株式会社テレビマンユニオンディレクター   保坂 秀司さん

 うんとこどもの頃、テレビの中には指先ほどの小さな人たちがいっぱい詰まっていて、その人たちが「テレビの世界」を作っているのだと信じていた。おまけに、テレビの電源を止めれば今のシーンは停止し、改めて電源を入れれば続きのシーンを観られるものだと思っていたらしい(親の証言による)。ビデオが多くの家庭に当たり前のようにある現在は、そんなことを思うこどもなんていないだろうし、そう思えたこども時代はおそろしくのどかだったのかもしれない。
 それほどにテレビの世界というのは遠くて、全く異質の世界であったように思う。そしてそう思うのは、大人になった今でもさほど変わらない。
 次から次に、テレビの世界が猛スピードで目の中に飛び込んでくる。意識的に、押し寄せる情報を取捨選択していかないと振り回されてしまう。
 そんなテレビの世界にあって、異質の世界だからこそ、私たちにはなかなか実現できないような出会えないような人々に出会えたり、その土地土地の生活や素顔が垣間見える紀行番組やドキュメンタリー番組には、やはり魅かれてしまう。中でも、自分にとって、毎日放送「世界ウルルン滞在記」はその最も大きなひとつで、見終わった後には爽快な気分になって明日への活力源になっている。
 今回はその「世界ウルルン滞在記」のディレクターをされている保坂秀司さんに、忙しい編集作業の合間の時間をいただいてお話を伺うことができた。
 保坂さんは、がっちりと体格がよくて、ビーチサンダルとジャージ姿で編集作業をされている。豪放磊落という風情は、例えていうなら、「高校ラグビー部のコーチ」あるいは「柔道部の顧問の先生」というイメージだった。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 『テレビのディレクターっていうのはね、面白いなあと常日頃から感じていることを人に伝えたいというお節介心みたいなのを持っている人なら、できる仕事だと思うんですよ』  

 保坂さんがこの仕事に就いてから、ちょうど28年経とうとしている。当然のように、最初はアシスタントディレクターという、ディレクターの助手から始まった。そして長いこと、ドキュメンタリー番組を担当している。
 『僕は、こういう仕事をするつもりなんて全くなかったんです。大学時代に応援団の団長をやっていたんですが、それは終わったものの留年していて、なにかアルバイトでもないかなあと探していたんです。そのときに、たまたま、テレビマンユニオンに「山本寛斉ファッションショー」という番組の企画があったんです。それで、寛斉さんがファッションショーに応援団を使ってみたいというアイディアを持っていて、僕の大学の応援団を見に来たんです。その時に僕が直接やりとりをしたプロデューサーと親しくなって、ファッションショーが終わってからアルバイトしないかと声をかけられたんです。
 テレビの世界のことはよくわからなかったけれど、アシスタントディレクターの仕事を見て、この仕事なら自分にできるな、自分ならもっと動けるなと思ったんです。それからずるずるとこの世界にいるんで、どこかまだ、アルバイト気分が抜けないんですよね。
 どうにかしてテレビの番組を作りたいとか、こういう番組をやってみたいという気持ちがほとんどなくて、ただで海外に行かせていただいて楽しい思いをさせてもらえて、ちょっとだけ苦しい編集作業を頑張れば、また次も海外に行ける、たくさんの人に出会える、それが楽しくて28年もやっているんです』

「世界ウルルン滞在記」は毎日放送の看板番組。初回から担当をはじめ、保坂さんは1年間で6カ国くらいを担当する。ロケーションハンティングに1週間、ロケーションに10日から2週間、編集作業の泊まり込みに3週間から1ヶ月。そういう長い期間を費やして、ひとつの番組が、それは丁寧に作られていく。
 『僕は、あの「ウルルン」を作っているという意識は全くないんですよ。というのは、演出者は登場するレポーター(出演者)であって、僕はツアーコンダクターみたいな役割をしているだけなんです。現地まで連れて行ってあげれば仕事は終わったわけです』

 「世界ウルルン滞在記」の前身は、「地球ジグザグ」という日曜午前の30分番組。一般の大学生がレポーターになって世界の様々に滞在し、感じたことを思い思いにレポートするという番組だった。  
『その番組は、日曜の午前中なのにも関わらず、5年間も続いたんです。出演した大学生の半分くらいは人生に対する価値観が変わってしまったようです。今年のはじめに「地球ジグザグ」の同窓会をやったんですが、久しぶりに会ったレポーターの子たちが、その経験をしてから考え方や生き方が変わったと言ってました。
 ウルルンの場合、レポーターはテレビの世界で名を挙げている人がほとんどだから、あまり影響はないのかもしれないけれど、みんなそれぞれに心の中には残っていると思います。
 撮影の時、僕はほとんど現場にいないんです。同じ村にはいますが、現場と離れたところに僕もホームステイをさせてもらって、遊んでいるだけなんです。1日に1度、レポーターに会うくらいなんです。僕がカメラの横にいても意味がないじゃないですか。ああしろこうしろと言ったところで全く意味がないんです。僕がいつもやることは、どうやってその村の人たちの中に溶け込んでいくかということをアドバイスではなくて、一緒になって考えようというだけで、レポーターの話をただ聞くことだけなんです。あとは「自由にやってもらう」ことなんです。離れて見ていて、時々感じることをほんの少し言うだけなんですよ。
 日本にいるときに入念に話しておくけれど、現場に行ったら絶対にアドバイスはしない。レポーターのためにならないんですよね。それは僕の禁じ手にしているんですけれどね。でも、そのかわり、レポーターの気持ちを追い込むようなことはしますよ。中途半端なことをやっていれば追い込んでいくことはする。とにかく聞いていくことが追い込むことになるんですよ。だから徹底的に聞きます。追い込まれていく気持ちが大切なんです。
 出発する前に言うことは、何も調べてくる必要はないということです。とにかく下準備は必要がない。ただ、どうしてもしてきてほしいのは、自分の鎧は日本にすべて置いてきてくれ、すべて裸にして来てくれと頼むんです。そして、今まで自分の持っていた心の引き出しを整理しておいてくれって言うんです。現場に行って、いかにその引き出しをすべて使えるか、また新しい引き出しを作れるかどうかということだけを考えてきてくれと頼むんです』

 こうして問われたら、身ひとつでその土地に飛び込む覚悟と好奇心さえあれば、ふっと肩の荷が降りるくらい楽になれるような気がした。けれども頭だけで考えてしまったら、身体も心も、回路の全てが停止してしまうかもしれない。
 『だから、僕とすごく合う人もいれば、全く駄目な人もいますね。恐がられたりもしますよ。
 普通、だいたいは、この世界のタレントさんというのは何でも他人にやってもらうのが当たり前なんですよ。それが頭にあるじゃないですか。甘えているかどうかってすぐにわかりますからね。
 マネージャーは近くまで来ても、1週間くらい会えないわけです。そうすると本人はどうしていいのかわからなくなる。どうしたらいいんだろう・・・とパニックになる人もいます。でもその中で、そこの家族とどうやっていくかを分かっていく人もいれば、最後まで我慢したままで終わってしまう人もいる。ただ我慢したままで終わってしまうのは、相手先の家族にとても失礼だと思うんですよ。
 レポーターには、ウルルンのためではなくて、そこの家族のためにやるんだと思ってくれって言うんですよ。よその家にお邪魔して無償で食べさせてもらうのだから、何か家族に対してできることを考えてくれって言うんです。実際に自分でその家族の中に入る努力をして、それで気づくことは多いんです。その努力なしでは何も気づけないですからね。
 でも、もっと大切なのは、心から楽しむことなんですよ。自分が楽しむためにはどうしたらいいかっていうことを自分で考えてくださいって言うんです。本当にそれだけなんです』

 撮影の合間、ほとんど目の前のことに口を出さない保坂さんは、現場から少し離れた別の家族のところに居候している。その居候生活が生き甲斐であり、次の仕事への糧となっている。
 キャンプを張るときは、保坂さん自ら、スタッフ分の食事作りを担当する。このインタビューのときは、キルギスの撮影の最中であった。キルギスでも、現地の人から羊1頭をもらい、保坂さんが野菜と一緒に1日中煮込んでいたそうだ。
 『キルギスのようなところに行って楽しいのは、言葉が必要ないことなんです。みんな、「食べるため」に何かをしているわけだから、主語は必要ない。だから言葉が喋れなくても、気持ちがいつのまにか通じるんです。
 通訳もあまりつけないようにしているんです。本当に大切な話をするときだけ通訳をつけますが、あとはつけないようにしています。最初はそれに誰もが戸惑うけれど、だんだん馴れてくると全く大丈夫になるんです。
 到着してから初日と2日目は目が点になるようなことばかりなんですよね。何をどうしたらいいのか、さっぱりわからない。自分の家に、もし外人が来て通訳もなにもなかったら戸惑うと思うんです。招いた方も招かれた方もどちらも困りますよね。けれど、何かのきっかけに、ふとしたことで一緒にいることの共通項ができてくるんですよ。それをまずは最初の糸口にして、どんどんどんどん関係を交差させていくんです。そういう姿が僕は非常に面白いと思うんです。
 でも、それは都市ではできない経験なんです。都市っていうのは無駄がありすぎる。テレビはその最たるものですよね。無駄の頂点にあるようなもので、これが無くたって人間は死にはしない。都会っていうのは無駄が仕事になっていたりする。でも自分もそういう生き方しかできなかったりする。不便なところに行くと、とてつもなく気持ちいい思いをするけれど、そこにずっと住めと言われたら自信がないですね。やっぱり都会のほうが住み心地はいいわけで、不便と言われるようなところに、時々行っているからいいのかもしれないんですよね。勝手だけどね。
 だから僕は、彼らに「そのままの不便な生活をずっとしてほしい」なんて、そういうことは言わないんです。やっぱり彼らだって、もっと便利な生活をしたいわけだし、それがよくわかるから。ただ、僕らにはないような「人間らしさ」を持っている人たちだから、その場所に行くとこちらは気持ちがよくなってしまうんですよね』

 現地に同行するのは、ディレクター、カメラマン、音声の方。撮影にあたって、準備に余念がない。都市に住んでいると、大抵の所は便利さへの追求ばかりだが、保坂さんの行く先々は遙かにそれとはほど遠く、人間の生きる術を根本から学ぶような土地なのだ。だからこそ、スタッフもレポーターと同様に貴重な体験ができる。
 『モンゴルのカザフ族のところで鷹狩りをするとき、馬で山に登るんです。車では絶対に行けないところなんです。その撮影にあたって、カメラマンが馬に乗れなければ撮影できない。
 それで、1週間、僕らより先にカメラマンだけを現地に行かせて、馬に乗る練習をしてもらったんです。1週間後に僕らが現地に着くと、カメラマンは、レポーターの気持ちがすごくよくわかったと言ってました。
 でもね、カメラマンに体験してもらったことで、良い絵を撮ってほしいと僕は思わないんです。むしろ逆なんですよ。カメラマンがレポーターの気持ちをわかってしまうと、そのシーンを先回りして待ってしまうことになる。でもね、僕はそれではつまらないと思うんです。カメラマンも一緒になってレポーターと体験していくことで、よりリアルになれる。カメラが慌てたり遅れたりするほうが、自然な気がするんです。つまり、全てのことがドキュメンタリーであって、驚いたり発見したりの連続で、始めて会う出会いなんですよね。
 僕が担当するときのウルルンで行くような、少し暮らしの不自由なところって好きなんですよ。そういうところでは、大人もこどもと同じように「楽しむ」という気持ちを持っているし、お金を使わなくても十分に楽しんでいる。僕らもこどものような気持ちになれるんです。撮影が終わってみんなで酒を飲んでいても、他愛もないことを話しているだけでそういうところでは楽しいんですよ。人間の芯の部分だけで話ができるから楽しいんだろうなあ。
 年をとるにつれて、心に垢が着いてきてしまう感じというのかな。都会で生きていけたとしても、その分、芯の部分が侵食されてしまうような、錆び付いてくるような。そういうことを感じないでいられるのが、僕がウルルンで行くところなんです』


 保坂さんは1951年生まれである。東京の荻窪に生まれ育ったが、戦後まもなく、まだ日本全体の暮らしぶりが豊かとは言えない時代であった。
 『僕が幼稚園のとき、進駐軍の兵隊と日本人の奥さんの間にできたハーフの子が近所に住んでいて、仲良くなったので、その子の家に遊びに行くようになったんです。その家は僕にとって「憧れの家」だったんですよ。あの頃、肉を食べるのは月に2〜3度っていう時代だったんです。ご飯もお腹一杯食べれなくてね。ところが、その子の家に遊びに行くと、肉はお腹一杯食べられるし、部屋の中はセントラルヒーティング。おもちゃも見たことのないものばかり。僕はそういう世界があるなんて信じられなかったんです。
 立川基地にもよく遊びに連れていってもらったんですけれど、そこがまた信じられなくて。マクドナルドもない時代なのに、基地に行くとコーラやハンバーガーがあるんです。「なんていう飲み物や食べ物なんだろう?!」って、見る物の全てがカルチャーショックだったんですよ。
 それで、ある日僕は、「これからアメリカ人になる!」って決めたんです。こどもの僕にしてみれば、アメリカ人になれるものだと思ったんです。アメリカ人になりさえすれば、こんなに良い暮らしができるって。何日か経って、自分の産毛を見たら、光に当たっていたんで金髪に見えたんですよ。(僕はだんだんアメリカ人になってきたんだ!)って喜んでいたんです。
 ところが、小学校2年のとき、仲良しだったハーフの子が引っ越してしまったんです。引っ越してからクリスマスパーティに呼ばれて遊びに行ったんだけど、周りの人は知らない人ばかりだし、その子は僕の知らない子達と仲良く遊んでいて、いたたまれないような気持ちになっちゃったんです。それで、なんだか急に裏切られたような気持ちになっちゃってね。
 それからはアメリカが大嫌いになってしまったんですよ。少し大きくなって、歴史とかがわかるようになると、余計にアメリカが悪い国のように思えてきてしまったんです。日本に原爆を落とすなんてとんでもない!って。
 だから今でもウルルンで、僕はアメリカに行かないんですよ。海外に行っても、英語をほとんど喋らないんですよ。こどもの頃よりも、アメリカから離れていこうとしてますよ』

 思い込んだら、とことん思い抜く保坂少年。ずっと夢に描いて、その実現のために並ではない努力をしていたのに、あることをきっかけに思わぬ方向に進んでいった。
 『こどもの頃から画家になることが夢で、芸大を目指して絵しか描かなかったんです。僕は高校時代まで、絵を描くことしかしらなかったんです。ガールフレンドもいなかったし、今の高校生のように繁華街で遊ぶっていうことも全くなかったんです。ただ、絵を描くことだけで毎日が過ぎていました。
 授業が終わって、美術部で絵を描いて、それから画家の卵が集まる研究室に通って夜の9時までデッサンをして、それで家に帰る。こういうことを、高校時代の3年間、続けていたんですよ。
 遊びっていうのを一切していないんです。休日は研究室も休みだから、屋外で写生をする。1日でも絵を描くことを休むと、3日遅れると言われていたんです。とにかく、技術だけを勉強しました。でも、絵を描くというのはそういうものじゃないんですよね。もっと人の心が見えたり、表面じゃなく奥のものを見なければいけない。だけど、表面の視覚的なものでしか、絵を見ていなかったんです。
 それで先生から、「普通の大学に行ってもっといろいろなことを見なさい」って言われてしまったんです。それまで目標は芸大一筋でしかなかったんです。勉強もしたいとは思わなかった。だけど結局、先生に言われたように、絵とは無関係の大学の國學院史学科に入学したんです。
 大学入学初日のオリエンテーションで、川口っていうヤツと飯を食いに行こうと講堂を抜け出した瞬間に、先輩につかまったんです。川口は空手部に、何故か僕は、応援団の上級生につかまったんですよ。
 「君、応援団に入らない?」って優しく言われたんですが、僕は応援団っていうのがどういうものか全く知らなくて、(変な格好の人だなあ・・・)と思ったんですよ。でもすごく優しい言い方なんで、(いい人なんだなあ)って思ったんです。だけど僕は、美術研究部に入ろうと思っていたから断ろうとしたんです。ところが、壁のほうに連れて行かれて、先輩の形相がだんだん恐くなってきて、そのまま団室に連れて行かれたんです。そうしたらつかまえられた新入生がたくさんいたんですよ。上級生はみんな柄の悪いヤツばかりで、とにかくすごく恐くてね。体験入団にサインをするように言われて、僕はそこに長くいるのがイヤだったんで、すぐにサインをしたんです。1週間くらい体験すれば解放してくれるっていう約束だったから。
 それでその次の日から応援団になったんです。挨拶の仕方から始まって、腹の底から声を出す。毎日毎日、目から鱗でね。それまでの僕というのは、髪の毛は七三分け、どこから見てもおとなしいお坊ちゃまだったんですよ。つまんなそうな顔していて、男としての魅力のない学生だったと思いますよ。
 でも、その頃は、絵筆をまだ毎日持っていた時期だったんで、持てない日が続くことに非常に焦りを感じていたんです。ところが、全く持たないようになってしまったんです。結局、応援団に入団した日から30年くらい、一度も絵筆を持っていないんですよ。長いこと1日も休まずに描いていましたからね。1日休むと3日遅れるということを聞いていたから、自分の能力が落ちているのを見るのが恐くて一切描けなくなってしまったんです』

 徹底して絵筆を持たなかった。そして応援団にひたすらのめり込んでいった保坂さんは、応援団長になり、いつしか全日本学生応援団連盟委員長にもなっていた。
 『応援団っていうのは、殴られるのが当たり前のようなところだったんですよ。それまでは親父に殴られたこともあまりなかったんですけどね。
 でも、応援団のヤツらっていうのは心が熱くて、顔は鬼みたいなのに心のいいヤツばかりなんです。人間的にいい先輩がたくさんいたんで、その人たちに着いていけば絶対に大丈夫という感じでしたね。すごく楽しかったですよ。あの4年間は僕の人生の中ですごく楽しかったときかもしれないですね。
 自分が持っているものが何もないから、吸収するのが早かったんでしょうね、きっと。それまでは、絵しかなかったですからね。その絵の道から外れてしまったから、全く何もなくなってしまったんです。
 友達とのつきあい方も変わったんじゃないかなあ。絵を描いていたとき、美術部に所属していたときは、周りにいるヤツらはみんなライバルでしかなかったんです。悲しいことにそういう風にしか人を見れなかった。ところが、応援団に入ったら、同級生のうちのたったひとりが先輩に挨拶しなかっただけで、全員が殴られるんです。一日に2回くらいそんなことで怒られるんです。野球の試合が負けたときは、応援が悪いからと言って殴られましたからね。そんな風に連帯責任にさせられると、同級生同士の団結力が俄然強くなってきてね。そうなるとね、こんなヤツと友達になれないよなあ・・・っていうヤツとも友達になれちゃうんですよ。面倒見のいい先輩に世話になると、自然に自分も後輩にそうなっていきますから。とにかく、人間関係の勉強をしたように思うんです。そのときのことが、僕にとってはプラスでしたね』
 保坂さんの最後の応援団としての任務の日、お母さんが景気づけにウイスキーを持たせた。そのウイスキーの1杯が応援団を活気づけ、先に書いたとおり、山本寛斉の目に留まったのだ。
 お母さんからのウイスキーと、オリエンテーションを一緒に抜け出した川口君がいなかったら、今の人生はなかったと保坂さんはいう。


 『自分がテレビの番組を作っていてこんなことを言うのは不遜かもしれませんが、テレビを観ていて感動するのはやばいよって言いたいんです。
 以前、あらゆる国の紹介をする番組をやっているときにそう思ったんですよ。その番組は学校からもよく電話があって、教材として使いたいって言われたんです。でもね、テレビは疑似体験なだけなんです。本来は自分で体験しなければいけないのに、テレビを観て甘んじているところがあると思うんですよ。
 先日行ったキルギスの人達は馬で数時間かけていろいろなところに行くんですよ。きれいな場所がたくさんあるんです。キルギスの人はどう思っているのか聞くと、「きれいだ!」と答えるんです。現地に住んでいる人でも、感激するためにその場所に行くわけでしょ。そうやって自分で歩いてみて体験することが大切なんですよね。でも最近、人間って楽になることや便利になることばかり追求していると思うんです。人間以外の生き物はそうではないんじゃないかな。進化が速すぎて駄目になっているのは人間だと思うんです。どんどん自分の首を締めていると思う。
 この間、カメラマンと話していたんだけど、今まで産業革命とか社会主義革命のような様々な革命があったけれど、それは人間が地球で楽に生きられるための革命に過ぎなかった。だけど、これからは意識革命のほうが重要なんじゃないかと思うんです。便利であることが、果たして本当に人間にとって大切なのかという。そういう意識の革命をしない限り、人間はどんどん頭でっかちになるだけだと思うんです。
 今はただ楽な方に進もうとしている。だけれど、楽じゃなくても面白いんだという意識転換をすることのほうが大切なんじゃないかなって。進歩することで大切なことがなくなっていますよね。
 僕がウルルンで行くところは、どんなに不便でも生きていくことを心から楽しんでいる。それは本当に羨ましいなあと思うんですよ。どうしてウルルンを作っているかというと、こんなに楽しいことがあるんだよ、この土地の人たちは本当の意味で楽しんでいるんだよ、幸せに生きているんだよ、ということを伝えたいし、みんなに啓蒙したいわけではなくて、感じてほしいだけなんです。
 自然保護とか環境保全とかナンセンスだと思うんですよ。地球は人間を主体に考えているからおかしくなるんで、地球に意識があったとしたら、(あれだけはいなくなってくれ)と思われているのは人間だと思うんです。地動説みたいなもんだよね。人間は自然をコントロールしようとするでしょう。でもそれはとても無理なことだよね。人間が作った地球の環境で滅びていくものを守ろうとするということが、とてつもなく矛盾している。それは、山の奥深くで伝統的な生活をしている人たちに「あなた方はこのままでいてください」という風に押しつけているようなものなんですよ。その人たちだって、もっと便利になりたいのかもしれない。都市を中心にした考えだと、そういう傲慢な考えになってしまうんですよね。都市の人間がセーブすることをしないといけないのであって、山にすむ人たちをコントロールしようとしていることが本当のエゴイズムだと思うんです。力の強い人たちが中心になって、自分たち中心の環境を作ろうとしているでしょ。みんなが豊かになってほしいなんて、バカなことを言っているなあと思いますよ。都会の人間の生活水準を下げて、他と合わせるようにすればいいんですよね。同じように他を引き上げようとしているところが、ナンセンスだと思いますよ』


 心の容量が深いから、保坂さんの心の中では足が着けなくて、バタ足みたいな心許ない感覚になって、不安になるから、恐れる人もいるのかもしれない。恐れてしまうのは、相手の持ち札が何かということを常に知りたがる「便利な世界の大人」だからなのかもしれない。
 こどものようなピュアな感覚で、まず目の前にあるものに対峙することで緊張関係を持つ。それを、言葉よりも、心の襞で、底のところで揺さぶり触れ合おうとする。それが保坂さん流の「世界ウルルン滞在記」なのかな・・・と、おぼろげながら感じたのである。
 簡単に、無責任に言いたくないけれど、それでも、「便利な世界の大人」よりも「不便な世界のこども」のほうが、何百倍も、幸せの一葉を宝物にできるような気がしてならなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 『東京というか、都市の友達っていうのは、相手がどう考えているのか牽制し合ってしまうところがあると思うんだよね。ところがね、グリーンランドみたいなところに行くとね、そういうことを気にしなくていいんだよなあ。もっとね、普通に自分を出せるの。なんでなのかなあ。
 ひとつ思うのはね、言葉があるから牽制し合っちゃうんじゃないかあなって思うんだよね。言葉っていうのは、相手を誤解するような恐ろしいところがたくさんあるからね』 
                   (インタビュアー 三上敦子)2000.12
                          

 
                         

Edited by Atsuko Mikami