東大病院清掃係  安部 耕二さん

<プロローグ>
 病院の中には様々なエキスパートの方がいる。
 毎朝、元気な声で「おはようございます!」と、まるで舞台役者の発声練習のような、一際大きな声で挨拶をされている安部さんは、院内の清掃係の方である。
 今から2年くらい前のある日から、小児科病棟の2階の黒板に、忽然とメッセージが描かれ始めた。そのあまりに本質的なメッセージに、いったいそのメッセージの発信者は「誰」なのだろう?と、周囲では小さな話題になっていたのである。
 そして更に驚いたのは、「ここをフロンティア通りと名付けます。」と、数日後に記されていたことである。その自信を持って言い切ってあったメッセージに、なぜか不思議に快いものを感じてしまったのである。
 後にそのメッセージの発信者は誰あろう安部さんだったのだ。それから安部さんという方をインタビューしてみたくなり、それがこうして実現することになった。
 
<春風吹く東大構内>
『人間の出会いというのはいろいろな形があります。それをただの通行人として出会うのか、立ち止まって人間同士の歴史が始まるのか大きな差ですね。これは人間の財産に例えると、莫大な財宝になるかと莫大な損失になるかですね。単なる通行人になってしまうか、そこで一面識を作って、そこから何らかの歴史を始めるか、つまりこれが「挨拶」ということなんです。』

 安部さんが何故、人一倍大きな声で挨拶をするのか、それには非常に大きな理由があった。
『今、私は「第二期挨拶運動」に入っているんです。
 私が思っていることをはっきり言ってもよろしいでしょうか?まずいちばんに思うことは、東大の先生方は暗いなあーということです。どうして暗いのか、私なりに考えたのですが、いつもやはり頭を使っているから、頭にエネルギーが行ってしまうわけです。そうするとハートの部分が欠落するんではないかと思ってしまうのです。当初、私が挨拶をしても、してくれない方が殆どだったんですね。そのことに非常に憤慨してしまったんです。掲示板の所に「たかがゴミ、されどゴミ」と書いたこともありますが、これは私のひとつの皮肉なんですよ。
 私が担当しているのは小児科病棟と内科研究棟なんです。毎日、いろいろな方々とすれ違って、感じたことがあったので、「よし自分自身でここを明るくしよう」と決めたんです。それでひとつの自分のモットーとして、私が挨拶してそれに挨拶を返してくれなくても、それにめげずにくじけずに、何度も何度も繰り返してやろう、とそう決めたんです。
 これはある先生の例なんですが、最初はまったく挨拶を返してくれなかった先生がいらして、私は強く「今にあの人の心を開いてやろう」と心に思って、わざとその先生に近付いて「おはようございます」といつも挨拶をすることにしたんです。それを20回はやりました。 
 ところがある日突然、その先生から「ごくろうさま」とおっしゃってくれたんです。それからその先生が誰よりも大きな声で挨拶をしてくださるようになったんですよ。それで更に、私は気持ちが強くなって、研究棟と小児科病棟を明るくしたいなと思ったんです。それは働いていて自分自身も気持ちよくなることですからね。
 それで何故、今「第二期」なのかというと、内科研究棟と小児科病棟が「第一期」だったのですが、北病棟も土曜日に周り始めたのです。去年の終わりから北病棟のナース室や医局や患者さんへ「挨拶運動」をしているんです。
 どうして私がこの「挨拶運動」にこだわるかと言いますと、ある物の本によると、挨拶という言葉は「自分から相手に近付くということが基本である」と書かれていたんです。自ら相手に近付くことで、相手も心を開く。それがたとえ一方通行であってもいいと思っていると気分が爽やかになって、一日が楽しく過ごせると思っているんです。
 ですからこの第二期が終わったら、今度は外の人たちにやってみたいですね。そう思ってるんです。』
 
 以前、2階の掲示板に書いて下さった安部さんのメッセージの意味に触れてみた。
 『「フロンティア通り」と名付けたのは、私はとてもあの銅像の先生方(廣田長先生、栗山重信先生、詫間武人先生)に感動したんですね。あの銅像の方々は、いわゆる小児科の創業者なんです。
 私はとても歴史が好きで、「原点に返る」というのは非常に重要なことだと思っています。例えばこれから前途有望の若い先生方が銅像の前を通っても、「単なる石じゃないか」と思ってはいけないわけです。学生さんが通っても、なんの興味も持たずに通り過ぎる、それを見た時に「寂しいことだなあ・・・・」と思ってしまったのです。
 あの一隅というのは存在感のある一隅でなければいけないと思うのです。光った一隅でなければいけない。スポットライトを浴びているわけではないけれど、あの3人の先生方が鎮座しているあの場所は、この小児科の中で一番光っている一隅なんです。何かを語りかけているような気がしてならないです。それをなんの気なしに興味も持たずに、わいわいがやがやと通り過ぎて、またそういう方々が小児科の医局に入るというのはとても寂しいことだと思います。私なんかがこんなことを言うのは、本当におこがましいことです。でも、そういうことがたまらないんですよね。
 ですから、私としてはその先生方の功績やプロフィールをあの場所に飾って貰いたいと思います。親がいなければ子がいないのと同じように、小児科の親にあたる方々なのですから。親を大切にしないと・・・・と思ってしまいますね。
 それでここは「フロンティア通り」だと勝手に名付けたんですよ。』

 少なくともあの黒板に書いてあったことを毎日目にした人は、はっとしていたのである。しかし残念なことに、突然その書き込みがある日を境に記されなくなっていた。
 『あの黒板に毎日書いていたことを、やめた理由があるんです。それは、人それぞれいろいろな考え方があるから、ああいうことを「面白くない」と思う方もいて当たり前なんですよ。
 もともとあの黒板は廃棄処分にされる運命にあったんです。廃棄の張り紙もしてあったのですが、非常に私はもったいないと思ってしまったんですね。これは何かに使える、と考えたんです。それで私がやりたかったことは、あの場所に「季節感」を出したかったんですね。先生方や看護婦さん方は季節感というのをあまり感じていないように思うのです。はっきり言って、情緒が無いような気がしてならない。例えば、今そこに寒椿が咲いているとか、樅の木が揺れている様子とか、そういうことを感じる方はここにどれだけいるのだろう?と思ってしまうのです。木や植物はいつでも何かを語りかけているんですよ。きっと忙しすぎるというか、頭を使いすぎているというか。だからこそ、そういう片隅に情緒の感じられるものを表現したかったのです。
 季節感のあるものをあの黒板に書いたりして、少しでもそういうことを思い出してくれればいいなあと考えて、今でもいろいろな構想は練っているのです。』

 そういう安部さんの活動は、当然のごとく小児科病棟だけではなかったのである。
 『内科研究棟の1階の入り口はいつもゴミの山というか、廃棄物の山だったんです。でもこれをなんとかしなければいけないなと私は思ったんですね。入り口がゴミの山だと、はじめて訪れた人が、「東大ってなんだ?」と思ってしまうでしょう。
 植木なども捨てられてしまっていたので、それを集めてまた鉢に植え替えて、再びそこの場所に並べて置いて、水をあげることにしたんです。そうしたら、だんだん皆さんがそこに何も置かなくなったんです。今では完璧ですよ!ゴミの山もなくなって、植物も生き返って、本当に良かったです。
 仕事って言うのは、自分が楽しまなければいけないんですよ。小さな目標でも目的でもいいじゃないですか。自分が芝居の幕間からそっと眺めているっていうかんじで楽しむことって大切ですよね。鶏が卵をかえすような気持ちで、自分の中に暖めておいて、やってみることってとても楽しいですよね。』

 ここまで聞いて、ただただ安部さんの考え方や行動力に感動してしまったけれど、安部さんがそういう考えに至る経緯は何なのだろう? 
 『「北風と太陽」の話が、私は子供の頃から好きだったんです。北風と太陽の、どちらが人間のマントを脱がせることができるのかという話です。あの話は人間の心を描いたたとえ話の中で、大変素晴らしいものだと思います。強い風でもマントを脱がせることができなかったのに、太陽は脱がせることができたんですよ。あの話の原点も「挨拶」に繋がると思っています。
 太陽はやはり強いんですよ。じわじわじわじわと人間の内部にまで染み渡るんです。そしてマントを脱がせることができるんですね。自分が太陽になれるかわからないけれど、それでも太陽に近づけるようになりたいですね。』

 そして安部さんの生い立ちの話を聞いていくと、とても大きな夢を持っていらっしゃることがわかったのだ。
 『私は大分の別府の高崎山のすぐ近くで生まれ育ったんです。私はずっと母一人子一人で育ったので、去年の3月31日に母が80才で他界したのですが、母に対する想いはとても強かったのです。マザーコンプレックスのようなところがあるので、母と子供の関係というものに強くひかれるところがあります。ですから小児科病棟を見ると、お母さん方に、心から頑張って欲しいと思ってしまうのです。
 19才まで別府にいて、東京に出てきたのですが、状況のきっかけというのは、実は私は物書きになりたかったんです。それは今でも思っています。ノンフィクションを書いてみたいですね。自分が名声を得たいわけではないんです。とにかく自分のことを表現したくてたまらないんです。本当にそういう人間なんですね、私は。
 母は私が2才の時に離婚していて、私は父親の顔を知らなくて育っているものですから、母親に対しての愛情というのは人一倍なんですね。よくぞ、健康に育ててくれたと母には感謝しています。
 西行法師の歌に「願わくは花の下にて我死なん そのきさらぎの望月のころ」という歌がありますが、母も人一倍桜が好きでしてちょうどその桜の花の咲く頃に他界しましたので、本望ではなかったでしょうか・・・・・。』

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<エピローグ>
 『東大の中は広い公園のようなんですよ。こんなに四季を感じられる所は無いと思います。私から見れば、随分財産を独り占めにしているなあと東大に対して思いますね。ですからここにいる皆さんに与えられている財産なのに、気付いていない人がたくさんいると思いますよ。もったいないことですよ。心が麻痺しているんですね。憤りすら、感じてしまいますね。
  いつか小児科の中庭をれんげ草でいっぱいになるようにしてみたい。それが私の夢なんです・・・。』                (インタビュアー 三上敦子)

 
 
                         

Edited by Atsuko Mikami