画家  北浦 信一郎さん

 ART BOX大賞という新進アーティストのプロへの登竜門のコンクールがある。北浦信一郎さんは応募総数1.092点の中から見事に1997年度の大賞を勝ち取った、今年31歳の画家である。
 めだかの学校のアートパフォーマンスの1回目は北浦さん。今から約3年前のことだ。その頃の北浦さんは東京芸術大学の大学院生。油画を専攻していた北浦さんは青を基調とした力強いタッチの作品を描き、残していった。小児科の雰囲気に何かを感じたのだろう。それからは折に触れ足を運んで下さったのである。
 それから少しの音信不通のあと、今夏のめだかの学校展に作品を寄せて下さった。水彩で描かれたそれは、すっきりとした構図で洗練されていた。
 その直後に、大賞のニュースを聞いたのである。

 このインタビューでは、こども時代から現在までの「創作の軌跡」を北浦さんの思うまま、話していただいた。

<こども時代>
『子どもの頃は余りおもちゃを買ってもらえなかったから、絵を描いたり粘土で何かを作るっていうのが遊びだったなあ。
 植物や動物を描くのが好きで、自然のものを描くことが好きでした。見て描くこともあったけれど、イメージで描くことの方が多かった。キリンの絵を描いたり、馬を描いたり・・・。自分が午年だから、「お前は午年だから」って親から言われて育ったんですよ。だから自分のことを「馬に関係があるのかなあ」って、子どもの頃いつもそう考えていた。自分の心臓の音が馬の蹄の音と関係があるのかなあって思ったり。「どきん、どきん、どきん」っていう心臓の鼓動が馬の蹄の音のようにいつも感じていた。午年でも、丙午だから余計に特別のように親から言われていたんです。
 無機物には全然興味がなくて、有機的な、命が有るようなものしか描きたくなかった。それは今でも変わらないですね。変えられないような興味なのかなあ。
 粘土で人の形を作ってそれをまた粘土でくるんで、くるんだ上から刺してみたり、広げたら中の人形はどうなっているのかなあとか、切ったら断面はどうなっているのかなあって。
 考えようによっては恐いけれど、でも子どもの頃って興味があることでしょ。命というのはどういうものなのか興味があるから、そういうことをしてみたくなる。くるんで隠してそれを切ったり刺したりっていうことが、なんだか神秘の世界っていう感じがしたんですよ。
 そう言えば、幼稚園の時って、帰り道に子供同士で手をつないで帰るようにさせられていたんだけど、友達に「北浦くんと手をつなぐと手がベタベタしていやだ!」って言われて、つないでもらえなかったなあ。それくらい、いつも粘土で遊んでばかりいたから。それだけやったおかげで粘土はものすごく得意になって、中学時代に手の形を粘土で作って、県で特選をもらったことがありましたよ。
 小学校3年くらいのときは、自分で想像したロボットの絵を描いていたかな。ロボット1号、2号とか名前をつけて。』

<中学・高校時代> 
『そのころになってはじめて他人から「北浦は絵が上手い」って言われるようになったんです。
「お前は絵が上手いから、ペンキ屋になれ」とか言われて「そうなのかなあ・・・」なんて思ってた。中学の時も、先生からは「北浦君は手先が器用だから工業高校に行くといいよ。」って言われて。
 高校の時は部活動で絵を描くことが、何故かとても女の子のお稽古事のように思えてイヤでしたね。美術部とかを見ると女々しいように思えて、その時の自分とは違うような感じがしたんでしょうね。
 だから自転車部に入部して全く今までとは違うことをやったんです。でも学級の旗を描いたりしていたから、絵が得意だということは人にはわかっていたみたいですね。
 芸術の価値や芸術家の価値を、心の中で認めていたんだけど、でもそれに正面切って取り組んでみようっていう感じでは、あの頃はなかったなあ。思春期の頃に何かに打ち込みたいっていうエネルギーは誰しもが持つ感情だけれど、芸術の方向には興味があっても周りでそういうことに打ち込んでいる人はいないから、とりあえずスポーツをやってみるっていうのは、あの頃ってあったかもしれない。』

<上京して>
『高校まで福島の郡山で育って、高校を卒業してすぐ上京してきて新聞屋で住み込みのアルバイトを始めて・・・。1年経ってから美術の予備校に入ったんだけど、自分が思っていた通りの世界でした。お稽古事っていう感じじゃなくて、みんな真剣勝負なんですよ。これなら挑戦する価値があるなと思った。
 誰かが助言してくれたわけでもなんでもなくて、自分だけで絵をやってみたいと思っていて、むしろ高校時代の進路指導の先生には「無理だからやめろ」とか言われていたくらいだったんですよ。
 「美術関係に進みたい、絵が好きだからデザインやそういう方面に進みたい」って相談を持ちかけたら、「そういうのはねえ、横山大観くらいだったらできるのかもしれないけどねえ・・・」なんて言われちゃって・・・。でも横山大観になってしまったらもう勉強する必要はないのにって思いましたけどね。
 考えてみれば、あの頃の支援者はゼロだったんです。ただ中学の時に一緒に油絵を描いたりした仲間が東京に出て芸大を受けると言っていたから、そういう連中が励みにはなっていました。結局、その仲間の一人は自分よりも一年早く芸大に受かったから、ますますやる気が出てきたのも事実です。それに、他人にできることが自分にできないわけがないって常に思っていたから・・・。
 若くてエネルギーやコンプレックスの塊だったから、「絶対に自分はやるんだ!」っていうことしか頭になかったんでしょうね。
 すごく自意識過剰だったんだと思うけれど、「自分は特別なんだ」って常に言い聞かせていましたよ。「特別なんだからやれないわけがない」って。子どもの頃からそうでしたね。
 母親からいつも「お前は特別だ、お前は特別だ」って言われていたから「自分は特別じゃなきゃいけないんだ」っていう意識がいつもどこかにあったのかもしれない。でも学校に行くと全然「特別な子」じゃないから、子供ごころにおかしいなあと思っていましたね。特別じゃなきゃいけないと思っていたのに学校に行くと普通の子だから、そのギャップを絶対にいつかはどこかで埋めなければいけないって。それが高校を卒業してやりたいことが見つかって、一気に吹き出したのかもしれないです。「じゃあ、本当に特別になるために頑張らないと、このままでは自分は特別でもなんでもない」って。
 有名人とかがテレビに出ると消してしまったりするんですよ。今でもそういうところがあるなあ。気に入らないというか悔しいというか、嫉妬みたいなものなんでしょうね。
 あと、人のことも心の底からは応援できなかったりしますよ。人のことを応援する暇に自分のことを頑張らないとって思っちゃって。「何かを成し遂げたい」っていう思いが常に自分の中にあるから、特別になっている他者に対する嫉妬がすごいんですよ、小さい頃から・・・。
 他人に理解してもらいたいという甘えよりも、自己満足を得たいっていう欲望の方がものすごく強い人間なんだろうって、自分のことを思いますね。』

<予備校時代>
『美術の予備校に入って、生まれて初めて「優等生」になったんです。それまで優等生なんてなったことがなかったから、突然境遇が変わって自分でも驚いちゃって。
 予備校時代は朝4:00に起きて朝刊を配ってから予備校に行って、それからまた夕刊を配って、残った時間で絵を描くっていう生活だった。遊ぶお金も暇もなかったから、あの時はただひたすら夢に向かっているっていう感じでしたねえ。薬局でカフェインの錠剤を買ってきてそれを飲んで眠気と戦ってました。今こうして話すと、なんだか変な苦労話になりますけどね。
 でもあの時あれだけ絵に頑張れたっていうのは、ずっと制作していく上で大事なことだなと思っているんです。あの頃は、自分のエネルギー全部を絵に費やせるようになれば、作品がもっともっと良くなっていくかなって思っていましたよ。
 食べていけなくても、一生絵描きとして生きていきたいっていう自分にとっての美学があったから、20歳くらいの時は先に対する不安は何もなかったですね。
 3浪して芸大の油画科に入学して、それが最初の自分の目標だったから、入れたときは単純に嬉しかったなあ。』

<芸大時代>
『表現のスタイルをどういうものにするかというのは迷っていたところがあるんだけど、自分が絵を通して表現したかったのは人間の心の問題だというのはもうかなり昔から決まっていました。
 ただそれをどうやって表現するのか、表現する段階になって「ああでもない、こうでもない」っていう試行錯誤をいつもしています。10を表現したくても、まだこれでは6くらい、まだこれでは7くらい・・・。造形的に上手くいっても、表現したいことがまだまだだったり・・・。それは死ぬまでずっと探求し続けるものなんでしょうね。
 自分の表現したいことも微妙に変化しているけれど、でも人間の精神以外のものには全く興味が持てないんですよ。
 大学に入ると木やゴムを使ったようなコンセプチュアルアートっていう材質や空間に興味を持つようになったり、そういう作品を造るようになったりする人も多いけど、自分は全然そうならなかったなあ。
 昔は思いついて描くことが絵だと思っていた。でも途中から、思いついて描いたものからイメージして描く、そして描いたものを消す、そしてまた次のイメージが浮かぶっていう「連続した意識」も絵画の要素だなと思うようになりました。』

<アートパフォーマンスの頃>
『原始的なものや人間が描く行為の根元的なところに、最初は興味があったんです。 今ももちろんそういうところがあるけれど、あの当時は人が絵を描くという行為の意味に、凄く興味があった。
 稚拙な形を選んだり、子どもが「いい形だな」って選ぶような形を選んだり、意識的に思いついて稚拙な形を描こうとしたり、描きながらこの線がどうなっていくのかなっていうのが楽しかったなあ。
 人間が何か跡を残すようなエネルギーやプリミティブな欲求を表現することを大切にしたいというのが、あの頃はいつも自分の中にあったように思うんです。』

<「題名」のこだわり>
『自分の絵に日本語の題名をつけているのは、何かわかりやすくしたいためなんです。 
 タイトルの持つ意味と絵で、きちんと対になっているような感じにしたかった。でも、見た絵とは違うイメージの言葉を持ってくるように常に考えています。そうすると見ている絵と題名との間に距離ができて、その距離を埋める作業を見た人ができるでしょ。
 例えばライターだったら、ライターからタバコ、タバコから煙り、煙りから雲・・・っていう様に、「ライター」を描いて「雲」という題名をつけると、そこに距離ができる。そうすると詩的な感覚というか、見た人は「どういう意味なのだろうか・・・」と、題名と絵の距離を埋めようとする。そういうところにも興味があるんですよ。見てくれた人がタイトルから物語を心の中に作ってくれたら、それは面白いなと思う。
 ART BOX大賞に選ばれた「消えない跡」は、映画の中に「物事には跡を残す・・・」っていうセリフがあって、その響きが凄く気に入って「跡」という言葉を使いたいなと思ってつけたんですよ。
 そんな風に気に入って良い言葉があると、手帳に書き留めてとってあるんです。本屋で本を見ていて、本の内容なんか知らなくてもなんかちょっと気になる単語が目に留まったりすると、それを使ってみたりする。
 バルザックは自分の小説の登場人物にぴったりくる名前を探すために、パリの街中を歩き回ったりしていたらしいんですよ。そういうのってとても分かるような気がします。
 自分で考えるとあまりに直接的な言葉でつまんなかったりするけれど、普段生活をしていて心に響くような単語に出会ったら書いておくようにしているんです。』

<漱石について>
『漱石は中学時代から好きなんだけど、どの作品を通しても人間の心の中について扱っているものばかりだし、個人的にはあのユーモアの感覚も好きなんです。ユーモアの感覚と、鋭い洞察力が同居してるのがいいなあ。
 明治の人間の精神を反映した作家だったし、今の人間から見たら、どうしてこういうことで悩むんだ?っていう内容で小説を書いているでしょ。あの時代の人間の心の中を描いている描き方が好きなんですよ。
 それに漱石個人の生き方も好きだなあ。精神分裂症で、何十年に一度とかに発作を起こす。例えば、漱石がロンドンに留学していた頃にトイレの棚にコインが置いてあったことを、下宿のおばさんが自分を哀れんでコインをくれたという間違った解釈をしていた。日本に帰ってきてから自分の娘が火鉢にお金を置いていたら、娘がロンドンのおばさんとぐるになって自分を哀れんでいるんだと錯覚してしまって、娘を叩いたり・・・。そういう、漱石の変なところが好きなんです。
 本を読んでいると、「あ、この時はちょっとおかしかったのかなあ?」ってそう想像させるのがまた面白い。強い被害妄想というのかなあ・・・。
 作品で一番好きなのは「わが輩は猫である」かな。』

<これからのこと>
『大学でずっと油絵を勉強して描いていたけれど、日本人が古来から表現してきた精神の世界や美的感覚や価値観は、油絵で表現しているのと違うところにあった。
 この頃は日本のものの良さが急に見えてきて、表現してみたいなあと思っているんです。
 学校を卒業すると、自分が興味を持つものをひとつずつやってみようっていうのがあって、最初は水墨画の精神世界やその素材で表現できる幅を知りたいと思った。凄くシンプルで力強いところがあるなあとずっと前から思っていたので、それが表現できないかなと思っていたんです。
 以前は手の跡を残したような作品に興味があったんだけど、最近はそう思えなくなったんですよね。もっとシンプルに、筆触の跡や、筆を動かした跡を残していないような、無駄が無くてシンプルでありながら力強い表現っていうのかな・・・。無駄のない美しい形、何も描かない「間」に意味を持たせるような。
 日本の精神性をそのまま取り入れてしまうと現代とは少しずれが生じるだろうから水墨画をやろうとは思わないけれど、でも日本の美学の良質さを取り入れて、現代的にシンプルな表現をしていきたいなと今は思っているんです。』

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『人間として生まれたからには何かを残すような仕事がしたいって思ったら、自分には絵しかなかった。
 自分が一生をかけてやっていきたいことは何かなって真剣に考えたら、やっぱり絵しかないと思っています。』
                        (インタビュアー 三上敦子)
 
                         

Edited by Atsuko Mikami