京都大学大学院理学研究科人類進化論研究室 教授   山極寿一先生


 3年前の新聞の夕刊に「ゴリラの思いやり」という寄稿文が掲載されていた。シカゴにあるブルックフィールド動物園で3歳の子どもが囲いの中に落ちたところ、メスゴリラのビンティが子どもを助け、抱きかかえて飼育員の入り口まで運んだという話であった。人間だけが他の生命を気づかっているというのはとんでもない思い上がりで、今こそ人間と野生動物とのつきあい方を反省しなければ・・と書いてあった。
 それは、現在、京都大学大学院理学研究科人類進化論研究室教授である山極寿一先生の寄稿である。長い間ゴリラのすむ土地でフィールドワークし続ける、現在の日本のゴリラ学の第一人者なのである。
 山極先生にはゴリラに関する著書が数冊あることが分かり読み進めると、まるで自分がその森の中に入りこんで遠くからゴリラを眺めているような臨場感を味わうことができる。知らなかったゴリラの世界が文脈の其処此処に溢れていると同時に、山極先生にとってゴリラは単なる研究対象ではなく畏敬の念を抱く存在であること、アフリカの土地や人々との出会いが一方通行の関係ではないことが伝わってくる。
 魅力的なゴリラの話を通して、山極先生の深い洞察力と瑞々しい感性を感じとってみたいと思う。

 周知の通り、人類の祖先が類人猿との共通な祖先から分かれ独自に進化し始めたのは約700〜500万年前のアフリカであった。遺伝子上、人間に一番近い類人猿はチンパンジーなのだが、山極先生は人間の祖先の先にゴリラの存在があることを、強い親近感を持って感じていたのだった。
『僕の学生時代はチンパンジーの研究をしている日本の学者がとても多かったんです。チンパンジーと多くの特徴を分かちもつ人間という見解が固まりつつあった。しかし僕はそれだけではないと思っていました。チンパンジーにない性質をゴリラは持っていて、人間にはそれに共通したものがあると思っていましたから。ゴリラはチンパンジーと違ってとても威厳があるんです。チンパンジーは人間的に見るとがさつで意地悪なイメージがありますけれど、ゴリラは人間を超越している感じがしていました。そのゴリラと野生で出会ってみたいという思いがあったんです。
 京大に入学して伊谷純一郎先生や今西錦司先生の本を読んで、まず理学部に人類学をやるところがあるというのには驚きました。僕は理科系志向だったんですが、大学紛争や高校紛争の中で人間に対しての認識を改めさせられるようなことがあったので、とても人間に興味を持っていたんです。けれども、文献研究はとても性に合わなかった。直接目にしたり手で触れられる生きた対象から人間性という怪物に迫ってみたいと思ったんです。ビビッドな証拠がほしい、何かを通して見たいというところが常にあって、3回生の時に人間学をやろうと思って「人類生態ゼミ」という自主ゼミを仲間と作りました。
 そのころ文学部にも、「人類学研究会」という集まりがあって、文化人類学や社会人類学を志す人たちが参加していました。彼らは人文科学の見地からだけでは面白くないと、農学部や理学部からの参加者を求めていたんです。そこにもよく遊びに行っていました。
 他人にはできない体験をし、その体験をフィルターにして自分の内にあるこれまでの既成概念を外から見てみる。相手は何でもいい。動物でも、自分とは違う文化に接する人間でもいい。人間が使う物から見てもいい。そういう学問はかなり自分に合っているような気がしました。その中でも猿が一番面白そうだなと思って始めたんです。』

 ゴリラの森に入る前、先生はニホンザルを見るために日本全国を回っていた。下北半島から出発し10カ所以上を歩いた。屋久島に着いて野生の猿に出会ってから、餌付けされていない野生の猿に興味を持ち研究を始めた。大学院生時代のことである。
『日本の研究者が猿に餌付けを試みて成功したのが1950年代初めです。芋や麦を蒔いて餌付けをしていました。人に慣れてくれれば餌付けも必要なくなると思っていたのですが、観光業者がついて猿を餌場に集めるという事業を始めたんです。
 彼らは人間をとても恐れていたので、恐怖心を解くというのがそもそも餌付けの最初の目的だったんでしょうね。しかし餌付けしてしまうと自然の生活に大きな影響を来してしまう。猿の生活は一日中餌を探して歩くというのが基本なのに、人工的にある場所に餌を集められてしまうと探さなくて済んでしまいますからね。一カ所に餌があるから満腹になってしまえば探さずにすんでしまう。そのおかげで栄養状態も良好になり、どんどん子どもが生まれる。個体数が増える。一つの群ではやっていけないから、分裂する。群が分裂すると餌場から外された他の群は遊動域を広げる。1980年代くらいからは猿害が出始めて、各都府県で猿害駆除をするようになってしまいました。今では年間に数千頭の猿が捕らえられてしまうんですよ。
 一度人間からもらう餌を口にしたら、栄養価も高いし美味しいですからね。わざわざ自分で探すことはしなくなります。そうすると山に戻らないで里山にすむようになってしまうんです。』

 それから、山極先生はゴリラの森に入ることになった。1978年26歳の時。現コンゴ民主共和国、旧ザイールで行われた琉球大学のボノボの調査隊に同行し、一人だけ同国のカフジ山へゴリラを調査しに行ったのだった。1960年に伊谷純一郎先生がウガンダのカヨンザの森で調査して以来のことであった。
『沖縄県那覇市から出発して、台湾、香港を抜け、飛行機を乗り継いで行ったような覚えがあります。当時はザイール国内の飛行機の発着時間はめちゃめちゃでした。フランス語もリンガラ語もわからないから首都のキンシャサで人の言葉が理解できない。僕はザイール東部の言葉スワヒリ語を勉強して行ったんですが、西部のキンシャサでは役に立たなかった。ただただ大きな荷物を抱えて、飛行場で待っていたんです。結局、1日半待ちました。いつ飛行機が出るかわからないから待っているしかないんですよ。誰かが走ると荷物を持って走って「この飛行機はどこに行くんですか?」と聞いていました。オーバーブッキングがあるから飛行機に乗り込んでも席を取るまで全く安心できないんです。席を取れたとしても、「満員になったので、大臣が座るから席を空けてください」と情け容赦なく言われたりすることもあるんですよ。』

 そういう苦労をしてようやく現地に着き、森へ分け入ってゴリラとの対面をひたすらめざす。そうっとゴリラに近づき、相手の反応を気長に待って至近距離でゴリラと出会えたときはどんな様子だったのだろう。
『向こうのほうがよくこちらをわかっているんですね。待っていてくれるんですよ、こちらが現れるまで。出会ったときの目に見えない大きな壁をゴリラに感じました。上下関係という問題ではなくてね。対面する礼儀というのでしょうか、真摯に接しなければいけないという気持ちになりました。ゴリラはそれを要求している。向こうから決してこちらを馬鹿にしたような態度は感じませんでした。こちらの真摯な態度がある限りは、ゴリラに手ひどい仕打ちを受けることも裏切られることもないという気がしました。
 ゴリラと対峙したときの身体が堅くなるような興奮というのは、なかなか良いものなんですよ。お互いに優しい気持ちになれる。一緒に居ることに対して何の不安も感じない。奇妙な体験だけれど、とても心に残る体験です。』

 ヴィルンガ火山群でゴリラと一緒に雨宿りしたとき、6歳のオスゴリラは先生の肩に頭を乗せてすやすやと眠ってしまった。ゴリラはこちらが真剣に対峙さえすれば人間に対してむやみに敵意を持たない。ニホンザルとゴリラはその点に於いて全く違うと言う。
『ゴリラはある意味では人間に似ている。人間に似ているという意味で猿とは全く似ていない。猿と人間の大きな違いは相手の目を見ないということなんです。猿の場合は、相手の目を見ることが威嚇になってしまう。目を見ると脅したと思って逃げるか、逆に攻撃を仕掛けてくるんですね。ところがゴリラは、相手の目を見ても威嚇にならない。じっと至近距離で相手の顔をのぞき込むことがある。
 人間でも相手を見つめることが威嚇にならないけど、話をしていないときに至近距離で目を見つめ合うなんて堪えられないですよね。近距離にいて相手の目を見つめてなおかつ言葉を発しないということは、非常に近しい恋人や親子という間柄だけに許されることなんです。言葉を発するということは、近距離で対面姿勢を保つことを可能にしている。言葉は相手を近づけたり遠ざけたり、さまざまな緩衝剤になっているんです。
 ニホンザルは力の強い猿が自分より立場の低い猿を見つめる。そうするとそれは威嚇になるから、小さな猿は目を背けてしまう。ゴリラの場合は、体の小さなゴリラ、若いゴリラ、弱いゴリラが、体の大きなゴリラや年寄りのゴリラに近づいて行くんです。それはいろいろな意味を持っている。遊びの誘いだったり、交尾の誘いだったり、喧嘩の仲裁だったり、挨拶だったりするんです。それは人間とも違うし、猿とも違います。彼らは言葉を持っていないからface to faceのコミュニケーションで相手にさまざまな気持ちを伝える。相手の行動を制御するということもするし、相手を誘うこともする。猿はお互いに相手の優劣を即座に認知して振る舞うから行動が相補的になり、同じようなことを同時にはしないんです。ところがゴリラとなると自分と相手との優劣を見てふるまうわけではなく、その状況に応じて相手と自分とのバランスを計り、変えながらつきあうんです。即座に相手と自分との優劣認知をしない。優劣は一旦違うところに置いておいて、対等に顔を見合わせながらバランスをとってつき合うんですね。それはとても難しいことで、猿にはできないことなんです。
 どうしてそれがゴリラにできるかというと、人間とゴリラとの共通祖先がそういう特徴を持っていたからなんでしょうね。』

 相手と自分とのバランスを計ってつきあえるという能力はゴリラの得意技であり、それは「遊び」の場面で十二分に発揮されるのである。
『猿の遊びは10秒以上続くことはめったにありませんが、ゴリラは1〜2時間は平気で遊べるんです。それはゴリラが力のバランスをとることに長けているからです。
 年齢の違うゴリラ同士が遊ぶときは、上のゴリラが下のゴリラに合わせます。体の大きな方が力をセーブしなければならない。それはセルフハンディキャッピング行動といいます。小さい方に追いかけさせる。取っ組み合う時も、大きなゴリラは自分の膝を折ったり自分は立ち上がらないというハンディキャップをつけるんです。そうすると相手は自分の力を精一杯出し切れます。そうして立場の弱いゴリラをじらしたり、誘ったりするんです。それがゴリラ特有の行動で、なおかつ人間にも似ているところなんです。』

 ゴリラの特徴として誰でも知っているのは自分の胸を両手で叩くことである。それは「ドラミング」と言う。人間を震え上がらせてしまうその行為は、実は遊びの誘いでもあるのだ。
『ゴリラは交互にドラミングすることで力を試し合うのです。それがあるために興奮を持続させることができる。離れていても遊び続けることができる。人間の言葉と似たような機能を持っているのかもしれません。
 チンパンジーはドラミングをしないかわりに、あたりを飛び回ったり地面を踏みならしたりするんです。指遊びをしたり、いないいないばあもします。遊ぶ行動には類人猿同士でも全く違う特徴があるんです。
 ゴリラは小さい者に合わせて遊ぶ特徴がありながら、年輩のゴリラには向かっていくという特徴もありますよ。仲裁行動というのはゴリラの場合、子どもがすることが多いんですよ。猿だと年輩の猿しかできないんですけどね。間を割って入るという行為が仲裁であるということを知っていないと、仲裁にはなりませんからね。それが成立するっていうことは、力の強いゴリラが弱いゴリラを受け入れて自らの行動を抑制するからです。これはなかなか難しい行動だと思います。優位者が自分を抑制するということもゴリラの特徴なんですね。これは人間がよくやっている行動ですよね。特にペットに対しては、やっていると思います。
 「ココ」というサンフランシスコ動物園で生まれたメスのゴリラがいるんですが、フランシーヌ・パターソンという人が1972年から手話を教えてココと対話をしつづけているんです。ココは猫をとてもかわいがるんです。普通、野生動物はそういうことをしないでしょ。それができるのは、相手に合わせ相手の文脈でもって楽しめるということなんです。野生のゴリラでも、ダイカー(カモシカの仲間)やフクロウやカメレオンと遊んだりと種が違う対象を相手に遊ぶことを知っています。ゴリラは観察が鋭いというか、別種の動物の行動に合わせて繊細につき合うことができるんです。自分の力を抑制する行動ができるからそれができるんでしょうね。』

 ゴリラが繊細で心優しい動物だということがなかなか認識されなかったから、過去に何頭ものゴリラが犠牲になり殺された。ダイアン・フォッシーというアメリカ人女性がヴィルンガ火山群に住んでゴリラと初めて心からの触れ合いをした「愛は霧のかなたに」という映画は実話だが、ゴリラもフォッシー自身も不幸な最期を遂げてしまう。
『人間は長いこと、ゴリラの繊細さに気づかなかったんです。ドラミングすることと大きな声で吠えることが、人間を震え上がらせてしまった。ドラミングは直接的な威嚇ではないということが解るまで、かなりの時間がかかっているんです。あれだけ太く大きな声で突進されたら誰でも震え上がるでしょう。銃を撃たずにはいられない。そのために何万頭という数のゴリラが死んでいる。
 しかし、そのドラミングのような行為は人間も共通に持っているんです。「かんしゃくを起こす」というようなディスプレイは不特定多数に向けられているもので、誰かが憎くてやるようなものではないんです。自分の憤怒を発散して、今置かれている状況を皆に知らせることに意味がある。ドラミングというのはそういう作用もあるんです。自分が怒っていることを他に知らせて、これ以上近づくなという警告をしている。ある意味では威嚇といえるかもしれないけれど、相手を傷つけるような憎しみからの威嚇ではないんです。あまりにも迫力がありすぎてそれを人間は誤解しますが、同じようなことを人間もしているんです。
 低く大きな声もディスプレイです。人間の男は声変わりをする。ゴリラのオスも声変わりするんです。成長すると喉袋が発達して胸の下までいって共鳴袋になるんです。それで低く大きな声が出せるようになる。
 声の質や大きさは非常に重要な役割をしています。大人のオスは保護者であり監督者なんです。喧嘩の仲裁のときに「グウーム」という低く太い声を出すんです。それは実にこどもたちにとって効果的なんですよ。言葉ではない影響力はゴリラだけでなく、人間の男も持っている共通点だと思います。』

 山極先生が、ゴリラのオスと接して大きな影響を受けたひとつに「大きくて低い声」がある。ゴリラのオスがそうであるように、人間の男の低い声も子どもたちにとって物事を諫めるときに有効だ。子どもたちが、自分たちではどうしようもなくなって袋小路に追い込まれたときに、大きな声でビシッとやられることは快感でもある。今までウジウジ考えていたことが粉々になる。そういう壁にぶち当たるという感覚が子どもにとってはとても重要で断固と立ちふさがる存在が子どもには必要なのではないかと、先生は思われたそうだ。「父性」ということを考えたのもゴリラに出会ったからで、ゴリラに出会って父親になることに魅力を感じたという。著書「父という余分なもの」(新書館)にはそのことが綴られている。
『家庭を持ってアフリカで数年暮らしたこともあるせいか、我が家の子どもたちは強いですね。つれ合いにしてもそうですが、みんな自分の道を歩いているという感じです。お互い支え合うことはしているけれど、相手にべったりにはならないんです。離れていることも多い。けれども一緒にいることは楽しいと、家族は思っていますね。客の出入りが多い家で家族だけでいるということが本当に少ないんですよ。そういう中で、家族がお互いの考えていることを客との会話を通じて汲み取っていくんです。そういう点は我々人間の非常に高度な社会テクニックだと思います。人を利用しながら自分の考えを相手に伝えていったり、相手が何を望んでいるのかフィルターを通しながら汲み取っていく。一対一で接していてもわからない部分がある時は、ちょっと距離を置いてみたりする。そうしてみて初めて、人間とのつきあいが楽しくなるのではないかなと思います。僕もそれを学びつつあるかなという気がしています。他人の目を通した自分に出会える。良いところや悪いところは出会ってみてわかるし、必要なら修正した方がいいですからね。』

 山極先生とお話をさせていただいて実感したのは、先生には偏見が全くないということである。こちらが包み込まれてしまうような存在感は希有で、だからこそアフリカの村や現地の人々に溶け込んで行ったのではないだろうか。
『たしかにあまり先入観は持たないんですよ。そういう意味では僕はあまり自己主張がないのかもしれないなあ。人と喋ったり相手の話を聞いたりすることが嫌いじゃないし、好きなんでしょうね。人の話を聞きながら自分の考えを修正していくっていうのは、小さい頃から僕が会得してきた知恵かもしれないです。
 フィールドワークというのも、そもそもいろいろな人の話を聞くということから始まっている。言葉はすごく大切なことです。そして、直に体験してみる。体験もまた大きな言葉なんです。そういうことが面白いと思っているからあまり先入観がないのかもしれません。偏見を持って入っていくと、せっかく人と会っても楽しくないですからね。』

 山極先生の大らかさの源泉はいったいどこから来ているのだろう。少年時代の話にさかのぼってみた。
『僕は1952年(昭和27年)東京の国立市生まれです。子どものころは、祖父母と両親と姉と6人家族でした。祖父は非常に器用でいろいろな遊び道具を作ってくれる人でしたね。
 その当時は国立と言っても田園風景でね、くぬぎやこならの雑木林があって子どもが遊ぶには絶好の場所だったんです。適度に田舎で、適度に都会の風が吹いている。典型的な昭和30年代、戦後の混乱期を抜けて日本人が幸福への希望を見いだした時代です。親父の世代は猛烈社員として働いた時代なんですが、子どもたちはその恩恵にあずかってどんどん変わりゆく日本の風景を眺めながら、なおかつ祖父母がいたせいか日本の伝統的な風土とも無縁ではなく暮らしていたと思います。地域の連帯が根強く残っていて人々は共同作業をしていたし、地区会で集まって催し物やラジオ体操をやったり、落ち葉を掻き集めてたき火をしてサツマイモを焼いたり、そんな風にほのぼのとした時代でしたね。東京に住んでいても鳥や動物と親しくつきあう機会があったし、フナやドジョウやヘビを捕まえるというのは日常茶飯事でした。
 塾もなかったですからね。こどもたちが自由に遊べた最後の時代だったかもしれないなあ。全身を使って飛び回っていたし、東京に住んでいたから最新の情報とは無縁ではなく、幸せな子ども時代だったような気がします。
 高校時代は大学紛争盛んな頃でしたよ。ですから受験勉強に繋がるような人生観に対する、猛烈な反発がありましたね。高校は都立国立高校だったんですが、大学は絶対に東京を出ようと思っていました。もっといろいろな文化に身を置きたいと思ったし、親も含めてそれまでの人間関係から一度切れてみようと思ったんです。高校紛争もあって様々な繋がりが一切イヤになっていたから、白紙で人生を過ごしてみたかったんですよね。それで京都大学を受験しようと決めました。
 高校紛争で学校はガタガタになっていたから特別な受験勉強をした記憶がないんです。京大は学校の教科書をきちんとやっていれば通ると聞いたから、難しい受験用参考書をがむしゃらにやる必要もない。それだけでなく、京大にはあらゆる魅力があったんです。しかも理学部は自由な学風で好きにやらせてくれるというから、とても入りたかったですね。』 

 紛争という壁が立ちはだかって何かが崩され、そしてまた自己を築き上げていく・・・。山極先生がゴリラの森に惹かれ、彼らとただ目と目や身体や心で会話したのは、こうした強い内省に導かれたものとは言えないだろうか。先生がとりわけフィールドワークに魅力を感じ、理論武装の世界ではなく体験して感じ取ることを貴重視するのは最もなのだろう。
『ゴリラに限らず野生動物とつきあうということは、こちらのペースで物事を進めてもうまくはいかない、とにかく向こうのペースに入ってみるんです。うまくいけば後はどうでもいいじゃないかという気になるんですね。研究成果になろうとなるまいと他人にできないことをやっている。いつかは何かを会得できるだろう。僕たちフィールドワーカーの誇りは「誰もやっていないことをやっている」ということなんですよね。
 経験したことをいろいろな形で翻訳し考え、いつかは形になるかもしれないけれど、その体験自体が非常に貴重なものであるという実感があるんです。それはどんなものにも代え難いものなんです。何日までに論文を書かなければならないとか、来年までに成果を出さなければならないとかはあまり頭に出てこないんですよ。「この瞬間」というのが非常に重要で、それがいつか何かの足しになるだろうけれど、形になることを考えてやっているわけじゃあない。心を白紙にして、ゴリラについて歩くのが楽しいし喜びなんです。そう思わないと本当のフィールドワーカーにはなれないと思う。土台、フィールドワーカーはそんなに論文が書けるわけじゃないんです。実験室で実験をやっている人のほうが論文を出せるし、都会にいるから文化にも触れられる。自分を啓発して学者として知識の蓄積をしていこうという人はその方がいいと思うんです。フィールドワーカーっていうのは部屋の中にいられないんですね。不便な世の中や森の中に入って、きつい生活を自ら好んで選ぶんです。それがいつか報いられるかもしれないと思ったり、なるべく早くこういう仕事をやめて論文を書きたいと思ったら、やっていられないと思います。もちろん論文を書くという動機を持つことは重要だけれど、図書館で論文を読むより、仲間と話をしているより、やはりその場所に居ること。その場所に今居るという幸福さを味わう。そのことが重要だと思わないとやっていけないです。そういう体験に出会うということが、フィールドワーカーとしての幸福の第一歩なんです。出会いのある場所に自分からでかけていく。求めなければ得られないものなんです。だからといって、過大な期待を抱いてもいけない。そう思えば、僕は屋久島でもアフリカでも非常に幸運な出会いをしていると思います。その出会いが地元の人と長い間関わるきっかけになったと思うんです。出会いがあまり自分の心に残るものではなかったとしたら、ここまで関わってこなかったと思います。』

 そしてそれは京都大学の研究室の古き良き伝統が培ってきたものかもしれない。
『こういう在り方は、この研究室の特色かもしれません。それは伊谷先生が偉かったのだと思うのです。フィールドワークというのは決して高尚なものではなくて、ただただ人々と同じ目線、いや、少し下の目線になって眺めなければ見えてこないものがある。そういうことを伊谷先生は教えてくれたんです。動物にも植物にも虫にもそれぞれの目線があるんです。だからそれぞれの目線にならなければいけない。人の意見を聞くということも同様です。その中に楽しさがあるんです。まず自分の立場や身分をはずしてつき合うことが必要です。たとえば農家に行って農業を手伝わせてもらう。そうでなければ本当の話は聞けないですからね。
 タバコと酒を絶対にやらないと人類学者になれないと言う先輩もいましたよ。酒を飲んで語り、タバコをふかし、土地のものを食べる。調査に行った先々で、猿やゴリラの食べるものを僕も食べていました。』

 26歳の時からの約20年間、半分を日本、半分はアフリカや他の土地で暮らしている。そうしてみると、日本の風土をどのように感じるだろうか。
 『日本とアフリカはどちらも好きなんです。日本の自然というのはとても捨てがたいですね。日本の自然の優しさは、国を出るとよくわかるんです。こんなに優しい自然があるのか・・・というほど優しいんですね。そこに浸り込んでしまった日本人の心の甘さは確かにあります。全くアフリカの自然とは違いますからね。
 アフリカでは甘えが許されない。生物の種類が日本に比べて圧倒的に多いですからね。油断すると毒や棘にやられたり襲われる危険のある世界ですからね。絶えず気を張っていないといけない。でも、気を張っている上でしか得られないものもあります。
 日本の自然は人間が飼い慣らした自然なのかもしれません。常に人間が優位な立場にあります。都会にいると他の生命の動きを痛切に感じることがない。しかし人間がちっぽけな存在だと感じる世界に行くと、生命に対しての思いが変わります。常に自分が周囲に反応しなくてはいけない切迫感を感じます。それは悩ましいことではなく、非常に楽しいことなんです。
 ジャングルとサバンナでも違いますよ。サバンナは隠れるところがない。全部見えている世界で、相手と了解し合わねばならない。時には相手を騙すことが必要になります。ですからジャングルとは異質の精神的強さが必要なんです。サバンナは常にカーテンの開いた舞台なんですよ。二次元というのかなあ。ジャングルは三次元的で、どこか懐の深さがあるんです。』

 それでは、京都と東京ではどうなのだろうか。
『京都と自分の育った東京ではどちらも良さがあるけれど、京都のほうが自由ですね。権威というのはないような気がするんです。
 京都大学は学問のあり方としてはきついところかもしれません。オリジナリティが一番に要求されますからね。「おもろいことをやれ」と言われるんです。これが京大のキャッチフレーズなんでしょうね。他人に面白いと感じさせることをやれ、と言われるんです。そのためには様々な仕掛けを考えなければいけない。本を読んで古今東西の知識を修めることも必要だし、人とは違った方法で新たなことに挑戦することも歓迎される。簡単に横道に逸れることを許されるし、むしろ礼賛されるんです。「あいつは変人だ」というのは京大では一種の誉め言葉ですから。その代わりね、皆でまとまって何かするっていうのはすごく下手なんですよ。
 学生にも面白いことを要求するんですが、学生は辛いでしょうね。なぜかというと、お手本がないですからね。先生や先輩のようにやっても、誰も認めてくれない。必死になって自分でできることを探すんですよ。お手本がないので、自分でやっていることに確信を持つまでにとても時間がかかりますからね。』

 ここで、山極先生のテーマである「父性」をもう少し掘り下げて聞いてみよう。
『ゴリラの社会に於いて、父親は作られたものです。オスは自分の自覚で父親になれないんです。メスによって長期信頼できる保護者と認められて、子どもを預けてもらえる。そうして初めて子どもに保護者と認められる。子どもたちは、母親によって父親を紹介され頼りにするようになるんです。
 僕が「父という余分なもの」を書いたのは、霊長類では父親がいなくても子どもが育つし父親が非常に稀な存在だからです。けれども、人間にとってもゴリラにとっても父親は欠かせない存在になっていると思うんです。子どもにとっては、父という社会に通じるチャンネルを持つことは、母というひとつのチャンネルだけよりも有利だからです。
 もうひとつは、ゴリラの父親は熱心な子育てに特徴づけられているのではなくて、長期間続く子どもとのゆるやかなつながりに特徴づけられているんです。母親と子どもに認められて初めて父親になって、しかしそれ以後はずっと、子どもにとって父親は重要な存在になるんです。父親の高い許容力と圧倒的な力強さに支えられる。子どもは父親に頼ることができるし、父親の所に行けば父親を介して他の子どもと対等につき合える。決して母親のように子どもとつき合うのではないんです。あくまでもゴリラの話なんですけどね。しかし、やはり人間の父性と似たところがあるのではないかと思うんです。
 そして父親でありながらオスでなくてはならない。二役を演じることができて初めて、ゴリラのオスは高い抑制力を身につけることができます。オスであることは性的魅力を持つことで、しかし父親というのは子どもに対しての高い許容力を持つことです。相反するものを同時に持つのですから、それを使い分けるのは心の豊かさや精神的な複雑さを持っていないとできないことだと思います。それはメスでもそうです。霊長類は、メスのときと母親のときを同時に演じることはできないんです。出産すればメスであることをやめて母親になり、子どもが乳離れすれば発情してメスに復帰します。それが類人猿では母親でありながらメスであるということを演じられる場合があるんです。ボノボはそれができるんですよ。ボノボのメスはオスとも子どもともうまくつき合うようです。
 そういう多重な役割を集団内で演じることができてはじめて家族が成立するんです。
ゴリラのオスは、家族が成立する前のあるモデルを示していると思うのです。
 人間の家族の場合は、男も女もそういう役割は同時に演じているんです。人間の家族は孤立しては成立しない。外に向かう力と内に向かう力が両立してはじめて家族を支えるんです。ゴリラはそこまではいっていない。しかし、ゴリラのオスを見ていると人間の家族に通じるものがある。それが父親が持っている二重性や多重性なんです。
 ゴリラの精神は複雑ですからね、まだまだわからないことがたくさんあるんです。』

 最後に、これから先生がしようとしているフィールドワークについて尋ねてみた。
『同じ場所で生きている、人間・ゴリラ・チンパンジーの3種類についての調査をしてみたいですね。
 人間の自然認知、ゴリラやチンパンジーではどうか。森林の歩き方、歩いているうちに何に気づいているのか、どれくらい歩いたら疲れるのか、お腹がすくのか。仲間と何を気づかうのか。そういう基本的なことを3種類に同じような調査方法でやってみようと思っているんです。
 森林を歩くと、音やにおいがする、視覚に入る、あらゆることに敏感に身体は反応しています。その中で記憶を呼び覚ますものがあればまた反応するんです。そういう場所に身を置かないと全身の能力は反応しないんです。部屋の中にいるだけでは、風景も直線的だし単純な音しかしませんよね。いろいろな刺激のある音の中に晒されているほうが、精神的に幸福になれると思うんです。人類はその進化史の99%以上をそういった世界で生きてきたんですからね。でもその生き方や幸福感を今や忘れはじめているような気がする。それを現代のテクノロジーの時代によみがえらせることによって、新しい生き方を模索できると思います。類人猿の比較研究はその基礎となる考えをもたらしてくるでしょう。』
 そう話す山極先生の悠然とした佇まいが、私にはシルバーバックのように見えてならなかった。
 1900年代最後のすばらしい出会いに感謝します。
                          (インタビュアー 三上敦子)1999.12




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Edited by Atsuko Mikami