JR東京総合病院院長  古瀬 彰先生

 JR東京総合病院院長の古瀬彰先生は東京大学医学部胸部外科の教授を今年3月に退任された。
 古瀬先生は押しも押されもしない日本の心臓外科医のトップであり、長い間東大小児科の患者さんの手術を手掛けられ、多くのこどもたちを助けて来られた。そして先生は手術の腕だけではなくその人間性も一目置かれる存在であった。この4月からは教授から院長という立場になられ、また新たな歴史が始まっている。
 院長室の古瀬先生は非常に明朗快活で気さくでいらした。「僕はなんでも隠さないで喋っちゃいますよ!」お逢いした瞬間に先生からそんな風におっしゃって下さって、こちらの緊張は一気に吹き飛んだのである。  
 笑い声も高らかで手振りを入れながらお話しする古瀬先生を目の前にして、先生の指の美しさについ見とれていた。

 『私の親父は内科の医者だったんです。金沢大学にいたんですね。それから福井に行き、最後は富山で開業をしたんです。富山の中でも人口が5000人ほどの福光という小さな町で、町の境はもう隣の岐阜県という所だったんです。要するに辺地なんです。古瀬の家は地主だったので、終戦前までは地主は小作農から年貢を取り立てて暮らせたんですね。それで祖父は親父を学校に出したんですが、ただし必ず戻ってこいというように常に土地に人間が繋がれていたんです。僕の時代にはもう何処に行っても構わないとなったので楽になりました。しかし相当な辺地だったので高校は同じ県内でも下宿しなければならないくらい遠距離にあったんです。私はそこで考えて、思い切って上京したんです。中学3年から親元を離れて東京に出てきてしまったんです。はやくから親元を離れると変わった人間ができちゃうんですよ。人とのつきあい方もはやく覚えますよね。』

 中学3年で親元を離れる理由のもうひとつはこういうことだった。
『姉が子供の頃からピアノを習っていたのですが、母は姉に対してかなり期待をかけていたんです。それで、姉を田舎に置いておいてはいけないと思って東京に出そうと思ったんですね。でも姉はまだ高校生だったので、東京に女の子をひとりで上京させるのは危険だと考えて、私にボディガードに行けと言われたのが上京のきっかけでもあったんですよ。』

 そんなふうにさらっとさり気なく話す先生の幼少時代は、どんな感じのこどもだったのだろう。
『私は昭和11年生まれなので、幼い頃は戦時中でした。親父も兵隊に行ったりしてあの頃は日本中が貧しい時代ですよね。ただ音楽好きの家族でね、楽器を演奏できないのも私だけなんですよ。それでもバイオリンをやらされたことはあったんです。でもなんだかあんまり能力がないというか、あるところまではやったんだけどやめてしまったんですね。そのくせ、自分に娘ができたらバイオリンを習わせたりしたんですけどね。
 家族がみんな楽器をやっているから、私も音楽は好きだったんですよ。家族中が演奏できて僕ができないっていうのもなんだか不思議なんだけどね。
 私の母親というのは非常に活発な女性で、そのまた母親も活発なんです。女学校の英語の先生だったんです。なかなか革新的な人で婦人解放運動とかで旗を振っていたような女性なんですよ。だから私にはその血が流れているんでしょうね、遺伝子というか。学生運動とかをやったりしたこともあったんですよ、損得抜きで改革運動とかやったりね。親父は大変おとなしい人だったんですけどね。
 子供時代の私はそんなに強い性格ではなかったですよ。ガキ大将の保護の元にいて結構要領よく行動するタイプで、いじめられそうなんだけど上手くすり抜けてやっていくっていうタイプだったかなあ。
 戦時中、都会から疎開の子がやってきたんです。東京のお茶の水大学付属小学校の生徒が集団でやってきてね、お寺を借りて疎開していたのでそこだけ独立国のようになっていたんですね。そうすると子供からすればそこはいじめの対象になるでしょう。東京の子ってちゃんと運動靴を履いているとか田舎の子となんとなく違うじゃないですか。もちろん遊びでいじめたりするんですけどね。そういう小さい頃の戦時中の体験っていうのは小さいなりに勉強になるんですよね。
 受験なんて全くない時代でしたからね、ほんとに良かったですよ。だから自分が勉強ができるかどうかなんてわからないんですよね。どちらかというと私は足が速くてスポーツは得意だったんです。中学の時は県民体育大会で体操や軟式テニスの選手として出場しているんですね。私が自分で勉強ができるのかな?と意識したのは東京に出てきた中学3年の時なんです。始めて模擬試験をやったら成績が良かったんですよね。それまでは全くそんなことを意識したことがなかったことで結果的に幸せな子供時代を過ごせたと言えますよね。そういう点で今のこどもたちは可哀想ですね。小学校1年や2年で自分が勉強ができるのかできないのか判断してしまうでしょ。そのくらいの年齢じゃ全くわからないのに可哀想ですよ。』


 伸び伸びと育った先生はそのままずっと東京に住みたいと思った。ただお父さんと同じように医者という職業に就きたいと子供の頃からおぼろげながら考えていたのである。そして東大医学部に進みその先の進路を決める時になった。
『その頃は第一外科と第二外科しかなかったんです。第一外科の方はわりとオーソドックスな外科で、第二外科は心臓外科や移植の外科や小児外科だったんです。そのどちらにするか、すごく迷ったんですよ。あの頃は医学部を卒業して1年間インターンをやってから国家試験を受けるという形だったんです。卒業した頃は第一外科で脳外科をやろうかなとも思っていたんですね。脳外科も田舎に帰らなくて良いという条件に叶っていますから。脳外科には佐野先生というすごく講義の上手な先生がいて、素晴らしかったんです、夢があってね。それにあの頃の若い医学生にとっては脳外科ってすごく魅力的だったんですよね。しかしインターンになって脳外科の手術を実際に見てみると、見ると聞くのでは大違いなんですね。何か自分には合わないような気がしたんです。それから第二外科の心臓の手術を見たんですが、もちろん悪戦苦闘をしていてとても難しそうなんです。でもまだこちらの方が自分にもできるかもしれないと思った。それから自分の進路を急に変更して第二外科のグループに入ったんです。
 ところが第二外科に入れても、心臓外科に行けるのはたったひとりなんですよ。ところが希望者は3人もいる。「これは男らしくあみだくじを引こう」ということになって、私は運良く心臓外科が当たったんです。完全に運にまかせたわけです。だから私がどうして心臓外科医になったかと言われれば「くじ運が良かったから」というのも大きな理由の一つになるんです。当たっていなければ小児外科をやっていたかもしれないし、その他の外科をやっていたわけですからね。運っていうのも大切ですよね。』

 順調に心臓外科医の第一歩を歩き始めた先生は、インターン修了後に大学院に進んだ。
 『千葉県の旭中央病院というところと三井厚生病院で一般外科の手術を勉強したんです。しかし大学院生なので研究もしなければならない。私の研究テーマは「心臓移植」だったんです。上の先生がスタンフォード大学で、もちろん動物実験ですが、心臓移植の実験をやっていると聞いてきたんです。それで「誰かやれ」っていうわけなんです。始めてはみたけれど、最初はやってもやっても上手くいかないんですよ。それでも3年ぐらいがんばってようやくうまくいくようになりました。昭和42年くらいのことですね。
 その年の暮れに南アフリカのケープタウンでクリスチャン・バーナード博士が、第一例の人間での心臓移植をやったんですよ。その時の私たちは脳死なんていうことを知らなくてね。おかしな話ですが動物実験をやっていたにも関わらず人間での心臓移植はずっと先のことだと思っていたんです。我々の実験仲間はとっくに考えていなければいけなかったことを考えていなかったんですよね。
 翌年になるともっとあらゆる所で移植が行われるようになったんです。東大でも三枝教授時代に計画されましたが、結局は行われませんでした。しかしそのあと大学紛争で実験室が封鎖されたんです。その時に私は留学しました。昭和44年7月からJohns Hopkinsに3年間留学したんです。
 3年経ってアメリカにいるか日本に帰るかの選択は、子供が2人生まれたことも原因の一つですが、アメリカの当時の白人社会で日本人がどう頑張っても偉くなれるわけがないと言われたことが帰国の決心の大きな原因だったんです。
 それから帰国して、10数年も助手の時代が続きました。私は助教授はやっていないんです。講師も2年くらいです。いわゆる下積みの生活が長かったんですよ。だから立場の下の人たちの気持ちはよくわかるんです。
 私が何かを下の人に教えられるとしたら、臨床のことが多いと思います。言ってみれば親父のやってきたことと連続性があるのでしょうね。』


 古瀬先生が心臓外科医を選んだ理由について「外科や心臓外科は辺地では出来ないから」とあっさりおっしゃったが、アメリカから戻られてからの先生の夏休みにはこんなエピソードがある。
 『助手の時代の夏休みはずっと「田舎の医者」をやっていたんですよ。親父に海外旅行をさせて私はその間親父の代わりをやるんですが、車に乗って県の外れの寝たきりのお年寄りの家に行って往診するんです。それはなかなか勉強になりましたよ。田舎の人は院長の息子だというだけで、面識がなくても「顔が似ている」「声がそっくり」とか言って安心して任せてくれるんです。
 その親父は私が講師の時に亡くなったんです。開業していた病院をたたむことになり、病院で勤めていた人に退職金を払ったり麻薬を富山県庁に返納に行ったりするのは兄弟で私だけが医者だったので私の役目だったんですね。その時はなんだか悲しい気持ちになりましたよ。ちゃんとした息子がいながら病院を継がないのは変ですよね。その時はこのまま田舎に帰って自分が継ぐべきかもしれないとは思ったのですが、やはり私は心臓外科医の意志を通しましたよ。』
 
 もう一つ、先生がアメリカから帰国して発案し、実際に今もまだ存続していることがある。それが「胸外カンファランス」なのである。
 『あの当時、ちょうど小児科には阿波先生がいらしたんです。私の同級生で留学からも同じ年に帰ってきたんです。2人で相談してカンファランスをやろうということになったんです。でも私たちもまだあの頃は若かったですからね。教授や上の先生から勝手なことを決めてと怒られるかもしれない。まして小児科と胸部外科の合同カンファランスをするなんてことわりもなしには当然怒られますよね。だからそういう名前にしないで「アンギオカンファランス」という名前でアンギオを読む勉強会ということにしたんです。でもそこで実は手術適応も全部決めていたんですね。それが今でも続いている火曜日の「胸外カンファランス」につながっているんです。昭和47年からですから、歴史が長いですね。最初は1ヶ月に1度と決めましたが、それではダメじゃないかと思ってね、週に1度になったんですよ。そしてそのカンファランスでは小児科も胸部外科も上手くいった症例も上手くいかなかった症例も絶対に全部隠さずに伝えようと決めたんです。実はそれが一番肝心なことなんですよ。そうでなければ患者のためにはならない。自信がなければ「自信がない」と公言できることはいいことなんですよ。格好つけていては何も始まらない。ごく普通のことなんですけどね。ただ人はつい格好つけたくなるでしょ、嘘を言いたくなるでしょ。』

 古瀬先生はこの春の退官にあたり、手術成績のどんな小さな手術の成績すら包み隠さずに公表したのである。もちろん結果が可でも不可でもである。
『上手くいかなかった結果も全て公表するのは確かにある意味大変なことかもしれません。人間というのは弱いものだから、なんだかんだと理由をつけたくなるんです。でもそういう理由付けは一切せずに死亡してしまった例も公表することは今後大切なことではないのかと思ったのです。これからはもうそういう時代なんですよね。
 胸部外科学会では何例の手術をしたかという統計をとっているのですが、そこではずっと「何例死亡したのか?」という統計まではとらなかったのです。しかし来年からはとるようになるんです。情報を開示する・・・・・そういう世の中になってきたんですよね。
 それでも私自身は大きな研究をしたわけではないのです。ただ臨床成績を下げないように最大限に努力しました。それだけに精一杯でしたね。
 これから先の人たちには、もっともっと手術成績を良くしてほしい。しかしそれには全てのことを細かく記録として残しておかなければならないと思った。得意なところだけを出してもダメなんですよね。私はインチキは嫌いなんです。でも私どもの成績を自慢するつもりはありませんよ。もっと成績の良いところもあることは知っていますから・・・。』

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 『学生に良く話すことは、臨床で上手くいかなくても決して嘘を言うなということなんです。だから最終講義では一つのまとまった話をするよりも、私の手術結果を全て見せてしまうことが大切だと思ったのです。業績集の一番最後のページにも手術成績を載せました。外科医の業績というのはそれが一番の業績ですからね。』
                        (インタビュアー 三上敦子)
 
                         

Edited by Atsuko Mikami