俳優   原田 龍二さん

 
 俳優という職業の人たちは、テレビというメディアや映画という大きなスクリーン、あるいは舞台という華やかな壇上で、私たちの叶えられないような世界を展開し表現して見せてくれる。映像の中の俳優の演技によって、毎日の生活を単純に勇気づけられたりすることも少なくない。
 原田龍二という人も、気骨で真っ直ぐな役柄が多く、人々を勇気づけることのできる俳優である。
 彼のもうひとつの顔は、ドキュメンタリー番組で未開の地を旅することである。旅をするというよりも、実際にその土地に入って土着の人々と同様な生活を体験するのである。そのときの彼は「端正な顔立ちの俳優」という印象では全くない。少しでも見知らぬ場所に馴染もうと努力を怠らない、土地の人にとっては素姓の知れない一旅人として、謙虚にけれども積極的に体験していく。そしてその姿勢を知れば知るほど、多くの俳優とは一線を画しているように思えてならない。未開の地での真摯な彼の姿にどんどん惹きつけられていって、いつも最後まで番組を観ている。画面では、観る側は触れることはできなくても、出演者の表情や動きの裏側にある真のものは案外見えてくるものかもしれない。
 このインタビューでは、俳優・原田龍二としてだけではない、人間・原田龍二の心の深淵のかけらを拾い集められたら・・・と思う。


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 『何でも聞いてください。ただ僕は話すのがあまり上手くないんで、質問してくれたら何でも答えます』
 こちらの心配がすっかり吹き飛んでしまう第一声だった。
 『単純なんですね、僕。隠して人に取り繕ったり、格好つけても仕方ないと思うんですよね。ただでさえ、芸能界は格好をつけていると思われる世界ですからね。そこでいかに自分をさらけ出せるか、自然でいられるか。一番難しいことなんですけどね。自然でいられるっていうのはどういうことなのか、常に考えていることです』

 「世界ウルルン滞在記」という番組の中で、原田さんはラオスのこどもたちと2度会っている。雲よりも上にあるその土地で、こどもたちに算数や歌を教える小さな学校の先生になった。1度目に訪れたとき、日本の童謡を教えた。その1年後に再度訪れたとき、こどもたちは歌を間違いなく覚えていて、「春がきた」をきれいな日本語で大合唱して原田さんを迎えたのである。
 『短い歌で、こどもでも覚えられる曲調のもので、僕が覚えているものと言ったら数少ないので「春がきた」をこどもたちに教えたんですが、まさか唄い続けてくれているとは思ってなかったんです。
 ラオスのような場所があったのが夢みたいです。高度2000メートルくらいのところで雲の上なんですけれどね。そこに着くまでが険しくて車で入れないので、6時間くらい自分の足で山を登るんです。そういう苦労をして辿り着くと、ここに人が住んでいるなんて信じられないなあと思うし、見るものの全てが感動的で心が真っ白になります。
 夜になってカメラの人が帰った後、僕の泊まっている小屋にこどもたちがやってくるんです。学校っていうのは彼らにとってはそれほど日常的ではない場所なんです。毎日授業を受けられるわけではないですから。先生の言うことを聞かなきゃいけないとか、座っていなきゃいけないという基本的なことはわかっているんですが、学校が終わるとただの人間対人間で自然につきあおうとしてくる。こどもたちは気軽に僕の寝床にやって来て、算数のわからない子とかは質問してくるんです。そこからが本当の授業だったような気がします。カメラで撮影していないときのほうが、より楽しかったかもしれない。
 村の人はみんな、テレビカメラの意味がわからないですからね。こちらがなにをやっているのかわかってもらうためにビデオの映像を見せて、それで納得してくれたんです。最初にラオスに行った後に村では不幸が続いたので、カメラのせいだと思っている人がいたようです。僕たちが行くことを喜んでくれている人たちもいた反面、そう思っている人もいたので、なんとか主旨をわかってもらおうと思って映像を見てもらいました。村の人たちは初めて動いている自分の映像を見たので、その場面を見ている僕たちは何よりも感動的だったんですよ』

 小さな集落で外敵から身を守るような生活を強いられてきた人達が外の世界の人間に警戒心を抱くのは仕方がないことだ。まして、一生そこで暮らす覚悟をしている大人たちにとっては死活問題だろう。大人たちとこどもたちでは受け止め方が違った。それまで外の文化とは全く接触のないこどもたちが、最初は警戒心を抱きながらも時間を追う毎に原田さんのことを理屈抜きで好きになっていくのが、観ているこちら側に切ないほど伝わってきた。別れのときはこどもたちも原田さんも大粒の涙を止められなかった。優劣がなく対等な関係がそこにできたから、同じ量の涙が溢れているように見えた。
 ラオスのこどもたちと接している原田さんは、一見ラフだけれど決して上から見下ろしていない。常に礼儀を弁えて等距離を保つからこそ、彼らにはその気持ちが通じたのではないだろうか。
 そんな原田さんは、どういうこども時代を過ごしたのだろう。

 『僕は東京の足立区竹の塚の出身です。畑や田んぼがあるようなのどかな所でした。ザリガニを釣ったりするのが大好きで、家の中で漫画を読んだり、プラモデルを作ったり、テレビゲームをするような子ではなかったですね。周りにはすごく個性の強いこどもが集まっていたんです。みんなで銭湯に行ったり、神社で野球したり、釣りしたりして遊んでました。東京人ではありつつも限りなく自然よりの生活を送っていたせいか、こどものときに感じたことや四季の移り変わる匂いは今でも大事だなと思うし、自分の五感に心地いいものを常に探しているんです。
 いつも外で遊ぶような子だった反面、空想家で本を読むことも好きでしたね。当時住んでいた家の瓦屋根が青くて、その色がとても気に入ってました。二階のベランダの窓を抜けて青い屋根に腰掛けて、周りの林を時々眺めながら、本を読むのが大好きだったんです。太陽の光が気持ち良くてね。もちろん、しょっちゅうそんなことはしないんですけどね。でもそういう気分になるのが好きな子だったんです。
 それから、お寺のような荘厳な雰囲気とかも好きでした。習字を習っていたんですが、それ自体はあまり好きじゃなかったんです。最初に習いだしたのが町の集会所で周りがビルに囲まれて日陰でじめっとしていて開放感もないし、それに先生も厳しかったので嫌々通っていました。でもそれから、なぜか習字を続けようと思って次に通い始めた場所が、お寺の境内だったんです。そこの雰囲気がとにかく好きでした。お線香の匂いとか、お釈迦様とか、墨を擦る匂いとか・・・。それがきっかけになっているのかわからないんですけれど、今でも字を書くことが好きなんです。学校の授業でも国語が好きでしたね。漢字は文字からいろいろなことを想像できるので興味がありました』

 原田さんには、ひとつ違いの弟がいる。俳優の本宮泰風さんである。
 『弟とはひとつしか年が離れていないんで、いつも僕の友達と一緒に遊んでいましたね。お袋が厳しかったんですよ。僕は長男ですから、弟のやらかしたことも全部僕の責任になってしまうんです。観察が甘いって怒られたりしました。そのせいか、「弟は俺が守らなきゃいけない」っていう責任感はこどもながらに人一倍ありましたよ。弟もどっちかというとアクティブなほうなので奴は奴なりに生きていたと思うんですが、僕の中では弟の存在は大きかったです。今は背も体格も僕より弟の方が大きいんですが、でも弟を守るっていう気持ちはいまだにありますね』

 弟や近所の仲間たちと遊んで伸び伸び過ごしていた原田さんも、小学4年になり進学塾に通い始めるようになった。
 『私立の中学に入ることによって、エスカレーター式に大学に上がれるっていうとんでもない考え方をしていたんですよ。親にも今のうちに頑張れば・・・と言われたので、素直に塾に通いはじめたんです。電車で通っていたから、すっかり大人になったような錯覚に陥ってしまったんですね。定期券を買って、改札で駅員さんに見せる瞬間が良かったりして。でもある日、友達と一緒に遊んでいても塾の時間だから帰らなければならない悲しさというのを痛いほど感じてしまった。どうしようもないその悲しさにふと気づいてしまったら、自分が頑張ることによって何かを犠牲にしているんじゃないかと、今の自分のしていることについて疑問に思えてしまったんです』
 
 進学塾の慶応・開成コースにいたけれど、自分にとってのもっと大切な何かに気づいてしまい私立中学受験を断念した。気持ちをニュートラルに戻すために何もかも環境を変えたくなって、自分の意思で、地元足立区の中学ではなく台東区の中学に通うことにしたのである。
 『中学時代は僕にとって不毛の時代でした。望んで台東区の中学に通い始めたのに、なかなかその環境に溶け込めなかったんです。それでも、陸上部にスカウトされて走り幅跳びをやるようになってから、少しずつ学校の友達とクラブを通して仲良くなったんです。でもそれも2年生になってからで、慣れるのに結構な時間がかかりました。団体行動っていうのが僕はどうも苦手なんです。だから徐々に練習をさぼるようになってしまって、そのまま陸上部をやめてしまったんです。
 その頃、プロレスがすごく好きになって、蔵前国技館にプロレスを観に行くようになりました。がっちりしていて大きな人が闘っているっていうのに憧れてね。たとえそれがショーだとしても、自分の身近にああいう人はいないですからね。リングは特別な空間っていうのかなあ。サーカスに行くような気分でワクワクしながら観に行ってました。
 それから普通に勉強して高校はプロテスタントの男子校に行ったんですが、特徴はないけれど学校の雰囲気がすごく好きだったんです。中学とは全然違って、いろんな人に会いました。軽音楽部がすごく盛んだったんで、髪の長いヘビメタのお兄ちゃんがいたりして、自分の視点の枠も広がったんですね。中学時代まで蓋をしていたものが少しずつ開いてきて、学年が上になる毎に歩まなくてもいい方向にどんどんいってしまったんです。タバコを吸ったり、バイクに乗ったり、ディスコに行ったり、外泊したり。暴走族にはならなかったけれど、それに近いところまでは行ってたかもしれません。街でなんの素姓もわからない連中がたむろしていて、名前だけで呼び合っている。名字も住んでいるところも知らない。そういう連中が集まっていたから殺気だってましたよ』

 尾崎豊の歌が好きだった原田さんは、彼の詩の世界のような学生時代を送っている。求めているものが何なのか心の奥ではいつも探していながらも表面は刹那主義を装う。大学進学をしても学校は殆どさぼりがちだった。
 『小学校の頃から大学には行きたいと思っていたんです。はみだしていたのに、そういう夢があったんです。入ったのはいいけれど、新設校だったので自分の思い描いていた世界とは全く違ったんです。人もいないから実験的なことばかりで選択肢も狭くて、開放的な感じがなかったんですね。車の免許を取ったので、友達や女の子と遊んでるほうが楽しくてどんどん学校をさぼるようになる。それが、最悪の頃でした。
 無計画で何も周りが見えていなかったその頃、街を歩いていて芸能界にスカウトされたんです。でも僕は全く芸能界なんて興味がなかったし、芸能人っていうのが大嫌いだったんで断りました。でも何回か話を聞いてくれって言われて、最終的にやってみようと決心したんです』
 
 19才でデビューしたけれど、芸能界という場所にずっと違和感を感じ続ける毎日だった。
 『僕には下積みもないし、演技なんかできなかったんですよ。今は考えればできるようなことも、あの頃は全くできなかった。こんな簡単なことができないのかって人に叱られることもおもしろくないですよね。それで自分には向いていないってずっと思っていて、いつ辞めよう、いつ辞めようと思って。そういう日が何年も続きました。何せ演技ができないんです。いまだに演技の部分は未知の世界で自分をどう評価していいのかわからないんですが、当時は今以上にわからなかったので苦痛だったんです。
  CDを発売することになって歌詞を書くように言われたときも、自分を真っ正面からさらけ出さないとできない作業だったんで恥ずかしさがつきまとっていました。自分が考えていることや良いと思っていることを形として出すわけですから。今となってはそういうことを表現できる場があることをありがたいし幸せだなって素直に思えますけれど、当時は恥ずかしさだけだったんです。とにかく内向的な性格なんですよね、いまだに。自分をわかってもらいたくて表現するっていうのが上手くないんです。どういう風に表現していいのかわからなかったり、思っていることを素直に言葉に出して言えなかったり。そういうのが僕の中ではこどもの頃から常に基本軸にあるんですね。
 人に相談することが嫌いなんです。辛いとか疲れたって愚痴るのも好きじゃないんですね。だから、近くにいる人にはわかりにくいと思います。言っちゃ格好悪いっていう気持ちが表現の邪魔をしてしまう。だから自分を上手に表現できる人にすごく憧れます』

 芸能界に存在していることの居心地の悪さを何年も感じ続けていたけれど、揺らいでいる気持ちを払拭してくれたのがドキュメンタリー番組との出会いだった。
 最初は、スリランカ南部での鰹漁。海の大しけに遭い釣り船が波に飲まれて、九死に一生を得たのである。そのときはカルチャーショックのほうが強すぎて大自然の素晴らしさには気づけなかったけれども、次のモンゴルでは大きく何かが変わるのである。
 『モンゴルに行って、なにかこう、心が自由になれましたね。この世界は自由って言えるなって。冬は気温がマイナス20度や30度になってしまうような厳しい所ですが、物が無い素晴らしさというか開放感というか、生きる力というのかなあ。何かに気づいたというよりも、圧倒されてしまったんです。さっきまでそこで生きていたひつじを殺して食べてしまうという生活。そしてそれが当然の生活の営みの一部だということに生きていく力強さを感じました。
 とにかく天国みたいな場所だと思います。周りにはなんにもないことがあれほど楽になれるというか、次元があまりにも高い世界なんですよね。どんなものにも縛られていない。一番大切なものが家畜ですからね。
 夜になると一人きりにされちゃうんで、自分しか頼ることができない。でもその不便さがやけに心地良かったんです。たぶん現地の言葉を習得していると、自分を説明しちゃうと思うんです。自分はどういう人間で、どういうことをやっているって。でも言葉がお互いにわからない分、心でコミュニケーションするしかなかったんです。それが僕にとってはとても楽でした。
 そのモンゴルに行った頃から、自分自身も変わっていったような気がします』 

 次に行ったのはニューヨーク。ドッグトレーナーに入門し、犬の訓練に携わった。人間がまず心をさらけ出さないと犬との意思の疎通を持てないことを学んだのである。
 そして次はブラジルに行き、在住する日系人が演歌を唄い続け、昔のような「のど自慢大会」をしているという所を取材に行った。遠い昔、出稼ぎに来た日本人が未開拓地に置き去りにされ、日本に戻りたくても戻れない心の隙間を埋めるために演歌を唄い続けてきた。原田さんはその日系人たちに会って、日本人が忘れてしまった本来の日本人の古き良き姿を見るような気がして複雑な心境になったと言う。
 『ドキュメンタリー番組は僕の道しるべになっているような気がするんです。方向を示してくれているような、100%勉強ができる仕事なんです。言葉にできないものが勉強できるんです。
 ラオスで、小さな小屋の中で足らずとも先生をやらせてもらいましたが、僕はいろんなことを教わりました。教わったというか、気づかされたんですね。ラオスだけじゃなくて、何処に行っても僕は気づかされます。大切なことを確認させられるんです。唯一、それができる仕事なんです。
 今年の1月に、ベネズエラとブラジルの国境付近のオリノコ川源流のジャングルがあってそこで狩猟採集をしながら生活している「ヤノマミ族」という人たちがいる場所に行ったんですが、そこでも大切なことを気づかされました。ヤノマミ族は裸族なんですが、文明社会は洋服を着ていること自体が人間をわかりにくくしていると思いましたよ。もちろん、これはどうしようもないと思うんですが、付加価値が邪魔をして人間同士をわかりにくくしているような気がします。普段の生活では邪魔なものが多いような気がするんです。気づかされれば気づかされるほど、普段の生活では必要でなくなるものが多くなってきました』

 役者として演じるということと、未開の地に行き体験したことを伝えていくこと。どちらのほうがより原田さんにとっては大きな割合を占めているのだろうか。
 『世界が全然違いすぎるんですよね。いろいろなことを選択してくださいって言われますよね。でもその中からひとつを選ぶのってとても難しいです。与えられた仕事は、とにかく一生懸命やりたいですからね。
 僕の場合はカメラで撮ってくれて映像として流してもらえるからありがたいんですけれど、もしそういう仕事がなくなっても、大切なのはどういう気持ちでテレビに出演するかということだと思うんです。何かをするためにテレビに出ると言うより、どういう志でテレビに出るかという。
 もしかしたらテレビというのは、自分の仕事の場でありつつも最大の敵かもしれません。僕は一生、テレビと闘っていかなければいけないんじゃないかと思います。出演している人間としてそう思うんです。出ていなかったらそんなこと思わないですけれどね。テレビを観なければいいんですから。こういう仕事をしていなければ、僕の家にはテレビは必要ないような気がします。映画が好きだからビデオやモニターは必要になってきますけれど、極力テレビは観たくないというのが本音なんです。楽しいかもしれないけれど自分のためにならないというか。
 俳優になって今年で10年経つんですが、初心が忘れられなくて困ることがあります。もちろん初心は大切なんですけれど、それがたまに邪魔になってしまうんです。なんかずっと芸能界が苦手なままなんです。芸能界という池があったら、そこの魚になりきれていないんですよね。
 だから、「賭」だと思っています。僕みたいな人間がどこまで芸能界で通用するのか。有名になりたいという気持ちでこの仕事を始めたわけではないので、どうなっていくのかわからない。きっと死ぬときに答えがわかるんでしょうね。美しいものを美しいと感じられないような自分になってしまったら、そのときは僕は終わりだと思います』 

 原田さんはこどもの頃、なりたい未来というのが全く予想できなかった。いつも「一寸先は闇」のように感じていることが多かった。俳優という仕事を今していなかったら、原田さんはどうしていたのだろう。
 『う〜ん。全くあてにならない想像ですけれど・・・・・・。死んでたかもしれないなあ。
 ・・・と言うふうに思っちゃいますね、何かがあって。人生の素晴らしさに気づいたから死ななくてすんでいる気がするんですよね。俳優になって、いろいろな機会を与えてもらったことによって少しずつ気づいていったんですけれど。まだまだ気づけていないことがたくさんありますけれどね。もしこの仕事をしていなかったら、もっと破滅的で、もっと危険な場所にいて、とんでもない事件に巻き込まれたりしていた可能性があったんじゃないかなって。ちょっと悲観的な想像しかできないですね。牧場で牛とともに生きているなんていう、のどかな想像はできないですね。もっとダークな世界に行ってしまった気がするんです。
 僕はすごく屈折している人間だと思うんです。これは自分の弱さでもあると思うんですけれど、自分がいろいろなことを体験すればするほど、大切なことがわかってくればくるほど、生きることが難しくなってくる。矛盾しているのかもしれないですけれどね。
 日本が混沌としているからかもしれないですね。南国の島や、今まで行ったモンゴルのような第三世界と呼ばれている場所のほうが、本当の意味でスマートな世界のような気がします。今の日本は、いちばん幸せの形が見えにくい国なんじゃないかと思うんです。真の幸せを探しにくいと思います。ある意味、一番、日本が仏教に反している国ではないのかなあ。仏教も、僕は興味があるんですけれどね。かといって宗教とは無縁でありたいと思っています。それぞれの宗教の素晴らしいところを生き方のひとつのヒントにすればいいだけで、悟りを開くつもりはないですからね。人間として、人間らしく生きていきたいと思うんです。だから、人間にとって大切なことを気づけるように生きたいんです』

 原田さんは何度も、「屈折している自分」という表現をしている。まず最初に、当たり前とされている概念を疑うこども時代だったと言う。
 『真っ正面から楽しいことを感じられるのと同時に、疑いの目線っていうのが自分のそばにいつもあったんです。嫁姑でゴタゴタしている家で、そういう場面に出くわすことがあったんですよね。そういった時に僕はどういうポジションにいたらいいのかなって思ってました。おばあちゃんにとってかわいい孫でいたほうがいいのか、男として小さいけれどもお袋を守る側として存在したほうがいいのかって、こどもながらにいろいろ考えていましたね。それと、疑いというのは結びつかないかもしれないけれど、でもなぜかいつも(ちょっと待てよ・・・)っていうところがあったんです。どんな状況でも油断できないっていうのかなあ。
 人の噂ほどあてにならないものはないと思うんです。僕は週刊誌も一切見ません。見なくてもいいんじゃないかって思います。知らない権利があってもいいんじゃないかなってね。でも人からは取り残されますね。人の集まるところにはぜったいについていけないですからね。流行っているものの話についていけないんです。たしかにそれは楽しいかもしれないけれど、それが一時的なものだと思うからなんにも興味がいかないんです。ちょっとひねくれているところがあるんですよ。みんなの集まるところには行かないっていうか。逆に、みんなが興味がいくといかなくなってしまうんですよね。そういうところがすごくひねくれてるなって思って、自分が嫌いになることもたくさんあるんですけれどね。(俺、なんでこんなにひねくれてるのかなあ)って、イヤになることがたくさんあるんですけれど変えられないんですよね。
 幼稚なのかもしれないけれど、僕はこどもの世界が好きですね。僕も昔はこどもだった。いまだにそういうところが残っていますけれどね。こどものあの視点の大切さというのが年とともにわかってきたんです。真似することはなくても、あれが大切なんだと実感することの大事さ。だからこそ、こどもの目線になる必要があるような気がします。
 こどもの目線というより、それはもしかしたら思いやりの気持ちということかもしれないですね。相手の目線になることの大切さっていうのかなあ。それは、人間以外の生物と接するときにもよくわかると思うんですよね』

 既製の外枠に自分を当てはめようと動いていく姿勢ではなくて、いつも自分の中の「軸」が引き寄せられるものを探すように、或いは内軸と出会うものを手繰るように、原田さんはそう生きてきたのではないだろうか。こどものころから自分を探す作業を怠らずにいる人なのだということが伝わってくる。充足感を内面に向けてきたから、虚勢を張らないしなやかな強さを着実に身につけてこられたのだろう。

 『人間の感情の形っていうか、もし「心」っていう形があるとしたら、心の形や受け皿の大きさって変わらないと思うんです。多少変化はしていくだろうけれど、心がある場所だとか本質は、生まれ持ってきたものがあるんじゃないかって思うときがあるんです。
 人間は孤独なんだと思うんですよね。でもそれは寂しくてひとりぼっちがイヤだという一般的な意味の孤独ではなくて、「ひとりきりの寂しさの理由」というところにポイントがあると思うんです。寂しい人のところにすぐに行ってあげることが、100%その人を癒すことではないと思うんです。大切なのは人を想う気持ちだと思います。人間にはそれぞれ必ず生まれてきた意味があると思うんです』

 こどもの頃の人や物を想う気持ちの骨格があったからこそ、未開の地の人々との出会いが真の感動に満ちたものにもなっている。
 少年のとき大好きだった青い瓦屋根に座って眺めていた林の風景と、今の彼が見る未開の地は、「余分なもののない幸福」ということに時間を超えて重なり合ったのではないだろうか。
 心の中の考えを確認しながら、そしてそれは自分自身に語るように、沸き上がってくる断片的な思いをひとつの織物を丹念に織り上げるように話されていた。自己評価で話をするのが上手くないと言っていた原田さんだったけれど、一語一語を淀みなくわかりやすくはっきりとした口調で語る彼は、正直で、気持ちいいくらいなんの衒いもない。
 だから、その言葉のひとつひとつがダーツのまん真ん中に当たるように通ってくる。
 たくさんの言葉が溢れ出てくるけれど、きっと、うんと核の部分は自分の心の中だけで整理して鍵をかけるように、小さい頃からそうして大切にしているような気がしてならなかった。

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   ラオスのこどもたちのことを、思い出すことがありますか?
 『思い出します、思い出します。学生生活のことよりそういうことのほうが今は思い出しますね。揺れてなにかに怯えてふるえている気持ちをそっと寄り添わせてみてホッとさせる。そういう感じがあるんです。本当に安らぎの世界なんです。深いことを考えずに彼らのことを思い出したときには、ふと思い出に寄りかかりたくなります。そういうところも自分の心の弱さのひとつなんだなって思いますけれどね。でも気持ちいいことは気持ちいいって、そう思っていたいんです』
                          2000.6.1.(インタビュアー 三上敦子)

原田龍二プロフィール

1970年10月26日生まれ。東京都出身。
1992年7月 TBS系「キライじゃないぜ」でデビュー。
主なテレビドラマ出演作・NTV系「グッドラック」「サービス」、
TBS系「怒れ!求馬」「怒れ!求馬」、NHK「蒲生邸殺人事件」
など多数。
主な映画出演作・「河童」「汚い奴」「日本一短い母への手紙」
「極道の妻たち・危険な賭け」「わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語」
「新・極道渡世の素敵な面々」「時雨の記」「野望の軍団」「野望の軍団2」
「オサムの朝」「新選組」など多数。
2000年6月全国東宝系「クロスファイア」公開、7月「夜叉の舞い」公開
1996年3月23日 日本アカデミー賞新人俳優賞受賞

 
                         

Edited by Atsuko Mikami