瀬川小児神経学クリニック 院長  瀬川昌也先生

 お茶の水駅前は、いつでもどの季節でも大賑わいである。年中、活気の溢れたこの街は、大きな鞄を持ち少し疲れた顔をしてうつむき加減に歩いている人と、元気な声で談笑しながら歩いているグループとで、大きく二分されるようである。数多くある書店は、どこでも大勢の人で溢れていて、混雑していないときがない。昔ながらの学生街であることと、商店や大学病院など、たくさんの人達が集まるような場所が、この駅前付近に密集しているからなのだろう。
 そのお茶の水駅にほど近い神田駿河台にある瀬川小児神経学クリニックは、1973年に開院され、今年でちょうど創立25周年になる。クリニックの院長である瀬川昌也先生は東大小児科に昭和38年に入局され、当時から小児神経学一筋に臨床・研究を進められてきた敏腕医師である。瀬川小児神経学クリニックは個人病院としては大きな病院で外来患者数が多いため、瀬川先生は月曜日から土曜日の週6日間、朝から晩まで休む間もなく診療に従事されている。

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『実は、私の家系は、小児科医として私が9人目なんです。ですから小児科医にならざるを得ないように育てられたのです。
 今、私は小児神経学を専門にやっていますが、戦争がなかったらどうなっていたのかわかりません。かなり甘やかされて育ったので、・・・というより、良い環境に育ちすぎていたんですね。
 ちょうど小学校1年の12月に日米戦争が始まり小学校2年のときに疎開をしましたが、その経験が私にとっては大変によかったんです。疎開の経験で自分にとっての転機になったというのか、少しまともになったのだろうと思います。
 医者になることが当たり前のような境遇だったんで、そのことに対してなんの疑いもなかったんです。ですから小学校6年のときに「将来、何の職業に就くか」と聞かれれば、「医者になる」と答えていたんだと思います。すごく理想に燃えて医者になったわけでなく、やむを得ずという感じだったのかもしれません』

 昭和11年に東京に生まれた瀬川先生は、小学校2年生から1年半くらいの間、神奈川県にある与瀬町、現在の相模湖町で、学童疎開が始まる前から疎開生活をすることになったのである。
 『父親が侍医をしていたものですから戦況はとてもよくわかる状況にあったので、そのために実際の学童疎開よりも早くからの疎開を始めたんです。本当は小学校1年に進学したときから疎開するつもりでしたが、私と一番下の弟は東京に残っていました。しかしミッドウェイ海戦のきっかけとなった米軍鑑載材の単独飛行による東京爆撃があり、「これは大変だ」ということになり疎開先に移ったんです。そのことで随分鍛えられましたね。私にとっては疎開生活をしたことがとても良かったことだと思います。都会から田舎に移り住んだということによる、疎開先でのいじめなんていうものはありませんが、自然に囲まれ大変に伸び伸びできたような思い出があります。』

 小学校3年の夏に終戦となり、元々住んでいた本郷へ瀬川先生は戻ることになった。
 『家は曾祖父の時代の1905年からお茶の水に小児科病院を開きました。それまでは別の場所、現在の江東区に病院がありました。幸い、お茶の水の病院と本郷の家も戦争で焼けずに残ったんです。
 自動車も少なかったので、遊びと言えば、その広場でマラソンか野球でした。
 その頃はプロ野球チームフランチャイズ制がなく、全てのゲームが後楽園で観ることができました。しかも7回を過ぎると、観戦料が無料になったんです。ですから、学校から帰ってくると後楽園を望む高台からスコアボードを見て、7回を過ぎると球場に駆け込んでいました。従って、マスコミのバイアスがなく、今のように誰でも巨人ファンなどということはありませんでした。
 実は、私は昭和21年からの阪神タイガースファンなんです。私の兄弟もかなり激しいタイガースファンなんですよ。話はずっと後の話になりますが、ちょうど長島がジャイアンツに入団したころの話なんですが、テレビではオープン戦はジャイアンツしか放映しないことに抗議し、テレビ局に電話をかけたところ、「人気があるからやむを得ない」と言うお返事をいただいたので、それではと兄弟で手分けをし、ジャイアンツのオープン戦の中継を見ながら今で言うスコアラー的分析をしました。これは大学ノート4冊くらいになったんですが、それを当時の阪神タイガースのコーチだった青田さんに渡しました。その年の開幕戦は巨人戦でした。阪神小山投手の巨人トップバッター国松に対する投球パターンが私達の分析したとおりであったので絶対に勝てると思っていたら、その試合は勝ち、その年阪神は優勝しました。しかしその後は皆忙しくなり、スコアラーとしての責務を果たせなかったんです。』

 東大小児科に入局してからも、瀬川先生の野球好きは変わらなかった。
 『私達の学年には野球好きの医者がたくさんおり、また女性群の野球に対する理解もあったので、よく練習をしました。入局して2年目になると、その年の4月の入局の方々を野球づけにしました。1月1日から練習をはじめて、その年は慶応戦にも勝ち、1年を通して敗戦は医局対抗決勝戦での不戦敗のみとすごい成績だったんです。私は神経班に入っていたので、水曜日の午後には神経外来に出なくてはなりません。けれどもこの時間帯は、野球の練習に欠くことのできない時間帯でした。幸いなことに神経班のチーフの福山幸夫先生も大の野球好きでしたので「野球の練習をします」と言いますと、快く許してくださったんですね。また、木曜日にはクリニカル・カンファランスとセラピー・カンファランスがあり、医局の黒板には「CC、 TC」と書いてありましたが、その下に「BBC」(ベースボール・カンファランス)と書き、晴れていれば御殿下グランドに集まりました。』
 なんてのどかで豊かな時代なんだろう。今は東大小児科にある現野球チーム「ドリームキッズ」も、瀬川先生の時代に負けないくらいの活発な活動や、戦績を加速度的に上げているのが誇れるところだけど。やはり、東大小児科にはそういった自由な空気が昔から脈々と流れていたのだなあ・・・。

 『その時代はというと、とても教授が強い時代だったんです。私は、先輩の方々から小学校から高校まで一貫教育を受け、特に中学校と高等学校では反発することを徹底的に教えてもらっていました。そういう時に強いものに反発するのは、大変に面白かった。ですから、教授回診なども大いに楽しくやっていましたよ。
 しかし、高津忠夫教授(東大小児科第4代教授)は医局員の意志を尊重され、特に研究のテーマの選択は極めて自由でした。
 私が、入局して2年目に神経内科が東大に開設され、そのあとに国立小児病院ができました。これらが私にとって大きな転機となったんです。
 当時、小児科では神経外来を週に1回、水曜日の午後にやっていました。しかし神経内科では毎日神経外来をやっているわけです。しかもあちらには筋肉の専門家の杉田秀夫先生をはじめ、神経学の各分野の専門家がたくさんおられるので、小児科で診ていた患者さんの中で神経内科に移ってしまう方も少なからずいました。これはどうにかしなければ・・・ということで、高津教授に申し出、「助手にならない」ことを条件に小児科でも神経外来を毎日行う許可をいただきました。
 それから私は、毎日、神経外来を行うことになったんです。しかし小児科の外来には毎日、神経外来をする場所がなかったんですよ。ですから、50平方センチメートルくらいの小さな机をひとついただいて、それを空いている場所に置いて神経外来をさせてもらったんです。他の先生から邪魔だと言われると、その机を持って移動して、あちこち点々としながら外来を続けました。その後、感染症患者用の隔離外来という部屋がほとんど使われなくなったので、その部屋に居座って神経外来の部屋にしたんです。軌道に乗ってからは、一ヶ月に900名くらいの患者さんを診るようになったんです。名前も病状も、当時は900人について全部覚えていましたよ。
 当時の神経班は福山幸夫先生をチーフに、有馬、長畑、鈴木、丸山と非常に真面目な先生方ばかりだったんですよ。神経班のクリスマス会の思い出になりますが、会が始まると、最初はとんがり帽子を被ってみんなでクリスマスキャロルを優雅に唄ったりするんです。しかしそれが終わると、「点頭てんかんの脳波についてなんですが・・・・」というように神経学の話に移行してしまうんです。「どうしてここでそんな話をするのですか?」と聞きますと、「なぜ悪い」という答えが返ってきました。今では私は若い人たちに、「アルコールを飲めば飲むほど、学問の話をしなさい」と言っています。
 一方、国立小児病院ができたことで、先輩の先生方が多数小児病院に移動されたり留学されたりしたので、入局2年半の私はいくつかの神経関係の班会議で医局の責任者になってしまったんです。筋疾患関係の班会議では福山先生の遺産をつなぎ、多数の先天性ジストロフィー(現在の福山型)や重症筋無力症の患者さんのデータから「数で驚かす神経学」を発表しておりましたが、同じ班会議に出ておられる神経内科の10年目のベテランの先生と私では、歴然と差があるわけです。しかし、とてもそのベテランの内科の先生方には可愛がっていただきました。当時は泊まりがけの研究会がありましので、朝は御飯を食べているときから、夜はお風呂の中でまで、徹底的に神経学の教育をしていただいたんですよ。
 さらに昭和39年の秋、現在順天堂大学の名誉教授をされている楢林博太郎先生が高津教授のところへ来られ、中目黒にあるご自分のクリニックに私を誘ってくださって、週に半日、先生の神経科クリニックで入院しておられるパーキンソン病、脳性麻痺や、その他の不随意運動の患者さんの診療をさせていただきました。楢林先生は大脳基底位疾患の定位脳手術のパイオニアであり、当時既に世界の第一人者であられ、生理学の島津先生はじめ、当時は新進気鋭の神経内科医、柳沢信夫先生、吉田充男先生も来ておられました。これらの先生方とは神経科クリニックに来る曜日が違ったため直接のご指導は受けませんでしたが、定位脳手術前後の病状の変化を診ることができ、これらの先生方の詳細な臨床症状の記述は大変勉強になりました。』 
 なにかこう、古き良き時代の学者さんの姿を彷彿するようなエピソードである。その頃は、病院での専門分化がまだ創世記の時代だったそうである。
 『その頃は、1年・・・、いや、1カ月間、ひとつの分野を徹底的に勉強すると、その分野では医局の中ではトップになれたんです。ですから私のように、毎日毎日、神経外来をやっており、神経内科の方々からの耳学問が入っていますと、もともと高津教授に紹介状を持ってこられた患者さんに「また次に高津先生の外来に来たいのですが・・・」と言われると、「肩書きに診てもらいますか?実力に診てもらいますか?」と若気の至りでそう質問したりしました。
 そうするとお母さんは「う〜ん・・・」と考えてから、「実力に診てもらいます」って言われるんですね。そこで「それでは僕の外来でよろしいですか?」って私が言うんです。おかげでいろいろな症状の患者さんを診ることができたので非常に勉強になりました。』

 昭和48年、瀬川先生は開業されていたお父様の跡を継いで開業医となった。神経学を専門としていた先生は「瀬川小児神経学クリニック」と名付け、神経専門の開業医として新たな道を築いていった。
 『代々小児科医の家系なので、どうしても家を継がなければならなかったんです。しかしこの付近には順天堂大学、東京医科歯科大学、ちょっと向こうに行けば東京大学がある。そのなかで一般小児科の開業医をするのはとても難しく、その意味は全くないことなんですね。先祖から代々医者をやっていると、時代が新しくなるにつれ、親のやり方が「学問的になっちゃいない」という話になってきてしまうんです。そうすると決して親と一緒に仕事をすることがないんですね。ですから私は、医局にいた頃に専門としていた神経学の、専門病院を開こうと考えたんです。
 開業医というのは、患者さんに優しい、患者さんのためになる診療ということは確かに必要な要素なのですが、学問のレベルというのはそれ以上に大切なことなんです。いくら患者さんに優しくしても、できるべき治療をできなければ、それは決して患者さんにとってためになる診療ではありません。ですから開業医というのは、学問レベルで大学くらいの学問レベルでは絶対に駄目なんです。私が神経専門の病院を作ったのは、「今のところ、神経のことならば学問的にトップレベルの医療はできる」と思ったからです。それからもう一つは、神経の病気は15歳で治る・・・という病気ではなく、患者さんが老人になるまで診ていかなければならないんです。しかし小児神経専門医が1人の子どもを老人になるまでフォローすることはできません。ということは、その患者さんが老人になるときはどうなるか・・ということを予見しながら診察をしなければならないんです。これには、同じ神経系の病気を持ちながら成人した患者さん、成人になってからその神経系の病気を発症した患者さん、老人になって神経の病気を持った患者さん、そういう人達全ての病状のことを細かく知らなければならないんです。つまり、成人も老人も診ることのできるような状況を作っておかなければならないんです。
 それから、未発達の脳は、そこに病変があっても臨床的な症状を現しません。ですから病気によっては子どものときとは全く違った症状を現すことがあるんです。これは先にお話しした、臨床の経験と基礎医学の知識、神経系の発達を理解し、子どもの時からその症状をニューロンレベルで診ていれば、わかることができるんです。ですから、今なぜ、この患者さんにこの治療が必要かということが、障害されている神経系から将来の症状を予見して、またある年齢になって発症したことを想定し、上の年齢から逆算してわかっていくんですよ。
 一人の患者さんを長い期間診ることができること、また類縁或いは正反対の病態を持つ患者さんを病的対象として診ることができることが開業医の利点だと思うんです。
 ここで野球の話に戻りますが、野球のフォームの研究はまさしく神経学なんですよ。どういうフォームが良いフォームかというのを調べるのは神経学の実地訓練なんですね。
 たとえば少年野球をやっているこどもたちがコーチから注意をされますよね。そのこどもたちのフォームのどの辺りに問題があるのかは、診察すればだいたいわかるんですよ。実際そういうことをアドバイスして、それがちゃんと当たると、こどもは医者を信頼してくれますからね。』

 最後に、「ギクリ・・・」とするけれども、大変に興味深い話を伺った。
 『アルツハイマーの危険因子も実は小学校の低学年のときに既にあるんですよ。単純に言えば、小学校低学年のときによく運動をしていなかったということが一番の危険因子であるという研究があります。これを神経系の発達の立場から考えますと、幼稚園や小学校1、2年生のときにどういう生活をしていたかは大きな要因になるということができます。神経系の発達には大体は環境の要因が重要な役割を持っています。従って親はこどもにとって良い環境を作ってあげなければならないんです。しかもそれは、満期で生まれてからの昼夜の明暗の区別のついた環境に始まり、特定の月齢や年齢に適切な環境刺激が与えられる必要があります。しかし昨今の子どもを取り巻く環境は、極めて有意すべきものなんです。
 簡単に言えば、お日様の光が当たるときに、こどもが思いきり外で走り回れる環境なんです。昼間はっきり目を覚まし、夜はぐっすりと眠るリズムの形成。それがなによりも、こどもにとっては大切なことなんですよ。今生まれた子どもがその能力を最大に発揮し、その子どもが30年後から50年後の世の中の舵取りができるよう、子どもにとって理想的な環境を考えることはすぐにでもやらなければいけないと思うのです。
 幸いにして科学技術庁から少々の予算をいただいており、これまで研究を続けておりますが、今後更にニューロン・レベルの機序を明らかにし、一般化したお話しができるようにしたいと思っています。』

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「東大小児科は、ひと味違う」---------------そんな力強い空気感をここで感じられるのは、瀬川先生のように東大小児科の一時代を築いてくださった先人の努力の賜物であったのだと、このインタビューで再認識した。「BBC」のような自由な活動の根底にあるものを、見失わないような流れが滞らないような東大小児科であり続けるためには・・・・・・?
 20世紀最後の年の扉が開くのは、兎にも角にもあと数日なのである。
                    1998.12(インタビュアー 三上敦子) 
 
                         

Edited by Atsuko Mikami