東大小児科  狩野 博嗣先生

 小児科だよりのインタビューは今回でなんと25人目を迎えた。現在までにインタビューをさせていただいた方々をもう一度振り返ってみると、とてつもなく凄いラインナップである。第一線で活躍されていて、暇な時間を捻出するのが大変なくらいお忙しい方々が全くの無償でインタビューを快諾下さったことが、なによりもありがたいことであった。
 今回の25回目ではくるっと視点を変え、我が東大小児科の医局内に目を向けてみることにした。

 今年のはじめに徳之島の徳洲会病院より医局に戻られた狩野博嗣先生は平成3年に入局されたドクターである。狩野先生は「チャッピー」という愛称で呼ばれ、なんと一卵性双生児のお兄さんなのである。しかも弟は東京大学理学部化学科出身という兄弟揃って並外れた頭脳の持ち主なのだ(もちろん、ここは皆さんがそうなのですが・・・)。なんでも京都では兄弟揃って有名人で、「狩野ブラザーズ」と言えば受験戦争をくぐり抜けてきた同世代には彼らを知らない人がいないというくらいの有名人だったらしい。
 という話を聞くと、「いったいどんな切れ者なんだ?」と思われるはずだ。私の独断と偏見で言えば、狩野先生には「学者肌」というイメージが強くある。一見すると、なんだかとっても「ほわーん」とした感じがするのだが、会話の途中で眼光が妙に鋭くなって、ピピピッ!と何かを感じとってその感じとったものを大切に頭のどこかにインプットしてあたためている感じがする。そのあたためたものに、またまたこっそり息を吹きかけて、さらにあたためているような・・・。自分の世界を、丹念にまるで一目一目編み物を編んでいるように作っている狩野先生と話をすると、なんだか心が和んでくる。

『僕は京都の出身で、生まれてから12年間は京都の下京区に住んでいたんです。京都の駅から少し西の方に行ったところです。
 父は高校の教師で、実家ではそろばん塾の教室を開いていて両親でやっていました。今はその当時の名残で教室が残っていて、しばらくは社交ダンスのダンスホールとして人に貸したりしていました。
 僕は双子の兄なんです。生まれたときは小さく生まれてしまって両親は大変だったみたいですが、大きくなってからは楽だったようです。けれど母は僕たちが中学1年の時から病気になってしまい、高校3年の時に亡くなってしまったんです。楽だったと言っても、あまり一緒にいる機会はなかったんですよね。』
 狩野先生は兄弟で、中学から鹿児島ラ・サールに通っていたので、確かにご両親と過ごした時間は少なかったかもしれない。

『小さい頃はおとなしかったと他人からは言われてました。でもちょうど兄弟が良い遊び相手で、お互いに物を取り合いしたり、喧嘩したりは人並みにしてましたね。両親が共働きだったから、2人でいる時間がすごく多かったんです。お互いに、両親それぞれのおばあちゃんに預けられたりした時もあったのですが、そういうときは、小さいながらに久しぶりに会えるときが嬉しかったです。
 小学校に入ってからは、わりと少人数の学校だったので、のんびりしていました。だから算数なんかをやるんでも「謎解き」みたいなゲームのような感じで、あんまり必死でやったっていう記憶がないんです。そういえば、遊びでもゲームが好きでした。ゲームと言っても、野球ゲームとか人生ゲームのようなものや、あとはオセロとか五目並べとか、そういった対戦型のゲームが好きでしたね。』
 
 狩野先生が将来は医者になろうと決めたのは、いつ頃のことなのだろうか。
『医者になろうと思ったのは、小さい頃に野口英世の伝記を読んだことがかなり大きかったです。それから、ニュースを見たり新聞を読んだりしていくうちに、だんだん医者になるという気持ちが固まった感じがします。
 中学・高校の時は、本を読むことがとても好きだったんですが、書いたりっていうような表現をすることっていうのは苦手だったんですね。だから何となく自分は理系だなと漠然と思っていました。生物学とか化学とかもとても好きだったので理学部にしようかなあというのもその頃は考えたりもしました。でも自分の時間を持てるということを考えたらやはり医学部の方が自分には合っていると思ったんです。
 ラサールや東大で勉強をしていると、自分はたいしたことないなあと思うんです。周りの人の中には本当に出来る人がいて、「あっ、この人すごいなあ」と思ったりするんです。頭の良さにしても努力することにしても、自分よりすごい人が周りにたくさんいるんです。だから小学校の時は、まさか自分が東大に入るなんて思いもしなかったんです。なんか雲の上みたいな感じで、塾に通っていても自分が特別なんて全然思えなかったから・・・。
 もしかしたら、ラ・サールのように、自由でありながら友達同士で一緒にやっていくっていうような、お互いにつられて勉強をしていくような関係が、僕にとってはとても良かったのかもしれないです。もし京都の公立の学校に通ったら、東京に出ることはなかったかもしれないですね。』
 
 それでは、小児科医になろうと思ったのは何故なのだろう?
『小児科に決めたのは、やっぱり子供が好きだからというのが一番の理由です。
 学生の時、休みで京都に戻って、両親のやっていたそろばん塾に顔を出すんです。そうすると子供がみんなとっても元気で、それを遠くから眺めていると楽しくなってくるんです。そんなふうに子供の成長を見ていけるのは、小児科しかできないですよね。
 それに僕は不器用だから外科より内科系だとはずっと思っていたんです。でも内科は初めから細分化されているし、小児科は全体像を見れますよね。そういうのが、自分の性格にも合っているなと思いました。
 そう思っていて学生実習してからも、ここの小児科の雰囲気があったかくて包容力がありそうで、いいなあと思ったんです。実習で担当した子供たちと仲良くなって、小児科実習が終わってからも何回か小児科に遊びに来たりして、そういうことをしているうちに小児科にしようって確定したんです。』
 
 東大小児科で研修した後、藤枝市立総合病院に3年、徳之島徳洲会病院に2年、そして今年の1月に小児科にシニアとして戻っていらした。
『藤枝に行ったことも、徳之島に行ったことも、僕にはどっちも良かったです。結構、その土地に馴染んでしまうんです。最初はやっぱりちょっと慣れない所もあるんですが、半年くらい経つと慣れてきて、その土地が良くなってくるんです。だから、帰るときは名残惜しいというか寂しくなるんです。』
 徳之島の徳洲会病院から狩野先生が東京に戻る朝、「狩野先生が、これから内地に戻ります。」という全館放送があったという話を聞いたことがある。しかも看護婦さんや患者さんは、みんな泣いていたということだ。
 そういうドラマみたいな別れ方をできるのは、狩野先生だからこそではないだろうか。

『この6年間で藤枝に行ったり、徳之島に行ったりして、今まである程度先人の先生方が試行錯誤しながら患者さんの治療方針を考えたりしてきたものを教わって、それを使わせて貰っていたという感じだったんですよね。それは新人の頃はとても大切なことなんですよね。
 今回東大に戻ってきて、まだまだ自分が大したことができるとは思わないのですが、それでもほんのちょっとは役に立てているかなあと思うんです。診断にしても治療にしても、関わって少しは小児科に貢献できるかなって思ったりしています。研究についても、自分が何か少しでも貢献できればいいなと思うんです。
 現実には僕は覚えも悪いし、やることものろいとか、そういう人間なんですよね。でも、だから気持ちだけは大切にしたいなって思うんです。
 今回、シニアで東大に戻ることになったとき、何年か無駄になっても、自分の夢や可能性を追ってみたいなって思ったんです。若いときしかできないから、免疫・アレルギーについて、まだあんまり知られていない診断の発見とか治療法の研究も苦労してもやってみようかなと思っているんです。やはり治療にどう結びつくかという研究が一番興味があります。
 医者・患者という感じではなくこどもたちと接したいと思っているんです。子供から教えられることが、とてもたくさんありますから。そういう意味でも、東大小児科は「子供の心」を大切にするところでいつまでもありたいですよね。』


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『周りには大変だよって言われた所でも、実際に自分で行ってみると面白いなあって思えるんです。
 最初から決めつけないで、行ってみたら「ああ良い所だなあ」って・・・。』
 さらりとこんな風に言える狩野先生は、とても魅力的な人である。
                          (インタビュアー 三上敦子)
 
                         

Edited by Atsuko Mikami