宮代養護学校職員  栗林 和恵さん

『小学校2年生のときに突然発病したんです。昼間は元気なのに夜中になると急に腰が痛くなって、どうしたんだろう?と思いながら毎日を過ごしていました。なわとびを飛ぶのが学年で1番だったくらい運動が得意で、それまではとにかく元気でした。1週間ほど入院して調べても原因がわからないでいたら、急に立つことすらできなくなってしまったんです。ずっと腰の病気かと思っていたら、悪性の脊髄腫瘍で「3カ月の命」と医者から言われたらしいのです。もちろん、当時の私はそんなことは知りもしませんでした。』
 栗林和恵さんは27歳。埼玉県立宮代養護学校の職員である。脊髄腫瘍の手術を受けた8歳の時から車椅子の生活を送っている。和恵さんは19年前の約1年間、東大小児科で入院生活を送っていた。今日は、和恵さんのそれからの19年間を伺ってみた。

『たまたま父の知り合いに東大病院の看護婦さんがいたので、東大で手術することができたらしいんですが、腫瘍はもうかなり大きくなっていて、骨を削って取ったんです。それから小児科で抗ガン剤の治療をすることになりました。
 今と違って、薬もあまり良いものではなかったでしょうね。治療はかなり辛かったです。治療がイヤで看護婦さんと口を利かなくなってしまったり、精神的に相当落ち込んでいました。でも、その治療も10カ月くらいで一段落して退院できたんです。
 考えてみればそれから先の毎日の方が、私には大きな出来事でした。退院の時は命は助かったけれど、もう歩くことが完全にできなくなってしまいました。車椅子の生活になったんです。退院したら、通っていた小学校に戻れることだけをとても楽しみにしていたのに、戻ることを学校側に受け入れてもらえなかったんです。車椅子の生活になったから養護学校に行った方がいいということだったんでしょうね。でもその時に私の担当の小児科の先生が校長先生に直談判してくれて、元通りその学校に通えるようになったんです。』
 この時のことは、和恵さんは覚えていないと言っていたが、「もし、今まで通っていた小学校に戻りたいのだったら自分の力でこの階段を上がってみなさい」と担当医が小児科の階段のところで、小さな和恵さんに言ったそうである。すると和恵さんは自分の手だけを使って、階段の上まで上がって行ったというのだ。
 
『それからもとの小学校にまた通えるようになったけれど、学校ではイヤなことはほとんどありませんでした。むしろ外でタクシーに乗るときに悲しい気持ちになっていました。車椅子だからって、乗車拒否されてしまうんです。「車内が汚れるから」と言われてしまったこともありました。お店に入るときも同様なことがありました。今ではそういうことは全くと言っていいくらい、ないですけどね。でもその当時は自分自身の身体のハンディを感じざるを得なくて、ショックでした。
 中学になってからはブラスバンド部に所属して、楽しく学校生活を送っていました。音楽室が3階にあったんですが、先輩方に恵まれて部活の日は順番に車椅子ごと3階まで上げてもらえたんです。学校側も私のためにわざわざスロープを作ってくれて、配慮をしてくれました。今思い出しても、中学時代までは学校生活では恵まれていたように思います。伸び伸びと過ごしていましたから。』

 成績の良かった和恵さんだったが、入学を許可してくれたのは地元の高校だけであった。しかも条件付きの入学許可だったのである。
『それくらい恵まれていたからギャップを感じるのかもしれないんですが、高校時代のことは今でも思い出したくないんです。高校は地元なら受け入れてくれるというので、推薦で入学しました。ただ、学校側は一切配慮をしないという条件でした。中学までは教室は「1階」という配慮をしてもらえたのですが、高校は義務教育ではないので全くそれはできないということでした。
 1年のときの教室は4階だったんです。それに高校時代は1カ所で授業を受けるわけではないので、あちらこちらに移動をしなければならない。その都度友達に頼まなければならないのですが、車椅子で階段を移動するには6人の人の力が必要なんです。今になれば、年齢のせいもあったのかなあ・・・と思えるけれど、なかなか人に手伝ってもらえないんです。私の姿を遠くから見ると、サッと逃げちゃうんです。恥ずかしいとか面倒だとかそういう気持ちがあったんでしょうね。仲良しの子は2人くらいだったので、その人数では車椅子を持ち上げることは無理なんですよ。あと4人がなかなか見つからないんです。そのことが辛くて・・・。恥ずかしいんですが、それで登校拒否してしまったんです。休んでいる間に本当にいろいろなことを考えたけれど、「負けたらダメだ、中退なんかしたらダメだ」って自分に言い聞かせていました。結局、1週間だけの短い登校拒否ですんで復帰しました。周りの人の対応は全く変わらなかったですけどね・・・。でも今になれば、そういう出来事があったからこそ強くなれたんだと思うんです。普通の学校に通えたからこそいろいろな人を見ることができたし、もし養護学校に通っていたらここまで強くなれなかったんじゃないかって思います。』

 和恵さんが1週間で学校に復帰したのは、二つの大きな理由のためだった。
『高校時代、中退をしたらダメだって思えた理由に、一つ年下の後輩で小児麻痺の子がいたからなんです。同じように障害を持っていて、私の後に続いてくる人がいっぱいいたんです。当時は私がなんでも先頭だったんです。その人たちのためにも、ここで自分が負けたらいけないって思っていました。「だから障害者はダメなんだ」って他人から言われたら悔しいでしょ。私はすごく負けず嫌いなんです。
 さらにもう一つ、「福祉の学校に進もう」っていう夢が私にはあったんです。春日部に短大があって車椅子で学校に通っている先輩がいました。彼女はケースワーカーになって、私にとっては目標の人だったんです。その学校に通う条件に、自分で車を運転して通うというのがありました。高校3年の冬休みを利用して大宮の教習所に通って免許を取ったんです。ずっと送り迎えしてくれる親にも悪いというのもあったし、免許を取れなければ学校に通えないっていうことだったんで必死で取りました。
 でもそうやって短大に通って本当に良かったと思いました。まず何より友達に恵まれて、高校時代が辛かっただけに雲泥の差でした。
 福祉の学校だったので実習に行くことが多くて、2週間実習に行ったらレポートを書いて・・・・という生活になってそれがとても楽しかったんです。2年になって老人福祉に興味を持って、老人ホームにはかなり通いました。その時に生まれて初めて、他人に何かをしてあげられる喜びを感じたんです。今までの私は人にしてもらうばかりでしたから。人に何かをできるっていうことがこんなに嬉しいことだとは思いませんでした。高校時代、人に頼むことばかりでそれがとても自分にとってプレッシャーだったんでしょうね。でも私にもできるっていうことに出会えて、それがとても幸せなことだなあとわかりました。だんだん自分にも自信を持てるようになったんです。それからは友達と旅行に行ったり、外の世界にどんどん出て行けるようになったんです。高校時代にあれだけ悩んだ「階段」も、友達がいつも自然にフォローしてくれるようになっていて、そのおかげで気持ちが伸び伸びしてきたんです。私にとっては福祉の学校を選んだことは良かったことばかりでした。
 車椅子実習もあって、実際に生徒が車椅子で1日生活をするっていう授業があるんです。トイレを利用したり、ちょっとした段差を体験したり。エスカレーターを昇ることにも私は慣れていたので、その実習も友達から「やらせて」って言われたり。下手な人だと落ちてしまったりするんです。そういうときも友達の練習台になれて嬉しかったですね。私はエスカレーターで降りるのも誰か1人後ろにいてくれればできるんですよ。
 その頃の私は友達にはなんでも喋っていました。その方が相手も気を使わなくていいみたいでそれを実感として感じられるようになったんです。』

 それまでの和恵さんはデパートに買い物に行って、駐車場で駐車券を受け取るとき、「車椅子です」と言うことがとても恥ずかしかったと言う。しかし短大に入って実習を経験する毎日で、いつしか「車椅子」と胸を張って言えるようになったそうだ。
『短大を卒業してから何をやろうかって考えて、公務員試験を受けることにしました。障害者枠があって、その頃は17人くらいの採用があったんです。試験場に行ったら100人くらいの受験者の人がいてびっくりしてしまいました。
 合格できて教育局に採用になったんですが、家から近いところに宮代養護学校という学校があるのですが、そこの事務として働くことになりました。そこは以前からこんな所で働けたらいいなと思っていた場所だったので喜びは大きかったです。そこでは設備面でも私が使いやすいように室内の改造をしてくれたり、職員の方々の配慮で今まで高い所にあったものを低い場所に置いて取りやすくしてくれたり・・・。申し分がないような職場です。だから私も自分にできることなら何でもやらせてもらっています。出張にも行くんですよ。』

 生き生きと大きな声で仕事の話をする和恵さんとテーブル越しに向き合うと、ハンディキャップを感じさせるものが微塵もない。透き通るようなつるっとした肌は心と身体のバランスの表れのようだ。だから次の話を聞いた時には、耳を疑ってしまった・・・。
『でもついこの間病気になるまでは、自分自身少し疲れていたのかなと思っています。去年の2月頃から急に血尿が出るようになっていたんです。脊髄腫瘍の手術から19年経っていますが、ずっと何事もなく元気だったのでそんなに大した病気ではないと信じていました。きっと自分でも健康管理を怠っていたのかもしれないけど・・・。ちょうど仕事も先生方の給与を担当していたので年度末で忙しくて、我慢していたんです。近くの病院で薬をもらったりしていましたが治らないので4月になって仕事が一段落してから大学病院に行ったんです。でもその時も検査をしたけれど大した異常もなくて・・・。それから一週間の検査入院をしたんですけれど、調べたら膀胱ガンだったんです。この頃では、医者ははっきりと病気のことを患者に話すんですね・・・。図に書いて説明をされて、はっきりと「膀胱ガン」と言われてしまいました。すごくショックでした。まさか小さい頃のようにまた大きな病気になるなんて夢にも思わなかったから。
 手術は11時間くらいかかったけれど、でもその手術よりも後の治療をすることの方がショックでした。小さい頃に治療をしたことがあって全部をわかっているので、またあの辛い治療をしなければならないって思って・・・。11月に退院したときは嬉しいけれど不安でした。また転移するのじゃないかって。半年経った検査の結果はなんでもなかったので安心したんですけどね・・・。
 27年間で2回も命が危なくなって、でもこうして助かったでしょう。恵まれているんですよね。だからきっと今回も大丈夫って思うんです。同じ病室で入院していた人は私よりもっとひどい病状なんですが、でも「生きてやる」っていう気力に満ち溢れているんです。そういう人と仲良くなって、なんで自分はいつまでもクヨクヨしているんだろうってつくづく反省しました。それに私にはいつも支えてくれる周りの沢山の人達がいるということも忘れてはいけないと思っています。その人たちがいたからこそここまで頑張れたのだと、感謝の気持ちでいっぱいなんです。』

 和恵さんの生き方を聞いて、自分の可能性を超えるほどの思いや努力が結果としてその人自身を何十倍にも何百倍にも輝かせるということに改めて気付かされた。どんな状況の時でも投げ遣りでなく、丁寧に生きていく姿勢が和恵さんの大きな魅力で、つけた蕾のひとつずつが必ず人をハッとさせるような花を咲かせる理由なのではないだろうか。

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『仕事に復帰してまた元気に通勤していますが、復帰直後は仕事が以前と比べて少なくなっていてとても焦っていたように思うんです。それは上司の配慮なんですけど・・・。
 今まで私は負けず嫌いで人に頼ることをしなかったんだけど、でもこうなってみて、少し他人に甘えてもいいんじゃないのかな、少し考え方を変えようかなあって・・・。今回の入院で教えてもらったような気がします。』     (インタビュアー 三上敦子)1998.6

 
 
                         

Edited by Atsuko Mikami