医学博士  今村 榮一先生

 「東大小児科だより」は今号で50号を迎えた。今のような冊子の形態になったのは18号からで、記念すべき創刊号から17号までは英文誌の編集をされている医局秘書の三池さんがコツコツと編集作業をされていたのである。ワープロ、写真印刷、プリント、一部ずつまとめることまで、全て手作りだった。この号で、これまでの「小児科だより」の足跡をまとめるためにまだ目にしたことのなかった創刊号から見させていただいたのだが、感慨無量であった。
 東大小児科で働き始めたころ、右を見ても左を見ても新鮮な驚きばかりが医療の世界にはあり、生と死に直面するような厳しい現実に晒されている世界には、想像もつかないようなことばかりが大波小波で押し寄せてくることが分かった。そんな中にあって中途半端な自分が、「小児科だより」の存在を知ったときは心の中で小躍りしてしまった。東大小児科の感性に最初から惹かれていたので、手作りの「たより」から滲んでくるあったかい何物かと、道が幾つもあって遠くまで続いているような可能性の拡がりに、ますます東大小児科の凄みを感じたのだった。
 しかしその道は、自分の知っている時点からスタートしているわけではなく、様々な形で地固めされ続いている道があるからこそ歩けていることを、元気に活動している時に限ってすっかり忘れてしまう。
 今村榮一先生にお話しを伺ってから、ここに根付いているはずの見えない何かを、また改めてきちんと感じようと思ったのである。

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「栗山重信教授のこと」
 『東大小児科第二代教授の栗山重信先生(明治45年入局)の時代には、小児科学の特徴は何かということがあったんです。それまでは内科学の中に小児科があったわけですから、小児科学の独立のために栗山先生はたいへんな努力をされていたわけです。しかしそういった業績の詳しくは「小児科50年史」に掲載されていますから、今日は栗山先生の医者としての人間性に触れたいと思います。
 栗山先生は真の臨床家でした。どんなときでも患者さんのためを思って、臨床をされていました。それが東大小児科の本流になっていることは事実だと思います。現在は医学が非常に進歩していますから、今の先生方は医学中心に目を向けて活動しなければならないのでしょうが、栗山先生は「学問だけではない、こどもに目を向けた臨床」ということをいちばんに重視され、しかも実践されていた先生でした。
 栗山先生のお弟子さんと呼べるその時代の先生方は、現在でも80名いらっしゃいます。私がいちばんその末っ子なんですよ。私の次の世代からは詫摩武人教授(大正12年入局)になるのです。
 戦後、軍の病院が国立病院となったわけですが、国立東京第一病院(現在は別の病院になりました)が1945年に開院された次の年、1946年に国立東京第一病院に小児科を置くことになったのです。浅野秀二先生(昭和11年入局)が医長に就任されたときに、私も一緒に勤務することになったのです。まもなく栗山先生が定年になられて、副院長になられました。ですから幸いにも、栗山先生に一対一で教えていただく機会がたくさんあったのです。栗山先生は学者として偉い先生というだけでなく、人間的にも優れていた方でしたから、そういう方から教えをいただいたことは人生の中で大変に貴重なことだったと思います。
 採血をするときに、昔は小児用の針というものはなかったんです。物もなかったから、うまく刺せなくなったらその針を砥石で研いでいた時代です。今だったら感染が騒がれてしまいますよね。栗山先生の回診までにどうしても検査をしなければならなかったのに、私の採血がうまくいかないときがあったのです。回診の時間になったのですが、私はまだ採血することができませんでした。そのことを正直におわびしたんです。そうすると栗山先生が「もしその患者さんが君のこどもだったら、そんなときに無理に検査をしますか?自分のこどもだったらどうしますか」とおっしゃいました。「患者のため」と言いながら、医師自身のために行っている医療があるんではないでしょうか。しかし、栗山先生は決して医師のための医療はしませんでした。常に「患者の身になったらどうか?」ということを言われていました。栗山先生に教えられたエピソードがたくさん心に残っています。』

「小児科・・・その昔」
 『昔は医学が発達していなかったから、病気を治そうと思うのではなく治ることを手助けしなさいと言われました。しかし患者さんは、医者に行くだけで病気が治ると思っているんですよね。
 50〜60年前は点滴もステロイドも抗生物質もなかったんです。それで、「病気と闘え」と言ったところで、武器がなくて戦争を始めるようなものだと思うんです。しかし、そういう状況の時こそ、病人をきちんと診て判断するようになる。病気の人を人として扱うようになるのでしょうね。あの時代は医師と患者さんの関係が非常に密接だったと思いますね。けれども助ける方法がなくて、あのころは受け持ちのこどもが何人も亡くなりました。戦後、栄養失調のこどもたちばかりだったので、感染症になってしまったら体力がなければ治る見込みがなかったんです。当時は赤痢より重い疫痢が流行していて「はやて(疾風)」と呼ばれていました。朝は元気だったこどもが、夕方に亡くなってしまうんです。
 当時、石橋長英先生(大正11年入局)がリンゲルやブドウ糖液を静脈に入れると助かると言われていて、30分から1時間おきに静脈注射をするんです。夜中もずっと続けて、朝方になって患者さんが助かると、朝日を見ながら感激をしたものです。「助けた!」って実感できたんですね。当時は病気を治したという実感をあまり持つことができなかったので、そういう朝は非常にうれしかったですね。
 小児科学がヨーロッパで始まったときに、子どもの病気は栄養失調症と消化不良症の2つが多かったんです。もうひとつは感染症があったんですが、感染症は手をつけられなかったんです。それが戦後に抗生物質が出てきて、感染症は助かるようになりましたが栄養失調は増え続けていました。
 栄養に私はかかわることになったのですが、そのころはドイツから入ってきた古典的な小児栄養だったんです。人工栄養は危なかったので、母乳栄養が主でした。人工栄養は牛乳を使いました。粉ミルクは東大小児科初代教授の弘田長先生がドイツから帰ってきて、和光堂に粉ミルクを作らせたのです。1950年代に入って粉ミルクも徐々に改良されてきました。大学では粉ミルクを作ることができない、乳業会社には科学的な知識はあっても子どもに対する知識はない。それで、「一緒に考えて作りましょう」ということになったんです。今だと産学協同ですね。ある会社のミルクは、私も関係して作ったんです。けれども、一円もお金をいただいていないのです。栗山先生はそういう点が非常にきれいな先生だったので、開発のための知識を乳業会社に差し上げてもお礼は一切いただきませんでした。
 現在の小児科医は、糖尿病や肥満体などの病態栄養を専門とされる先生は増えました。その点は医学的にはとても良いことだと思います。けれども一般のこどもの栄養をどうするかという点について、小児科医が深くかかわることが減少してきたと思います。弘田先生や栗山先生の時代は、発育や栄養が主なことでした。ですから昔は小児科の教科書も発育や栄養が大きく占めていました。今は本当に少しになってしまって、教科書のほうもちょっとだけ載っているという状況です。
 離乳については、1958年に「離乳基本案」というものをまとめられて、それから日本の離乳期の赤ちゃんの発育が良くなったのです。それまでは、離乳期の栄養はでたらめの状態だったんです。離乳期栄養障害という病名さえあったくらいでした。今はどの教科書を見ても書いてありません。それから20年くらいたって、厚生省が離乳研究班を作ったときに私が班長をしたのですが、そのときに「離乳の基本」をまとめたんです。そして時代の流れに従って15年後の1995年に、「改定離乳基本」というのが新たに出ました。』

「今村先生の足跡」
 『1918年、大正時代の前半に江東区(当時は深川区)で3代続く蕎麦屋の息子として生まれました。江戸っ子3代目なので言葉がシャキシャキして汚いんですよ。言葉の歯切れが良いといえばいいんですけどね。江戸っ子気質で気が短いんで、しゃべり方の間の取り方が良くないんですよねえ。「ヒ」が「シ」になるので、今でも「あさひしんぶん」(朝日新聞)って発音するのに気を使いますよ。
 親族には医者はいないんです。私が商人に向いていないので親が蕎麦屋を継がせなかったんですね。関東大震災と戦争とで2回も店を建て直したのですから、父親は本当に大変だったと思います。まじめな父親でしたよ。ただ黙々と働いている父親でした。父親には学歴がなかったから、子どもには勉強をさせたいという気持ちはあったのだと思いますが、それでも勉強しろと言われたことはありませんでした。母親も熱心に働いていましたが、そのためか私が軍隊に行っている間に脳卒中でなくなりました。
 親が商売をしていたので弁当も自分で詰めたりしていました。近所の佃煮屋で佃煮を買ってきて、海苔は当時は高級な食べ物でしたが商売道具だったので店にあったんですよ。それをご飯の間にはさんでね。たまに親には内緒で海苔をご飯の間に2段に重ねたりしてね。
 私は学校を卒業してから1カ月くらいで軍隊に行って、2年半くらいで帰ってきて医局にいました。しかし、その後はずっと国立東京第一病院に勤務していました。大学と離れたところにずっといたわけです。もちろん小児科の仕事をしていたのですが、妙なことで病院管理学もすることになりました。昔は病院管理っていうのは日本にはなかったんです。ことに大学病院がひどかったんです。患者さんが入院することになると、親戚中で布団などを調達する。コンロや身の回りの品、全て自分たちで集めてリヤカーに乗せて入院するんですよ。入院するまで2〜3日もかかってしまうわけです。これでは中世期のヨーロッパの収容所のようだと進駐軍に言われていたんです。
 その時に、国立東京第一病院をモデル病院にしなさいという話が出てきたんです。病院というのはこういうものだと日本中の各病院の院長先生を教育しなさいと言われて、昭和24年に病院管理研修所というものができたんです。放射線、手術、カルテなどのそれぞれを中央化することは国立東京第一病院から始まったんです。今は当たり前なんですがそのころは全てが各科ごとだったんです。中央化には医者の猛反対もありました。看護の独立ということを唱え、また総婦長制度ができたのもそのころです。
 昭和26年から私が病院管理研修所の担当を頼まれました。私より先輩の先生が研修に参加されていたので、やりにくいこともありました。けれども昔の偉い先生は粋でしたよ。ある東大の教授の方ですが、鞄にウイスキーの瓶を忍ばせていて、研修が終わると声を掛けてくださって鞄の中のウイスキーを一緒に飲んだりしました。10年ほど経って、研修所も病院管理研究所となりました。「病院管理の理論と実際」という本を出したのはそのころです。
 それから昭和40年に国立小児病院ができて、副院長として勤務することになりました。私は臨床をきちんとやりたかったので取りやめてもらうように厚生省にじか談判に行ったのです。しかしたまたま医務局長が昔からよく知っている方だったんです。それで「やあやあ、よく来た。もう決めてしまったから」と有無を言わせずに決められてしまったんですよ。しかし、小児科医として行ったわけではないんですよ。病院管理のためだったんです。3年いたのですが、検査伝票制度まではどうにかやることができたんですが、カルテの中央化まではやりきれなくなってしまったんです。
 3年いたらちょうど60歳になりました。今まで30年間くらい医者をやってきたけれど、後の方は医長だとか副院長だとかそういう役職に就いていて、はっきり言ってしまえば、他の人のために時間を使っていたんですよね。ですから、それから後は肩書も何もいらないから自分のために時間を使いたくなってしまったんです。多くの大学は65歳が定年なのですが、東大の定年は60歳なんです。ちょっとへ理屈をつけて、東大出だから60歳でやめちゃおうということであと5年を残して退職してしまいました。それで定職がなくなってしまったわけです。名刺も肩書きがなくてすっきりしました。しかしやめてみて肩書きの魔力を実感しました。その後は国立病院医療センターでボランティアで育児相談をさせていただくことにしたのです。それをずっと今まで続けさせていただいているんです。』

「小児科の出番」
 『「医学」と「子育て」とは一致しないんです。医学は簡単に言うと、病気を治すためのものなんです。そして科学的体系で成り立っています。一方、小児保健や育児は、こわれたものを治すのではなく、身心をより良くするためのものなんです。医学は病気からアプローチし、小児保健は健常からアプローチするものです。
 お母さん方から見ると、小児科の先生のところに行けば子育てのことがなんでも分かるのではないかと期待されるのですが、子育ての基盤は「生活」なんです。生活に科学性を持たせることが大切なんです。
 「紙おむつと布おむつはどちらがいいか?」「おぶうのと抱っこするのはどちらがいいか?」「夏のお風呂の温度と冬の温度を教えて下さい」・・・こんなふうなお母さん方の日常の子育ての疑問は山ほどあるんです。今は都合の良いことに、子育ての雑誌がたくさんあります。そこに書いてあることに間違いはないのですが、だからといってその回答は全てのお母さんに合うわけではないのです。お母さんは赤ちゃんをずっと見ていれば分かることなんですけれども、判断力をどうやってお母さんに与えるかということが一番難しいことなんですよね。
 今のお母さんに対して、こどもに我慢をさせるとかしつけると言うと、「人格をおさえてしまうのではないでしょうか」なんて言われたりするんですが、そういうお母さんとじっくりお話しをするんです。説得ではなく、会話です。しかし、ただ経験だけでお話ししたのでは、個人の癖が出てしまいます。生活というのは個人差がありますからね。私は育児相談をずっとやっていますが、それは小児科医だからできたことなんですね。
 今、少子化で小児科医は困っていると言われています。しかし15年くらいたつと今の小学生たちは成人になるわけです。そうすると、15年後は内科の先生が困ってしまうかもしれないんです。15年後の小児科医は、お母さん方の良い相談相手になるのが一番だと思うんです。家族全体を含めて本当の意味の家庭医だと思うんです。これからこそ、小児科医の出番だと思います。出番になるように準備をしていかなければならないと思います。
 開業医の先生が言われていたことがあるのですが、「大学では一生に一度しかみられないような病気について詳しく教えてもらえる。しかし私たち開業医は日常に診ている風邪の患者さんをどうするかを知りたい」。大学や大病院では珍しい症例を診ることはできますが、開業医が一般の病気や子育ての知識をまともなルートで学べるようにしてもらいたいと思うのです。』

「育児相談」
 『育児相談は楽しいですね。小児科医になってよかったと思っています。医学のほうは日進月歩で、もう追いつけませんが、育児相談では体験が役に立ちます。医学の知識をやさしくして伝えるのではないのですね。
 お母さんにしてみれば、つまらない質問を医者にしたら悪いという思いがあるようですね。ミルクの飲ませ方についても専門家に聞くことができないようです。ですから簡単な質問にも快く答えてあげることが育児相談だと思っているんですよ。
 親子2代を育児相談させていただいている方もいらっしゃいますが、楽しいですよね。これは小児科医だけの楽しみだと思うんです。内科医ではそういうことはほとんどありませんからね。それにこの年齢になったからできることかもしれないですね。若いうちはお母さん方に冗談を言うと、お母さん方をばかにしているようになってしまう。年をとったからこそ、冗談も言えるようになると私には思えるのです。
 育児相談の一番最後に「もっと聞きたいことはありませんか?」と聞くことにしています。そうするとお母さんは「こんなことを質問していいでしょうか」と質問されます。お母さん方は医者には気をつかっているのでしょうね。私は自分が病気をしてみてわかったことがあるんです。患者というのは医者や看護婦さんに一言を言うだけでも、ものすごく気を使っているんだということがわかったんです。聞きたいけれど聞けない。患者さんは、医者のことを思って聞けないことがあるんですよ。ですからそういう思いを、医者は患者さんにさせてはいけないと強く思ったんです。
 病気を治すことは修繕することなので医師主体でできることなんです。しかし育児というのはお母さんが主体なんです。こちらができることはお母さんの行為に後押しをしてあげる作業なんです。ですから育児相談というのは自信を持たないと言えないこともありますよね。この年齢だからこそ、今は本当に育児相談を楽しんでやっています。』
1999.3(インタビュアー 三上敦子)



誰が置きし診察机のつくしんぼ
春暁や雨戸の裏のほのぬくみ
シャボン玉春呼ぶ色の曲芸師
春鏡歯ブラシ残し嫁ぎけり
びっこ猫春を尋ねて塀の上
蝶生まる目立たぬ花の母子草

鉄の肺うなり休まず夜気炎ゆる
おしゃべりの幼女向き合ふかき氷
香煙のかげろひに揺れ野の仏

柿八年みのりて父の老いを見る
ゆふすげや寂漠として野の広き

叱りたる子の夜具直す夜寒かな(今村映水)
 
                         

Edited by Atsuko Mikami