徳洲会理事長  徳田 虎雄先生

  徳洲会グループは年中無休、24時間オープンの医療機関である。全国に100以上の病院施設を持ち、日本の地域医療に貢献している。徳田先生は、昭和48年に大阪府松原市に徳洲会第一号病院の徳田病院を開設し、その後衆議院議員に当選、第二次村山内閣では沖縄開発政務次官も務められた。現在、東大小児科は徳之島徳洲会病院の他、5つの徳洲会グループの病院に20人以上の医師を派遣している。
 先生のエネルギーの源の謎に触れたくてインタビューをお願いし、1分を争うほど多忙なスケジュールの合間を縫ってお会いすることができた。「豪放磊落」といった雰囲気の徳田先生は、東京の空に響きわたるくらいの大きなくしゃみと共に現れたのである。

 『僕は昭和13年の2月10日、兵庫県の高砂市で生まれました。おふくろが僕を生むときに出血多量で気を失ってしまったんです。近所の人が駆けつけて母の意識を取り戻そうと葡萄酒を飲ませたりして、ようやく気付いたときには、僕はもうチアノーゼが出ていて紫色になっていて、今度は僕をどうにかしなければと大変だったらしいんです。間一髪で助かったんですよ。僕の人生が、生まれたときに暗示されていますね。それからずっと何をしても余裕の持てる人生じゃないんですよ。間一髪で助かる人生にそれからなっていくわけです。』

 そして2歳の時にご両親の出身地である徳之島へと移られた。徳之島では農業を営んでいたので、徳田先生は小さな頃から農作業の手伝いをしていたのである。
 『さとうきびを絞る道具があって、それは牛がグルグル引っ張り回して絞るものなんです。牛の後ろを人間が竹の鞭で叩いて歩くからいつまでも牛がグルグル回って作業ができるというしくみなんです。その牛の後ろを棒を持って回るのが3歳の頃の僕の仕事だったんです。
 2月の寒い時期にしとしとと雨が降る中で引きずるくらいの長いオーバーを着て、朝からずっと牛の後ろをぐるぐる回っていたんですよ。僕は長男で父親にとても可愛がられていたので「おい、虎。はやく小屋に入りなさい」って、そう言ってもらえるものだとばかり思っていたんですよ。それを期待しているのに、全く父親からそういう素振りが見えない。2時間くらい経ってびしょぬれになった頃に、父親に「風邪を引くから中に入れ」と、やっと言われたんです。ほっとして僕は中に入ろうとしたんだけど、ふと牛を見たらお尻のところに湯気が立っているんだよ。それくらい寒かったからね。その時に(ちょっと待てよ・・・・)と、なんだかわけのわからない感情が沸いたんですよ。自分だけが寒いからと言って小屋に入ってしまったら、牛はどうなるんだろうって・・・。子どもながらに(自分だけ甘えていいんだろうか・・・)って思ったんです。牛に申し訳ないような、そんなことをしたら卑怯だなという気持ちになってしまった。と言っても、今はその気持ちがそういうことだとわかるけれど、その頃は気持ちについて説明はできませんでしたよ。でも、何かとても人として絶対にしてはいけないことではないかという感じがあったんですよ。それからもう一つの気持ちは、ここでやめたら自分が牛に負けるという気持ちだったんですね。
 牛に対する愛情と競争心。その2つをその時にしみじみ感じたんです。これが僕の小さいときの記憶の中で一番初めの鮮明な記憶なんです。
 空襲のこともすごく忘れらないことですね。とやま丸という船が南方に行くときに魚雷にやられて、4000名以上の兵隊が亡くなったんですよ。その遺体が僕の住んでいる島に打ち上げられてきたことは今でも忘れられません。
 でも、2番目に忘れられないことをあげろと言われたら、昭和21年の出来事です。僕は小学校3年くらいでした。その頃は親父が鹿児島で黒砂糖のやみ商売をしたということで捕まってしまって、9ヶ月間刑務所に入れられていたんですよ。その親父が不在のある日の夜中の3時頃、弟が病気になってしまったんです。僕は近所の医者に往診を頼みに行ったんですが断られたんです。また反対側の医者に行って、「弟が白い目をむいていますから・・・」と頼んでも、やっぱり断られてしまったんです。結局、明け方に弟は死んでしまいました。僕にとって諦めようと思っても諦められない、弟の死だったんです。ひと晩弟のそばに寝て、夢の中で弟のことを「あっちに行くな・・・」と引っ張っているんです。本当に諦めきれなかった・・・。
 それまで僕は、医者は無条件に人を助けるものだと何の疑いもなく思いこんでいました。しかしそのことを体験してから、医者は金持ちの患者ならどんなことをしても診察するけれど、貧乏な患者は往診はしてくれないのだ・・・とわかりました。それから僕は風邪を引いても、それが夜中だったら(自分は往診して貰うことはできないから、いつ死ぬかわからないんだ)と思ってしまったんですよ。恐怖心というのでしょうか・・・。
 そのことがあってから、将来は絶対に医者になろうと決心したんです。僕が医者になったら、どういう境遇の人でも、たとえ夜中でも、診るぞって思ったんです。弟の死が強烈な印象にあって、またそういった体験が人生を決定していくんだな・・・って思いますね。
 牛のことで他者と一体になる愛情がわかり、小さな弟の死で自分の将来を決めた・・・。それくらいその2つの出来事は、僕にとっては何よりも大きなことでしたね。』

 中学に入学し、医者になるために猛勉強を始めた先生は、不得意な英語を克服するために1日15分だけ英語を習いに行ったという。
 高校2年生の夏には、蓄膿症の治療をするために大阪へと向かった。 
『大阪大学の医学部に行って診て貰いましたが、島の医者と大阪の医者では全く違うんですよ。島では年をとった医者ばかりですが、大阪では25〜26歳の若い先生がパリッとした白衣を着て歩いている。かっこいいなあと見とれていましたよ。そしてその若い医者から「手術をしないで様子を見ましょう」と言われたんです。僕はてっきり手術をしなければ治らない病気と思っていたので、手術をしないで治せるなんて素晴らしい先生だなあと、単純に勘違いをしたんですよ。それで僕は(大阪大学はいい大学なんだ!)と思ったんですよ。絶対にここに入学しようと決心したんです。
 病院に通いながら、高校は編入しようと決めて、最初は北野高校に行ったんです。校長先生が出てきて、「奄美大島からは編入試験を受けてうちの高校に入った前例はないですよ」と言うんです。つまり他へ行けということなんです。それから今宮高校に行ったら宮崎出身の先生がいて、「編入試験は受けていいですよ」と言ってくれたんです。しかも「二部(夜間高校)の試験も受けてくださいね」と言うんです。世の中には随分親切な人がいるもんだなあと思いましたよ。田舎者だからね。なんかそういう単純なことが、簡単に心に響いてしまうんですよね。そういう年齢だったのか、時期だったんでしょうか。
 しかし物事を斜めに見てしまう癖も同時にありました。それはやはり弟の死のことが大きかったでしょうね。物事を正面から見ることができないんですよ。学校の先生のこともひいきばかりするように見えてしまった。
 僕が幼少の頃、親父はトラックの運転手の助手をしていたんです。荷物を積んだり下ろしたりしていました。戦後、その親父が黒砂糖の密輸で捕まったときに思ったこともあるんです。それまでの警察は「反米」だったのに、戦争に負けたものだから、もう警察はアメリカの手先になってしまっている。僕は親父のやっていることの方が正しいと思っていたから、警察に対してもとても反感を感じたんです。今まで「鬼畜米英」と叫んでいた人に限って、密告したりする。そんなことの積み重ねで、世の中を斜めに見てしまう癖がついてしまった・・・。
 医者も警察も学校の先生のことも、すっかり信じられなくなっていましたよ。世の中を完全に斜めに見てしまっていました。だからかわいげのない子どもだっただろうね。正面から騙されてくれたら、大人からすればかわいい子ですよね。僕は大人のことも睨み付けてしまう。そんな子どもはかわいくなんかないですよね。でもね、人の心が読めてしまうんですよ。だから何かいつも真剣に腹を立てている子どもでしたよ。同時に、そんな風に人の心が読めてしまうから悪いこともできなかったんですよ。』
 
 そういう先生の考えを育てたご両親とは、いったいどのような方なのだろうか。 
 『親父は小学校も卒業していないけれど、おふくろは勉強ができたらしいんですよ。だけどね、親父の方が頭が良かったですよ。おふくろは努力家で、親父は努力しないけれど頭のいい人だったんです。
 親父とおふくろが喧嘩をする。親父はおふくろとの約束で、お酒は一日一合しか飲めないことになっているんだけど、どうしてももっと飲みたいときの親父の台詞がおもしろいんですよ。
「どっちがはやく死ぬかと言ったら、私が早く死ぬんだ。もし私が死んだら、財産は全部貴女のものになる。この焼酎だけが私の楽しみで日当なんだから、もうちょっとくらい飲んでもいいだろう」って言うわけです。そうするとおふくろが「まったくもう、しょうがないわね」って折れるんですよ。毎日のようにそうやって喧嘩をしても、おふくろは親父にはかなわないんですよ。
 おふくろは、朝の5:00に起きて豚の餌になるさつまいもをふかして、家族の食事を作り、豚の餌やりと家族の食事が終わると、日が暮れるまで畑仕事をする。農業は男も女も関係ないからね。女の人も男と同じ重労働なんですよ。夕方に家に戻ると、また豚の餌やりと家族の食事を作る。それが終わると、今度は僕が勉強をしている後ろで針仕事を始めるんだよ。針仕事をしながら、実は僕を見張っているわけですよ。僕は勉強をしながら後ろを振り返って(まだ寝ないのかなあ・・・)と思っていましたよ。おふくろが寝たら僕も寝られるんだからね。それでも、いつも12時5分前くらいに「私は先に寝るよ」と言うんですよ。それでやっと僕も寝られるわけです。おふくろはそうやって何にも言わないで仕事をすることで、僕を上手くコントロールしていましたよ。僕もおふくろにコントロールされていることはわかっているんだよね。おふくろは朝早くから夜遅くまで、土、日、祭日、正月なくして、自分のためにそうやって働いてくれているのがわかるから、コントロールされても仕方がないなあと思ったんですよ。
 自分が医者になって、おふくろをなんとか楽にさせてやらなければいけないという思いがあったから、僕は勉強をする気になれたんですよ。自分のためには勉強なんかできませんよ。大阪に行ってからも、朝早くから夜遅くまで働いているおふくろのことを考えると、机に向かって勉強をしていることなんか労働じゃあないって思いましたよ。農家のお母さんは年中無休ですからね。農家の仕事に比べれば勉強なんてなんでもないんですよ。だから負けてはいけないと思ったし、頑張れたんですよね。僕は、親孝行をしない人は、人生うまくいかないのじゃないかと思いますよ。人間は自分のためには頑張りはきかないですよ。
 おふくろが大変な努力家だとすれば、親父には慈悲深い心がありました。昔は結核や盲目の人は村を出ていって自分から村外れに移り住んでいったんです。それこそ牛小屋みたいなところで生活をしていたんです。そこに親父が毎日のように食事を持って行くんです。僕たち家族には食べさせてくれないんですよ。でもねえ、そういう親父のことを見ていて、子ども心に尊敬していくんです。親父は、本当に弱い人のために一生懸命に自分のできることをしていましたから。
 尊敬する目標の人はいるか?と聞かれると、今でも、「両親」と答えますよ。母親は子どものため、父親は世の中の貧しい人のため・・・。そういう姿を見ると、全くそれが教育の基本の様な気がしてならないんです。
 大阪大学医学部に合格して奄美に帰ったときに、親父と一緒に銭湯に行ったんですよ。親父は本当に嬉しそうでね。何も言わないけれど、幸せだったんじゃないかなあ。』


 『毎日毎日が闘いなんですよ。人生の敵は己自身なんです。ずぼらな心や甘えた心との闘いなんです。僕は、プライドを持てる人生を歩むために、人生をいつも紙一重で切り抜けてきたのではないのかなと思いますし、これからもそうしていきたいなと思います。
 僕の人生のキーワードは三つあるんです。一つ目は、自由でありたい。経済的にも社会的にも未来からも自由になりたい。二つ目は、人の命だけは平等だということです。三つ目は真実一路。これが僕が大切にしたいことです。』

 座右の銘というのは自分自身のものだから、他人の心にはしみ入らないこともある。しかし徳田先生の話には「ただの偉い人の話」ではない何かがあった。もしも先生が今の立場にはなくても、例えば小さな町工場で働いていたとしても、汗を流して畑を耕していたとしても、輝きのある人間であることは間違いないだろう。
「豪放磊落」という先生への第一印象は、時間の経過と共に薄れていた。次の言葉から感じていただけるだろうか。
 『僕はね、果たして自分は幸せなのだろうか?と考えることがあるんですよ。たいがい夜、布団に入っている時にね。自分自身に本当に満足をしているのだろうか?と思ったりする。でもね、僕はあったかい布団の中で毎日寝ているんですよ。山の中の動物達はこんなあったかい布団では寝ることはできない・・・。そう考えるとねえ、やっぱり自分は幸せなのかなあと思うんですよ。』

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 『阪大医学生の時、お見合いを勧められても、相手の女性と会う勇気がなかったですね。自分には初恋の秀子さん(徳田夫人)が奄美にいたからね。もし他の人に会ってしまったら、自分の心の中の大切なものが失われてしまう気がしてね・・・・。牛の後を鞭を持ってグルグル回っていた小さな頃の気持ちと同じだったんですよ。牛を裏切って自分だけ休んではいけないっていう気持ちと秀子さんを裏切ってはいけないという気持ちは・・・・。
 たった一度でも裏切ってしまったら、人間は良心を失ってしまうからね。命はかけがえのないものだけれど、プライドというのは命よりも重いものだからね。』
                          (インタビュアー 三上敦子)


 
 
                         

Edited by Atsuko Mikami