医学部学生  熊谷晋一郎さん


 数年前から車椅子で軽快に行動している医学部の学生さんの姿を、ときどき見かけるようになった。そういえば臨床講堂の入り口になだらかなスロープ工事が施されたのはその学生さんを見かけるようになってからだった。
 その人は熊谷晋一郎さん。現在、東京大学医学部医学科の3年生、22歳である。小児科実習のときにはじめて面と向かって会ったけれど、人なつこい笑顔の人だなあと思った。実習中、病棟のこどもたちの遠足にグループの人たちと同伴してくれたのだが、何事にも積極的で話し声がとてもはっきりしているのが更に印象的だった。
 熊谷さんは、車椅子をこどもの頃からの足代わりにしている。手足が思うようにならないから、生活していく上で数限りなく不自由なことがたくさんある。健康でなんの支障もない人は、想像力を働かさなければ病を負った人の気持ちや生活する上での不自由さを汲み取ることはできない。汲み取ることができても実感することは難しいだろう。しかし、支障のひとつひとつを身を持って解決してきた熊谷さんが、数年後には患者さんと面と向かう医師になる。だからこそ熊谷さんには聞いてみたいことがたくさんあった。
 
 『僕は仮死状態で生まれたので、生きていくためには脳の手術をするかリハビリをするかの選択を親はしなければならなかったそうです。手術をしても生死は五分五分だったので、リハビリをすることを選択したそうです。そして鬼のようなリハビリを、僕が1歳になった頃から始めました。
 そのリハビリの強烈さのおかげで、2歳の頃のことも鮮明に記憶として残っています。裸できちんとしたポーズをとる練習で、筋力をつけるリハビリなんですが、幼稚園くらいまで1日5回も濃厚にやっていました。それがイヤでイヤで、僕は一日中泣いてばかりだったんです。でも、結局は母親の怒りに負けて、やらなければならなかった。
 その分、休日はあちこちに出かけていろいろなものに触れさせたいという信念が母にはあったようです』
 お母さんとはリハビリを、お父さんとは天気が良くても悪くても毎朝近くの山を登るのが、日課だった。
 『永源山という標高500メートルくらいの山に、毎朝登っていました。後ろから父親が僕を支えて、自分の足で歩くという山登りでした。父親が仕事に行く前なので、毎朝6時くらいに登っていました。1時間くらいかけて登り下りをするんです。その後に朝御飯を食べるというのが朝の決まり事でした。小学校の1、2年くらいまで登っていたのかなあ。雨の日も合羽を着て登っていたような記憶があります。
 もうひとつの僕の日課は、朝夕に新聞をとりにいくことでした。やはり父親が僕を支えて、自分の足で取りに行くという作業でした。』

 熊谷さんは山口県新南陽の出身である。永源山は子どもの頃の熊谷さんにはとても高い山に見えていた。その山に毎日登ること、リハビリも絶対に休ませないこと、お父さんもお母さんも、熊谷さんに全精力を注いでいた。
 『リハビリはもちろんだけど、旅行もたくさん行きましたよ。とにかく両親は僕に対して膨大なエネルギーを使っていたと思います。
 母は子ども社会の中に入っていって、僕を育てていました。一緒に幼稚園に行って、砂場で遊んで、とにかくいつも母親は自分から率先して遊んでいたような気がします。それから小・中・高と公立の学校に進んだのですが、母親がずっと付き添ってくれて、「2度も高校生活を送れて嬉しい」と言ってました。
 公立の学校にスムーズに入学できたのは祖父が教育委員会にいたこともあるかもしれません。祖父は吉田松陰を崇拝していて、とてもグローバルな考え方をする人でした。』

 お母さんのお父さんは教育者、お父さんのお父さんは醤油屋さんを営んでいた。熊谷さんが物心ついた頃には、醤油の蔵を学習塾に貸すようになっていた。毎朝夕、新聞を取りに行くときにその蔵の脇を通ると、小学生の子どもたちが一緒になって勉強している。当時5歳の熊谷さんにとってはみんなが遊んでいるように見えて、自分もその輪の中に入りたくて仕方なかったそうだ。なんとか頼んで、塾に入れてもらったのである。その塾は算数だけを勉強する塾だった。
 『算数は面白いなあと思いました。塾では常に人より一歩先を勉強するわけだから、学校でもみんなよりわかるようになる。そうすると勉強することが楽しくてたまらなくなったんです。算数がとりわけ得意な科目になって、ますます好きになったんです。』
 もうひとつの特技は絵を描くことだった。
 『マンガを描くのがとても好きだったんです。特にドラゴンボールやビックリマンが好きで、ノートの隅とかにいつも描いてましたよ。学校に自由帖を持って行って描いては、友達に見せてました。
 小学校のときは漫画家になりたかったんです。5、6年生の時に漫画クラブに入っていたんですが、僕は4コマ漫画しか描けなかったので、やっぱり漫画家になるのは無理かなあと薄々思っていました。長編を描くのは泉のようにアイディアが浮かばないとダメですよね。僕はイラストは得意だったけど、長編は苦手だったから。授業中でも描きまくってたんですよ。テストの裏とかにも描いちゃうんです。絵を描きたいために、とにかく1分でもはやくテストを終わらせてました』
 算数と絵を描くことに没頭する毎日だったから、学校生活を送る上で身体的なことは全く問題にならなかったと言う。
 『本当のところ、身体のことって少し大きくなってから気づいたことかもしれませんね。こどものころは、友達ともみくちゃになって喧嘩してたから、そんなに他の子との違いを感じてはいなかったんです。
 運動会とか遠足とか体育の授業とかの行事が出てきてはじめて、自分と他の子の違いを意識したかもしれないです。これは自分にはできないって気づきますからね。でもそれで精神的にどうこうっていうことは何もなかったですよ。小さい頃からそれが自分のスタイルでしたからね。だからかもしれないけれど、「観察」することがとても好きでした。人を観察するのが好きなんですよ。
 身体的な悩みを抱えてそれを解消できていない人に対して、他人は目を伏せたくなるのかもしれないけれど、解消出来ている人について、他人は気にしないような気がします』

 中学に入学するとますます、数学と美術に明け暮れる毎日になった。
 『中学では美術部に入りました。だけど部員は女の子ばかりで、なんだかとても居心地が悪かった。あの頃ってやけに異性を意識するというか、敵対視する年頃じゃないですか。居心地が悪くてね。美術部の顧問の先生との関係はうまくいっていたので、まだ救われたんですけどね。
 でもだんだんと、絵を描くことよりも数学のほうが自分には魅力的になっていました。
 数学の問題をトイレに入っても考える、他の授業のときも考える。とにかく数学の問題のことを考えていると幸せだった。数学のことがいつも気に掛かって仕方なかったなあ。他の勉強はあんまり好きじゃあなかったですけどね、数学だけは特別でした。
 僕には「数学」という逃げ道があったから、思春期のときもあまりいろんなことを悩まずに暮らせたのかもしれません。打ち込むものを持っていたから、自分の問題で悶々と悩むことがあまりなかったのかもしれないんです。
 数学者になりたいと思い始めたのは、この頃です。実は、子どもの頃に医者になりたいと思ったことは皆無なんですよ。中学のときの勉強のカリキュラムにはどこにも医者になるなんてないじゃないですか。その頃に医者になりたいと思う人ってすごいなあと思いますよ。身近の人に医者がいるならわかるんですけどね。だいたい病院って悪いイメージしかないですからね。病気は恐いとかねえ』

 そういう熊谷さんも、女の子からちょっと格好良く見られたい年頃になっていた。小学校高学年からだんだん太ってきたこともあって、「ダイエット」をすることを決意したのである。
 『急に自分の体型をどうにかしなければと考えて拒食になって、晩御飯の時には食べた物をすぐに吐きに行っていたんです。
 しかし、そのときの母親の僕への対応が実に見事だったんですよ。「吐きたいなら吐け」っていう方針で、晩御飯のときにあらかじめ僕の傍らに洗面器を用意するんです。いつでもご自由に・・・っていう感じで、実にスマートな接し方なんですよね。それ以外、母はなんにも言わなかったから、拒食症は1年で治りました。普通は心配になって、ああだこうだと言うでしょ。せっかく作ったご飯なんだからと言ってもおかしくないと思うんです。そういうところが母は非常にあっさりしているんですよね。そのおかげですごく痩せたんですけどね。でもね、周りがあんまりかまってくれないものだから、だんだん自分でもそんなことがどうでもよくなってきちゃったんです。
 僕が痩せ衰えてきたら両親もたぶん心配したんだろうけど、気分が良さそうだったから「やるだけやりなさい」っていう感じでした。それにあの頃は「拒食症」なんていう言葉もあまり聞かなかった時代でしたから。母親も大したことはないって思っていたみたいです』

 生活の中で熊谷さんは自分で自分のことは大体できるようになっていたのだが、トイレだけは難しい。そのため、お母さんは学校に行く時も付き添うのだが、中学のときは家が近所だったので、困ったときにだけ来てもらうようになったのである。
 高校は隣町にある県立徳山高校に入学した。そのときは、国語教諭控室で、お母さんは熊谷さんの授業が終わるまで待機していた。こうして話を聞いていると、お母さんの人物像にもとても魅力を感じてしまう。
 『自分のこどもを大切にすることを肌で分かっている人なんでしょうね。あらゆる意味ですごい人だなあと思いますよ。
 こんなことがありました。母の母親、僕の祖母は心筋梗塞で急死したんです。そのときの母はとても冷静で、やるべきことを段取り良くパッパッパとこなしてました。周りは突然の出来事だったから動揺していて対処ができなくて葬儀屋さんに任せっぱなしだったんですが、母は葬儀屋さんの中に自分から入っていって一緒に段取りをしていました。あの光景を見たときに、やるべきことがあるならとにかくやる人だということがわかって、だから僕が生まれたときもパニックにならなかったのだろうなあと思いました。余談ですが、母親の影響だと思うけれど、何事にも根性を入れている女性が僕は好きなんですよ』

 それから熊谷さんは、現役で東京大学理科一類に合格した。大学入学と同時に、東京での「ひとり暮らし」がスタートしたのである。
 『僕が東京の大学に進むにあたって、母は自分だけでも東京に住まなければならないかもしれないと思っていて、妹に徹底的に家事を教えていました。
 妹は僕とは年が離れているのでその頃まだ小学校4年生で、それは本当にかわいそうだったと思います。子どもなのに大人のように一人前として扱われて、精神的にきつかったのではないかと思うんですよ。そのおかげで、妹もかなり根性のある人間に育ったんですけどね。 
 結局、僕はひとり暮らしをすることになったんですが、母は本当に心配でたまらなかったようです。山口から東京じゃ、すぐに駆けつけられないじゃないですか。何かあったときにどうしたらいいんだっていう気持ちでいっぱいだったようです。その頃、ご飯を食べていても砂を噛むようだったと、母は今言ってます。
 いつ頃からか、僕はひとり暮らしすることが自分にとっていつかは必要だと思っていました。小学生の時、親が死んだらどうするかっていうことを夜な夜な考えたことがあったんです。親の死後、自分はどうするのだろう?って思ったらとても不安になった。でもその後、毎日忙しくてあまりそんなことを考えなくなっていたんです。
 将来に対する不安は子どもの頃からあったのだけど、目を背けて生きていたと思うんです。いや、生きていられたんですよね。でも、大学入学と同時にひとり暮らしを始めることになった瞬間から、現実に向かっていかなければならなくなった。不安に思っていたことを実際に自分でしなければならなくなったわけです。
 ひとり暮らしを想像していたときは漠然とした不安だったんですが、実際に暮らしてみてわかったのは、トイレについての不安だとわかったんです。それで優先順位をつけて、それをひとつずつ解決することにしたんです。まずはトイレ。トイレが解決したらお風呂、お風呂の後は・・・っていうふうにひとつずつ解決していく。
 そうやってみて、先回りして考えて不安になるのは本当に良くないことだとわかりましたよ。なんでもとにかく飛び込んでみて、問題にぶつかったらそれに対処していく。そういう考え方のほうが、物事がどんどん良い方向に開けていくと思うんです。やりたいことがあればやったほうがいいと思いました。
 親の保護と自分の自立心との葛藤が、僕にはずっとありましたからね。親から離れて暮らしてみたいというのがありました』
 一番の問題点だったトイレは、最初はポータブルトイレを使った。しかし結局、使いやすいように改造をし、リフトやスロープなどの装置も考えたりしたが、最後はとてもシンプルで使いやすいものになった。
 『残るは料理なんです。全く身体が使えない人が介助の人をお願いしてビーフストロガノフを作っているのを見せてもらった時、自分もやらなければって思いましたよ。絶対にできるって思うんですよね。その人は自炊しないと生活がきついからやっているんです。僕は切羽詰まっていないからまだやらないで済んでいるけれど、でもいつかは自炊もしなければって思っています』

 どんな問題点にも逃げないで前向きに対処している熊谷さんの話にはとにかく説得力があるから、「それから?!それから??」と次から次に話を聞きたくなってくる。
 『大学入学と同時に、偏差値社会から抜け出れたんですよ。それまでと違う意味での自信をようやく持てるようになって、更にひとり暮らしを始めたことで自分はこれで生きて行けるぞって思ったんです。
 最もベーシックなところで1日の生活を自分でこなしていくことができるようになったことは僕には大きいんです。もし身体の状態が変わっても、また同じ作業をしてひとつずつ超えていけば絶対にできる。生きていくための最低限の生活が自分でできるようになったことは、大きな自信になりました。ひとり暮らしを始めてからは、価値観もいろいろな意味で変わったと思います』
 理科一類に入学した熊谷さんは、数学者を目指していた。しかし実際に入学してから将来の希望が少しずつ変化していったのである。
 『大学に入って本当に驚いたのは、この世の中には半端じゃなく数学の出来る人がいるんだということなんです。高校で模擬試験を受けていたときは「天下を取れる」なんて思ってたんですけれど、とんでもなかった。高校の延長で点を取るという発想だと、本当に数学の好きな人とは、全くずれていると思ったんです。まだまだ自分は本気じゃなかったような気がしました。本気で数学の好きな人は「点数を取る」ということに拘らずに、本を読んだり勉強をしている。知識はさほど僕も変わらないと思うけど、数学を職業にするっていうことは、もっと根性がなければダメなんだなって気づきました。
 一緒に数学に進もうと思っていた友達と話していても、だんだん彼らとのズレがあることが明確になってきました。僕の興味はもっと人間的なものにあったんです。数学のことをひと晩中ディスカッションすることも楽しかったのだけど、それをずっとやっていくことを何か物足りなく感じ始めました。僕が一所懸命話すことに友達があまり興味を示さなかったり、友達が一所懸命話すことが僕にとっては全く興味がないことだったり、そういう繰り返しだったんです。本当に数学は自分にとって職業にすることなのだろうかって。
 たぶん、大学に入ってから人間関係が急速に広がったことが自分にとって大きかったんでしょうね』

 それは熊谷さんにとって2つの大きな出会いにあった。
 『最初の出会いは、大学に入学してひとり暮らしを始めたときです。どうしても僕の場合はサポートが必要だから、学内のボランティアサークルに入ったんです。そこで自分がサポートをしてもらおうと思ったのだけれど、生活しているうちにひとりで殆どのことができるようになっていったんです。
 結局、その人たちとはサポートをしてもらうという関係でなくて、語り合う関係になっていったんです。そこで生まれて初めて、障害というものを語ってもきちんと返してくれる人たちに出会いました。その返し方も、障害を特殊ではなく当たり前のように返してくれたので何でも話せるようになったんです。それまで絶対言わなかった愚痴っぽいことも他人に言えるようになりました。はじめて等身大の自分で人と接することが出来るようになったと思います。
 自分がどの程度の人間か、友達にわかられてるんです。ありのままの自分でないと、人間、苦しいですよね。せめて近くにいる人にはありのままで認めてもらいたいですから。
 もうひとつはゼミの仲間との出会いです。法学部中心のゼミだったんですが、フィールドワークと称して好きなことをやるゼミだったんです。先生が紹介してくれた場所を訪ねていって調べて、皆に発表するという活動をしていました。そこで環境問題や労働問題を調べていくと、世の中どこでも大変なんだということがわかったんです。そういうことをしているうちに、今自分の立っているところは数学科の人達の立っているところとは違うかもしれないと思ったんです。いろいろなフィールドに飛び込めるようなキャリアがほしいと切実に思いました。僕は将来の不安が大きかったですから。
 人のサポートなしでは生きていけないし、いろんな人間に出会ったら、人と出会うことの楽しさを肌で感じたんです。これからもっともっとたくさんの人と出会っていきたいと思ったし、人間に対しての興味がどんどん出てきました。数学を職業にしながらも人間との関わりは持てるのだけど、でも数学は趣味にしていこうと思ったんです。』
 ずっと数学の道に進むと信じて疑わなかったのに、医学部に進みたいと思うようになった。自分には人間と強く関わる方が合っているという確信に近いものが、この時からあった。
 『2年生の秋頃に、3年の進路希望を出すんです。2回出して2回目が正式な申し込みで、1回目のときは、まだ「数学科」と書いていました。1回目は7月で、2回目は9月だったんです。なぜ疑問を持ちながらも数学に拘っていたかというと、自分のポリシーを貫くのが美学だと僕はずっと思っていたからです。好きなことを職業にすることが幸せなんだということが頭を離れなかったんです。一緒に数学のほうに進もうと言っていた友達にも「それがお前のためだ」って言われていました。本当にギリギリまで悩んだのだけれど、でもやっぱり医学部に決めました』

 そして医学部に進んでから、熊谷さんはどうだったのだろう?
 『医学部に入ってから、人との何気ない出会いのときに、自分の病気のことや家族の病気のことを話してくるんです。僕が医学部でなければそういう話にはならないですよね。なんかそんなふうに、人に言えないような話を持っている人が世の中にはたくさんいるんだなっていうことがわかったことはとても大きなことでした。そういう人の心の部分に接することがこれからはできるんだなあと思うと、やる気になるんです。自分の家族からも身体のことを相談されたりすると、これまでは育てられる一方だったけれど、これからは自分にも何かしてあげられるのかなって思います。
 僕はどんぶり勘定的な分野にはあまり興味が湧かないんですよ。だから厳密に考える分野が好きなんです。研究も厳密な研究ができたらいいなと思います。
 そして医者になったら、まず自分が患者さんに責任を持てるスタイルを見つけたいです。例えば触診をするにしても僕の場合は普通のやり方と異なったやり方をしないとできないと思うんです。今の段階では触診ひとつにしても、自分の方法が正しいかどうかの自信がないんです。だからそのやりかたについての正しい方法をいろいろな人から教えてもらわなければいけないと思います。問診はしっかり勉強すれば出来ると思います。だからそれ以上に、診察することはきちんと学ばなければいけないと思うんです。
 自分の責任で選択していこうって思っているので、どんなことがあっても選択したことは必ずやり続けていきたいと思います』
 そう語る熊谷さんは子どもの頃の話をしているときとは全く違って、鋭く厳しい目つきになっていた。

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『僕は今使われている「障害」という言葉を、世の中に明確にしていきたいという気持ちがあります。
 障害という言葉を使うときに、人を指す障害という言葉でなく、障害の体験という風に取り上げたらとても広い意味で使えると思うんです。
 「こう生きたいと思ったのに生きれない」という体験を指す言葉として障害を位置づければ、人を指すのでなく誰にでも経験があることになる。例えば平地を歩いているときに突然出てきた段差でも、その瞬間に「障害体験」が生じるんです。そういうことを障害ととらえれば、どういう方向性でこれから障害について考えればいいかが明確になると思うんです。
 耳の聞こえない人のためにどうしたらいいかと考えるときに、「耳が聞こえない人がこのことをするときにどうするか・・・」と言う様に、困った瞬間で障害をとらえれば、発想が変わります。学校で講義を受けているときに困ると考えれば、その講義の時に限ってどうすればいいのかという発想になる。
 障害を持つ人のために考えるという発想では、偽善や独断で終わることが多いんです。しかし、日常で障害が生じたときに自分だったらどうしよう?と考えれば偽善や独断にはならない。
 障害体験が大切だと思うのは、アイデンティティの確立の上でも重要だと思います。自分がこう生きたいと思うのに否定される感じを持つことは、本当に何をしたいかを掴むこともできると思います。他人がやっていることを真似してやっていたのに、ふとある時、例えば病気になってできなくなったときに自分が本当にしたかったことはなんだろうと考え始める。それは誰にでもあることです。年をとることもそうです。一気に障害体験を経験することになる。自分が今までできていたことが、どんどんできなくなるのですからね。
 アイデンティティを持っている人は、人として深いし、他人の痛みが自分の痛みとして伝わるのだと思います。
 そういう考え方をしていくと障害者と健常者を区別することがバカらしくなると思います。誰もが障害体験を少なからず持っているのだし、それに目を向ければ、もっともっとお互いに理解ができると思うのです』

 「こう生きたいと思ったのに生きれない」という体験を指す言葉として障害を位置づける・・・・・・自分の思うように動けないもどかしさ、そこでどうしても立ち止まらなければならなくなる現実。生きていれば誰にでも起こり得る可能性がある。それまでの人生が順風満帆(?)であったのならなおさら、どうしても焦燥感や絶望感でいっぱいになってしまう。耐えることや待つことを自然に受け容れられるようになるのは、どんな人でもそれなりの時間が必要なのではないだろうか。しかし、時間が解決してくれたり流してくれる感情や出来事も多分にあるように思う。
 けれども熊谷さんは、思うように動けない現実を「時」で解決したわけではない。全く当たり前のこととして、何かを始めるときにはまずその現実がいつでも大前提だったのである。私から見た熊谷さんの強い意志と行動も、熊谷さんにとっては至極当たり前のことで、特別気負っていたわけではない。そう思うと、熊谷さんには他人の苦労話というのはどう映るのだろうか。
 ある時に起こした、或いは起きてしまった不本意な事実を、熊谷さんの言うような「障害体験」と受け止められれば、その事を乗り越えることのみを前向きに考えていけるかもしれないと、何故か気分が明るくなった。(インタビュアー三上敦子)1999.9
 
                         

Edited by Atsuko Mikami