言ってくれ」というコメントがついたと後に聞きました。
 結局それから10か月間、この病院と、一部は立川基地の空軍病院でインターン生活を送りました。インターンの最初の2か月は東大病院と伝研(現在の医科研)病院でやりましたから、合計4つの違った病院でのインターンをやったことになります。こんな形でインターン時代を過ごした医者は、おそらくほとんど居ないのではないでしょうか。』
 
 その後、6月1日から第6022米空軍病院で働き始めることになる。内科、外科、産婦人科、小児科と様々な診療科を受け持たなければならなくなり、しかも全て「英語」という毎日に、右も左もわからないまま、いきなり突入してしまった。
 『勤務についたその日から当直をやらされたんです。そこでは、外科系・内科系と一日おきに当直をするのです。まだ何もわかっていないのに、急患が来たら処置をしなければならない。とにかくインターンの私が、一番最初に患者と対応しなければいけないのです。今でも覚えているけれど、6月1日の午前1時過ぎに、黒人の兵隊が酔って喧嘩をして、胸を切られて急患で来たんです。手術を夜中に行いましたが、その病院では、すべての夜間の急患の入院病歴を、翌朝午前7時半までにインターンが作っておかなければならなかったんです。でも術前麻酔が効いていて、患者さんはぼ〜っとしていて話を聞くこともできない。まして黒人で酔っ払った患者さんが痛い痛いと言っているわけだし、こちらも英語のコミュニケーションがほとんどできない時期のはじめての入院患者で、病歴をつくるのが非常に大変でした。どんなことを書いたのかも覚えていません。
 今、可能なら、その入院病歴を見たいですねえ。情報としてどれだけ正しいことが書いてあったか、それからどれだけ正しく表現できていたか、興味があるのですが。
 それから2ー3ヶ月は、とんちんかんなことばかりやっていました。「むこうに行ってあの医者を助けてやってくれ」と言われているのに、向こうに行って助けなければいけない医者をこちらに呼んできたりして、「なにをやっているんだ」と怒られたこともありました。研究室ならまだいいんですが、臨床の場面ではそういうミスは大変です。
 挫折ばかりでしたよ。言葉がわからない、中身もわからない、そのための勉強もしていない。急に全く違った世界に連れ込まれたという気持ちでした。ただそこでの経験がかなり自分のためになったことは事実です。日本にいるのだけれど、基地は「アメリカ」なのです。だからもちろん日本の診療とは当然違います。日本の診療のようになま易しいものではない。薬の量にしても全く違う。しかもそれがインターンに対して、きちんとした公式として教育されます。すべて立て板に水を流すような対応が要求されました。
 アメリカ人は熱性けいれんを非常に恐れるので、子供に熱が出ると大変なんです。はじめて見て仰天したシーンは、真冬に高熱で親に抱かれて救急室に来た子供のことです。氷をいれた大きな器に水道から冷たい水をジャージャー流して、その中に子供の身体をいきなり浸けてしまったのです。子供はガタガタ震え出しますが、確かにあっという間に熱は下がる。そしてその次に、タオルにアルコールをいっぱいふりかけて身体に巻き付ける。非常にワイルドな治療ですよね。日本でそんなことをやったら大変でしょう。もちろん、今、アメリカでそういうことをやっているかどうかは分りませんが。
 毎日朝7時半から回診、外科であればその後8時から手術というスタイルのインターン時代だったので、東大小児科に入局して研修を受け始めたら、病棟にその時間に来ている医者がほとんど居なかったのでびっくりしました。ですから基地での1年間というのは、自分にとって、非常にいい経験でした。』

 空軍病院で仕事をしてきた医師の中には、そのまま渡米して医師になった仲間も半数以上いるらしい。鈴木先生は、アメリカの医療システムとして、36時間を通して働かなければならないインターン・レジデント生活に、少し抵抗があったと言う。
 『医者になって数年後、昭和43年からニューヨークに半年、フィラデルフィアに3年近く滞在しました。現在、少なくとも仕事の上では遺伝子医学でも生物学でも、日本にいて出来ないことはないと思うのです。けれどもシステムの作り方、ものの考え方や社会の一般的な人間関係、それから研究費のとりかたや使い方が日本とは全く違うと思います。特にアメリカと日本の違いは大きいですね。ヨーロッパは多少日本に馴染みやすいところがありますけれど。ですから、研究や診療という仕事自体についてはともかく、そういう周りのことを経験できたことは良かったと思っています。ただ「英語」を使うという意味での環境は、私の場合は最悪だったかもしれません。研究室ではボスをはじめ私の周りは日本人でしたし、家に帰っても家族とは日本語を使って話していたわけですから。
 むしろアメリカの空軍病院で働いた時の方が、英語をふんだんに使いましたね。しかも臨床だけですから、患者相手に英語を使わなければならないので、それで少しは鍛えられたと思います。』
 
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 『今は世界中どこの国に行っても人間は人間だと思うようになりました。最近はなぜかアメリカ合衆国に行く機会が少なくなりました。このところ、外国で一番親しみがあるのはイタリアです。イタリアで発行している国際雑誌の編集委員を依頼されている関係で、時々行っていますが、今私にとっては一番面白い土地です。イタリア人はふたつのタイプに分かれると思うんです。「マフィア型」と「カンツォーネ型」に大別される。家族を大切にするというのも、「マフィア型」だからではないでしょうか。そういうふうに人を見ていると面白いですよ。もちろんイタリアの中でも北部と南部の人は違うし、ミラノは日本以上にシビアなビジネスの地ですから、日本人が考えるいわゆる一般的なイタリア人とは少し違うと思います。
 実は数年前に、イタリアのシエナ大学の小児科で、分子遺伝学の連続講義を、英語で1週間毎日やったことがあります。この講義の最後に、今度機会があればイタリア語で講義をするという約束をしたのですが、まだとてもそこまではいきません。今は、そんな依頼をされたら気が重いですね。』

 そう語る鈴木先生は、まさしく「spring」という単語の
意味そのものであった。
             (インタビュアー 三上敦子)

 
                         

Edited by Atsuko Mikami