画家 クリスティーヌ・プレ

 『今から5年半前に日本に来ました。子どもの頃からアジアの国に興味があって、仏教文化の国に行ってみたいとずっと思っていたの。
 子どもの時に同じ村に住んでいた人が日本から古い物をいっぱい持ってきて、でもそのときは子どもだったから「日本」と言われてもピンとこなかった。フランスでは隣の村だって遠く感じたから、日本なんてもっともっと遠いところでしょう。』

 クリスティーヌ・プレさんは東京芸術大学に籍を置くフランス人の画家である。クリスティーヌさんの作品は、ハッとするような鮮烈な色使いと風や空気や樹々などの自然の息づかいを感じるような躍動感に溢れている。
 クリスティーヌさんはきれいなブロンドの髪の毛と吸い込まれそうに大きな瞳の美しい女性で、一見近寄りがたい雰囲気を漂わせている。けれども、親しくなるにつれ悪戯好きで茶目っ気たっぷり、ユーモラスな人だということがどんどんわかるような、本当に魅力的な人なのである。

 『私はパリ郊外のポントワーズというところで生まれ育ったの。とても小さい町。70年代にパリが混み合ってきてその周辺に町がたくさん作られて、ポントワーズの近くにもどんどん町ができたの。スーパーマーケットができたりしてとても便利な町になった。私の子どもの頃のポントワーズの市場はいつでも混んでいたけれど、今はもう静かになってしまったからこの頃は昔よりも田舎になってしまったかもしれない。』

 思ったとおり、子どもの頃悪戯っ子だったというクリスティーヌさんは、弟のいる二人姉弟で、いつも一緒に悪戯していたそうだ。
 『たまに悪戯する場所は教会だったの。毎週日曜日はミサ、木曜日は村のこどもたち13人くらいを神父さんのシトロエンに乗せてくれて教会まで行くの。キリストの人生やカトリックについて学ぶのだけど、みんなそういう真面目な話より教会で遊ぶことを楽しみにしているの。教会の中の悪戯が一番楽しかった。
 教会に入るときは右手を少しだけ水につけなければいけなくて、貝の形の水入れが入り口に置いてあるの。その中に誰かがおしっこをしたり、時間がしばらく経つと色の出てくるインクを入れたりして、あんまり好きじゃないおばさん達が来る前とかにこっそり入れたの。
 ミサの時は神父さんがワインを飲んでいるのね。神父さんの隣に必ずアシスタントの子どもたちが3人くらい着くのだけれど、男の子だけができることで、私の弟はその役をやっていたの。本当は、こどもたちが水で神父さんの手を洗って、その後に神父さんはワインを飲んでパンを食べるのだけど、弟たちは神父さんの手にワインをかけて、水を飲ませたりしてた。私は一番前にいたから弟たちの悪戯が見えて、顔が真っ赤になった。
 ミサの間は天井裏でいつも誰かがエスケープしていたの。きっと昔はシャンデリアがついていた場所だったんだと思うけど、ちょうどその天井の神父さんの頭の真上に穴が開いていたのね。8センチくらいだったと思う。そこから天井裏の埃をささっと集めて、ちょっとずつ神父さんの頭の上に埃を落としていくの。神父さんは子ども達の悪戯ってわかっていたけど、自分は神父だからと我慢していたみたい。』

 フランス人の宗教はカトリック教徒の割合が多いのだが、現在は緩やかな信者が多いということだ。クリスティーヌさんはなんとなくカトリックを信じていたものの、子ども心に何かおかしいと感じはじめていた。
 『人はシンプルな生活をしなければならないとか、キリストは物を何も持っていなかったとか言われているでしょう。神父さんも本当に貧乏でなんにもなかったから、村の人達から食べ物をもらっていたの。だけど私たちの村にキリスト教のとても偉い人が来たときに、その人が金のついたとても豪華な服を着ていたことにびっくりしてしまった。キリストを信じている人は、皆、シンプルな生活をしなければならないと思っていたから、カトリックの偉い人達が全くキリストを信じていないことが子ども心にわかってしまって、信じられなくなった。でも、カトリックは文化としては面白いなあと思う。』

 悪戯をしながらもいつも本質的なことを考える。クリスティーヌさんの子ども時代に限らず、フランスの子どもたちは日本の子どもたちより大人っぽいような気がするのだが。
 『フランスの子どもは大人といる時間が多いのね。しかも、大人は子どもに対して、子どもの言葉で話さないの。きれいなきちんとしたフランス語で子どもに話す。だからそうされた子どももきれいなフランス語で喋るようになる。
 それにフランスでは子どもの独立があるような気がするの。家庭によってだけど、親は日本よりは厳しいと思う。学校も1クラスの生徒の数が日本の半分くらいだから先生の目が十分に届くのね。だから、先生は生徒一人一人に向き合うこともできるのかもしれない。
 それで思い出したけれど、国語の先生が日本に2年間留学していたことがある人で、この人は詩や劇に興味があった。モリエールと歌舞伎を比べてみる授業とか、難しいけれどフランス語で俳句を作ってみたり。俳句はリズムが大切でしょう。だから言葉に意味がなくてもリズムを大切に作ってみるの。谷崎潤一郎の本をもらったのも、この先生からだった。』

クリスティーヌさんの先生はディスカッションが大好きで、授業中に生徒が発言をしないとこんなふうに怒ったそうだ。
 『「私は誰のために話しているの?この授業の準備はいったい誰のためにしてきたの?壁のため?ドアのため?テーブルのため?みんな、死んでるんじゃない?興味がなかったら出ていって」って。
 フランスでは今までの戦争のトラウマが強いのだと思う。今はドイツ人とフランス人は普通に友達になるけれど、当時はみんな戦争に反対をすることもできなかったと思う。そんなにシンプルな答えではないかもしれないけれど、最初に自分の思うことを言わないといけないというのは、その時に国民全体が学んだ答えだったと思うのね。変なプライドを持って、言いたいことを言わずに黙っていることはいちばんいけない。たとえ自分より立場の偉い人の失敗であっても、絶対に言わなければいけないと思う。何も言わないことや動かないことは楽でもあるけれど、言わないと絶対にもっと状況はひどいことになるから。』

 クリスティーヌさんが、争いのことや人間の生き方について考えているとき、ずっと昔から長い間愛読書にしているのは「ニーチェ」なのである。
 『ニーチェが大好きになったのは、高校生のとき、いとこに勧められてから。ニーチェはナチズムとの因果関係が強いと言われているけれど、私はそうは思わない。「ツアラトウストラ」の中には、自分の人生の中に於いては自分で楽しさを探さなければいけないとか、自分の周りの社会がうるさく感じるときや自分の本当の心がだんだん見えなくなるような感じがするときは、思うように進めばいいとか、そういうメッセージがとても強く書かれているような気がする。今のユーゴスラビアの戦争にしても、人間はみんな争いを起こしたいと心の底では思っていると思うの。小さなことでもいいから争いたいのだと思う。でも、もし社会とディスタンスできることがあれば、大きな戦争を起こさなくてすんだのではないかな。だからときどきは、自然の中に行ったり動物や植物を見たりして、自分の人生は何かと考えたりすることが必要だと思う。社会の中にいると必要以上にコマーシャルが多すぎるし、フランスのテレビでニュースを見ていると暗すぎて、毎日自殺したい気持ちになる。だから私はそういう気持ちを軽くするために「ツアラトウストラ」を何度も読み返しているのね。人間は自分の中に想像以上のエネルギーがある。そのエネルギーは有効に使わなければいけないから。』

 フランスの高校生は、代表的な文学作品を暗唱するくらい読む。サルトルやカミユのような作品はもちろんのこと、クリスティーヌさんは日本文学も大好きで、川端康成の「雪国」を読んで、雪の光や雪の独特の匂いを文章から感じて感動していたという。
 そして将来についてずっと考えていたのは、美術工芸をやってみたいということだった。
 『絵を描いたり何かを造るのは、ほとんど学校でだけだった。美術をやろうと思ったのは12才くらいから。家具に貝を飾ったり絵を描いたりするような美術工芸をやってみたかったからパリにいる職人さんを自分で探しあてたの。その人は年をとっていて自分の子どもは後を継ぐ気持ちがなかったから、私が連絡したらとても喜んでいた。私にぜひ来てほしいと言っていた。先生や私の親は反対したけれど、いとこの家や、会いたい人を探してパリに行ってみたけれど、でもそのときは諦めて帰ってきた。
 高校を卒業してからは父親の反対を押し切って家を出て、パリに自分のアトリエを見つけてアルバイトをしながら夜間の美術学校に通い始めたの。
 パリに出て、街の光や騒音や車の匂いにびっくりした。でもたくさんの人と出会って、友達ができて楽しかった。パリは大好き。パリの街を歩くのがとても好き。はじめてパリに住んだときはセーヌ川の近くに住んでいて、毎晩、シテ島のいちばん端に行ってた。そこから西を見るとたくさんの橋が見えるでしょ。それを見ながら「わあ、いいなあ・・」っていつも思っていたの。今でもその光景はよく思い出す。
 バスティーユからシャンゼリゼまでや、サンジェルマン・デ・プレはよく散歩したの。住んだことがあるのは、サンジェルマン・デ・プレ、ムーランルージュ、バスティーユ辺り。その辺りを転々としていた。
 パリには7年間住んでいて、その後、田舎に帰って学校の先生をすることになったの。電車が通っていないようなへんぴな所にある学校だから、美術の先生がなかなか見つからなくて、やっと見つかった先生も、こどもたちと全くうまくいかなくて辞めてしまった。それで私は面接に行ったのだけど、そのときは先生の経験はあったけれどまだ免許を持っていなくて・・・。でも私は教育のことに興味があってこどもたちと何かしたいと思っていたの。それを校長先生が理解してくれて文部省に手紙を書いてくれて。免許を持っていないけれど大学で勉強をしているからどうか・・って。そのおかげで、運良く文部省がOKしてくれたの。』

 ソルボンヌ大学に入学したのは、教師の仕事を始めて数年経ってからだった。
『ソルボンヌ大学に入学したのは、現代美術の解釈、美術家とギャラリーと評論家の話がわからなかったからなの。現代美術は私の専門でもあり、生きている今この時代のことでもある。しかもフランス語で説明されているのに、話が全然わからなかった。それでいろいろ調べたら、ソルボンヌ大学を卒業した美術家、評論家が多いことがわかって、ソルボンヌ大学で美術学を学ぶことにしたの。
 フランスの大学は2年間行って卒業、3年目はライセンス(美術教師になれる)、そして4年目はマスター(大学院)。でも、大学に通うよりも、作った作品を学校に送って先生に見てもらうことが多かった。なぜかというと、パリは年中ストライキをしているから。せっかく学校に行こうと思っても、しょっちゅうストライキで電車が止まっていたの。』

 パリのメトロは確かに運行ストップしてしまうことがよくある。メトロのみならず、あらゆるところで何かというとストライキが始まる。そのストライキに関して、とても面白くて旅するのに役立つことを教えていただいた。
 『ストライキは毎年同じ時にあるの。5月は気候がいいでしょ、「室内にいるのがもったいなからデモをしよう!」っていうことでストライキが多い。6月はストライキはあまりないの。だってそろそろバカンスの季節。だから、休みがなくても我慢できる。そろそろバカンスの準備があるって思うし、バカンスの話を人に話ができるでしょう。「あなたはどこにバカンスに行くの?」「ぼくは釣りに行く!」とか・・。だから6月は楽しく仕事ができる。7月、8月はバカンス。その後、バカンスが終わったばかりの9月はまた我慢できる。こどもたちも学校が始まったばかりだし、親はストライキをしてはいけないような気分になるの。こどもたちが頑張っているから私たちも仕事を頑張りましょうって。10月もまだまだ我慢できる。でも、11月はだんだん寒くなって冬の感じが深まってきて、パリは一番悲しい感じがするの。太陽はなかなか見えないし。だから11月はストライキしてしまう。12月はクリスマスパーティのような楽しいことがあるからストライキをしない。1月は新年、2月はこどもたちの冬休み、3月はイースターがある。4月も大丈夫。
 だから5月から6月の初めと、11月に、一番ストライキが多い。何年も前を振り返っても、いつも同じなの。そういうことが多いから本当に面白い国だけど、でも、とても住みにくいと思う。』

 それから郵便局や銀行の話を聞いて、思いきり笑ってしまった。
 『パリの郵便局や銀行は、ものすごくサービスが悪い。朝、郵便局に出かけると10もブースがあるのに、一人しか働いている人がいないの。みんなお客さんはそのひとつの場所に並ぶでしょう。そうするととても長い列になる。郵便局の他の局員はみんな後ろで見ているのに、だれも他のブースを開けようとしないの。並んでいる人は最初はみんな我慢できるけれど、時間が経過するとどんどんイライラしてくる。働いている人もたった一人だけで仕事をしているから、だんだんイライラしてくる。そしてお互いにとてもイヤな気分になる。
 そのあと銀行に行っても同じ。タバコ屋さんに行っても同じ。そうやって、一日中、サービスのところを回った日は、家に帰るとイライラしてくるの。
 並んでいる人はみんな、ものすごく文句を言うし、たまに大喧嘩になったりもする。でも、サービスするほうの人達はお客さんを裏から見て、「ねっ、ねっ。見て、見て!今日、やけにお客さんが多いんじゃない」「あ、ホントだ。なんでこんなに混んでるの!?」「わあ、なんだかみんな怒ってるみたいよ」「え〜、じゃあしばらくしてから仕事しようか」って言ってるの。こういうことがパリには本当に多い。田舎の町はちょっと違うけれど、パリはみんなこんな感じなの。
 日本では、お客さんって王様のようでしょ。でもパリに行くと全然違う。逆にお客さんのほうが「すみません。お邪魔してもいいですか?買ってもいいですか?」って遠慮している感じ。働いている人は別に悪い人たちじゃあないんだけど、仕事をする上でのシステムがあまりうまく回っていなくて、働くほうも困ったことだらけみたい。』

 ソルボンヌ大学を卒業してから1年経って、クリスティーヌさんがずっと子どもの頃から憧れていた日本に住むようになった。
 『日本には知っている人は誰もいなかった。パリにいたときは、日本人の友達は誰もいなかったから。でも私は日本が好きだったから、住むことがとても嬉しかった。日本に来てから本格的に日本語の勉強を始めたのだけれど、それがすごく嬉しかった。
 日本語は、最初は全部音楽みたいに聞こえたの。私は黒澤明の映画が大好きで全部観ているのだけど、あの映画の話し方と普通の日本人の話し方は全然違うんだということが、日本に来てみてはじめてわかったことだった。日本語というと、黒澤の「乱」とか「七人の侍」のイメージがあったのね。だから全然違っていてびっくりした。はじめて日本語を生で聞いたときは、みんな、口をあんまり開けないで喋るから「プツプツプツ・・・」って聞こえて、かわいい!って思った。
 フランスにいたときには車の運転をしながら日本語テープだけを聞くくらいだった。でも、日本について書いてあることは何でも読んでいたの。だからこそ日本についてイメージができなかった。社会学や源氏物語や現代小説や歴史や神仏のこと、とにかくなんでも読んだけど、よくわからなかった。日本人が書いたものと、外国人が書いた日本についてでは違うでしょ。たくさん読んだら、読んだものが間違っているかもしれないって思った。』

 日本に来たクリスティーヌさんがとても驚いたのは、次のことだった。
 『日本人のことでびっくりしたのは、鼻をすすることと、飲み物を飲むときに音を立てることだったの。
 ヨーロッパは食べるときと飲むときに音を立てるのって本当に失礼なことでしょ。だからとても驚いてしまった。お蕎麦を食べるときや、ラーメンを食べるときに音を立てることにとても驚いた。フランス人はとにかく音を立てて食べようとしてもぜったいにできないの。もし音を立てて食べようとしたら、気管のほうに食べ物が入っていきそうになる。
 あとペットボトルに水が入って家の外に並んでいた風景にも、びっくりした。ずっと日本の宗教に関係していることかと思っていた。
 言語や文字がわからないのはもちろんだったけれど、日常的に当たり前だと思っていたサインもみんな違ったから全然読めなかった。例えば郵便局は日本は赤に白のマークだけど、フランスは黄色のマークなの。
 とにかく、日本に来てみて、突然に字が読めなくて書けない人になった。自分の国では少しインテリの世界にいたのに、日本に来たら突然何にもわからない人になってしまったでしょ。それでやっとわかったのは、学校に行けなかった人の気持ちなのね。目が見えない人の気持ちも。書くことと読むことってすごく大切なことだったんだなあって再認識した。』 

 そういえばクリスティーヌさんの作品には、フランス語のような文字が書いてあることがある。フランス語に見えるけれど、よく見るとそれはフランス語ではない。フランス語ではなくて、ただの形として人に見せたいと思ったのは、日本に来た当初、読むことも書くこともわからなくなった経験から来ているという。作品を描くとき、読み書きができない人の気持ちをなんとかして表現したいと思ったからだ。
 『作品を作るときは自然の中に入っていくような気がするの。特に、床に向かって作品を描くと、立ったり座ったり走りながら自由に身体を動かしながら描けるのが楽しい。人間は下に向かって描く姿勢が一番自然だと思うから。壁に掛けるのは作品全体を遠くから見るときだけ。
 あとは、ドラゴンのイメージがある蛇腹の作品を作ることがとても楽しいの。フランスには地震がないから、はじめて日本で地震を経験したときはびっくりした。地震が起きると地面が動いている感じや地球がグラグラする感じを、すごく敏感に感じてしまう。人間のスケールでは考えられないようなことでしょう。だから地球に寝ているドラゴンに見立てて、蛇腹の作品にしているの。蛇腹式のノートは旅行の時に日記として使おうと思ったんだけど、そうするにはすごく不便だったので絵を描いてみることにしたの。まず最初に黒でサササッと文章みたいなのを適当に書いて。こどもたちがまだ字を知らない頃、大人の真似をして書くでしょ。あんな感じで書いてみたいって思ったの。子どもの手はまだ堅いから大人の字を真似して書いていると、不思議な形になるでしょ。それがすごく面白い。
 美術や音楽などの芸術は、創り出すには初めから全てを自分で考えなければならない。イメージは最初にあっても、作っているといつも自分の理想とはまったく違うふうになっていく。そのとき、また全く新しい考えをどこかから持ってこなければいけなくなる。この道から行けないなら、じゃあ、あっちの道・・・っていうふうにいくらでもやり直しができることが芸術の楽しさかもしれない。』

 クリスティーヌさんは、現代美術について、多くの人は理解が難しいというけれど、わからないからこそ面白味があるのではないかという。
『わからないことって、ちょっと不安な感じが面白いんじゃないかなって思う。私の叔父はいつもそういうことを言っていた。彼はいつでも新しい知らないことにチャレンジしていて、もう亡くなってしまったけれどとてもパワフルで元気な人だった。
 叔父はいつでも「僕は生まれたとき、自分の身体しかなかった。自分の身体と脳しかなかったんだからできることはなんでもしなければいけない」って。チャレンジすることって、いつも疲れるし、いつも不安になる。悩んだり恐いこともあるかもしれないけれど、でも新しいことに挑戦しようって思うときはなんだか元気になる。チャレンジがないときは「生きていない」気がする。それこそ、まるでテーブルや椅子みたいじゃない。
 高校生のとき病院でアルバイトして、動けなくなってしまった老人にご飯のお世話をしたの。私の叔母も、アルツハイマーで意識がなかったのね。もともと全く病気がなかった人だったのに年をとるとそうなってしまった。叔母は結婚して子どもを産んで育てたけれど、その後は新しいことは何もしなかったから、余計に身体も弱るだけだったような気がしてしまう。新しいことや危険なことが来るときの人間って、すごく考えて行動しているでしょ。それって生きていてとても大切なような気がするの。』

 クリスティーヌさんの話は、本当にハッとすることばかり。そして芸術の考えについては、またまたハッとするようなことを言っていた。
 『この間、美術の予備校であったことなんだけど、予備校生を教えている芸大の学生さんの話なのね。彼女が自分の興味のある本を持ってきて「どうぞ見て」ってみんなに見せたのね。「来週までどうぞ」って言って、その本を教室に置いていったの。それで次に彼女が来たときに本のページの一枚が破れていて、そのことを彼女はとても悲しがったの。芸大の先生達は「生徒たちはマナーがない人が多いから仕方がない」って彼女を慰めた。でも私はそのとき、(学生さんたちは人にあげることを知らないんだな)って思った。いつもみんな、親や周りからもらうことばかりだったのだと思うの。だからあげることの経験が全くないんだと思う。作るときはあげるという気持ちでいないとダメだと思うの。もらうばかりの気持ちでいると、もっともっと欲しいって思う。
 それがもしかしたら、今の日本の女子高生の問題だと思うの。自分の身体はあげるものじゃない。売るものではない。愛の気持ちがあれば、身体を売ることなんてできないと思う。
 フランスで美術の先生をしていたときに、「人にあげることは何か」っていうことを授業でしたことがあるの。すごく時間をかけて自分が作った作品はとても大切だけれど、それは友達にあげましょうって言って、人にあげさせたの。それは誰でもあげたくないって思う。でも、「あげなさい」って言った。そうしているうちにみんな考え方が少しずつ変わっていく。一番大切な作品を誰かにあげる。しかも一番好きな人にあげるんじゃなくて、全然好きでもない人にあげてみる。芸術の中にはそういう考え方もあると思うのね。』

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 『自分でシャツにアイロンをかけられないとか、自分で料理できないとか、自分で靴磨きができないとか、自分で洗濯ができないとか、そういう男の人は全く尊敬できない。
 私の知っているお年寄りの日本人男性も、結構自分でも家のことをやっている人が多いような気がする。
 あ、でも知り合いの人で「お茶!」と、遠くから奥さんに叫ぶ男の人もいる。その人に私が「武士はお茶を自分でいれられなければおかしい」って言ったら、奥さんが「その通り!」ってとても喜んでた。
 でもね、私の祖父は「お茶!」と叫ぶよりもっとすごかったかもしれない。祖父は食事のとき長いテーブルの一番端に座るのだけど、普通の椅子ではなくてアームチェアの中にすっぽり埋まるように座っていたの。お昼ご飯は、毎日そのテーブルでみんなで食べていたから、12時5分前に必ずテーブルに家族全員が着くの。家族とメイドさんもみんな一緒に。12時の教会の鐘の音が鳴ると祖父がすごい勢いで食べはじめて、しかもすごく速く食べ終わってしまう。それで食事は終わりになってしまうから、みんな落ちついてちゃんと食べられたことがないの。私と弟は、その時間がおかしくておかしくて、よく笑ってたけど。』
  1999.6.1(インタビュアー 三上敦子)
 
                         

Edited by Atsuko Mikami