内藤壽七郎先生

 田園調布の流酒な住宅をながめながら歩く私は、とても緊張していた。これから、昭和6年入局の内藤寿七郎先生にお目にかかる。内藤先生は東大小児科百周年記念式典の時に、とても遠くから拝見したことはあったが、今日お宅に伺うことになるとは夢にも思わなかった。先生に教えていただいたとおり歩いて行くと、れんが造りの立派なお宅で、更に緊張してしまった。「こんにちは。」はじめてお目にかかる内藤先生は、やわらかなアイポリー色のカーディガンをはおっていらして「遠いところをよくいらっしゃいました。」そう言って、とてもとても優しい笑みで迎えてくださった。あんなに緊張していたのが嘘のようにほぐれてしまった。

昭和12年の暮れ、医局長の内藤先生は栗山教授のすすめで、近く開設の「愛育病院」という育児の専門病院に勤務する、ことになった。この愛育病院は、今上天皇がお生まれになられたのを昭和天皇が大変に喜ばれて、生誕記念として作られた病院である。このころの日本は乳児死亡率がとても高く、内藤先生自身も栄養の事などあまりわからなかったので、勉強の毎日だったそうだ。第二次世界大戦が始まり、牛乳がぱったりとなくなってしまった時、玄米から作った玄米湯を手に入れ、乳粉(母乳のない時に、米の粉を溶かして乳児に与えた物)を作りミルクの代用として与え、タンパク質を補うためにひえの粉を加えたり、ピタミンCは栄養士さん達が、食べることのできる雑草(はこべなど)を摘んで来て人工栄養として与えた。それだけではピタミンCは補えなかった。栄養の事を真剣に考えていた内藤先生は、柿の葉にピタミンCが多く含まれていることに気がついた。自ら葉を摘んで来て煎じたあと、玄米粉・ひえの粉・柿の葉を煎じた汁をよく混ぜ合わせ、半年間程、入院中の子供達の栄養にしたところ、おなかをこわすことも少なくなりとてもよく子供達が育っていった。戦後、進駐軍の看護婦さんに「ミルクを与えないのに子供達が育ったのですか?」と、とてもぴっくりされたそうだ。その後、内藤先生は健康相談の仕事もする事になった。手探り状態で迷うこともあったが、母親達が必死になって子供を育てる姿に吸い込まれていき、育児に心から輿味を持ち始めたそうだ、。

“内藤先生の3つのステキなお話”

 1。子供の心がわかるようになった出来事
 『2歳1ケ月の男の子で、牛乳ばかり飲んでいてアトピーが大変強くて、なんとか牛乳をやめさせなけれぱならない患者さんでした。母親がやめさせようとしても全くだめだったんですね、、とにかく、もうやんちゃなお子さんで診察しようとするとギャーツと叫ぶんです。私はどうにかしなければならないと考えて、真剣にその子の前でひざまづいたんです。子供の手を握って「牛乳を我慢してくれない?」とやわらか一く言いました。でも、プイッ!と横を向いてしまうんです。ですから今度はそちらの方にごそごそとひざで歩いて行って「ねえ、坊や。我慢できるよね。我慢してくれるよね。」と言ったんです。今度は180度反対を向くので、しつこく私も移動して行って「今日からやめるよね。やめてくれるよね」と頼みました。でもその子は下を向いたままでしたね。ですから2週間後、また来るように言ったんです。2週間後、顔を見ると湿疹が殆どきれいになっていて「わあ一、良くなった!」とぴっくりしたんです。お母さんが「うちの子、変なんです。このあいだ病院から帰ってから1度も冷蔵庫をあけないんです。お友達のおうちで牛乳を出されても、絶対手を出さなかったんですよ。」それを聞いて私は、ちゃんと言うことを守ってくれたその子に対して、ありがたいな一と思ったんですよね。
 一生懸命こちらが無心で子供の心に頼んで、目を見つめながら言うとわかってくれるんだな一とぴっくりしました。まじめに訴えて、真から信頼を込めてやさしく全身全霊で訴えると子供がそれを理解し、記憶し、セルフコントロールするということを、私は教えてもらったわけです、、それから幼児が来ると楽しくて楽しくてね。やっと伝わったようです。子供が検診でも私の前にたくさん並ぶようになってくれたのも40すぎですからね。40歳過ぎて、やっと小児科医の顔になれたのかな一と思いましてね。』
 2。大人が子供に接するときのポイント
 『赤ちゃんが「イヤ」と言う自我がでてきてから性格は作られるんです。その時に「我慢しなさい。」と言うのではなく、その子の個性と思ってまず理解してあげる。人は本当はそれぞれ、絵画でも、音楽でも、文学でも才能の芽を持っているんです。それを伸ばしてあげようと思ったら、命令形・禁止形は使わずに自発的にできるようになる言葉を選んであげることです。型にはめようとした育て方では、せっかくの才能をこわしてしまうんですね。両親が子供に与えた神経細胞が充分に伸ぴていって、そうして子供が成長していくのが育児なんですよ。昔は子供に病気をさせない、栄養失調にさせないというのが育児の主でしたけれど、今の時代はそれから先に進んで、両親が子供達の心の部分をどう育てるかなんです。新生児の時は無限の可能性があるのに、20歳になるとそれが有限になっているのはどうしてなんでしょうかね。その子を認めてあげて、まじめに訴えることです。まず私達日本人からはじめて、アジアの人々に伝える。そして世界中の人に伝われぱ戦争なんて考えなくなると思いますね。
 いつも子供に信頼を込めて接することが、大切なんですよね。』
 3。若い先生方へのメッセージ『先生方はそれぞれ勉強されていて、知識を沢山持たれていますから……。そうですね……、肝臓でも、腎臓でも、心臓でも、くわしく調べるのはもちろんですが、その最後は、子供を全体像としてとらえていただくのが子供の幸せじゃないかと思いますね、。ひとりの人間として接するということですね。子供達が真から喜んでということを配慮するのは、すごくいいことです。そうすることで、子供はもっと、もっとこちらを信頼してきますからね。我々小児科医にしかできない子供の身体を診るだけでなく、心も見通して、それを理解してあげて子供が成長していくという事がいちぱん大切なんです。
 それから母親も迷っていますから、それを叱らずにひやかしたり冷たい目で見ないで、やっぱりこう指導したり上手に教え導いてあげていただきたい。それが子供の幸せにつながるんですから。生意気な母親が来たなんて思わずに接して下さい。トラプルがある子に対して一生懸命こちら側が努力すると、それをわかって一生懸命母親も努力してくれるんですよね。子供の本当の「守り本尊」なんですね、小児科医は。
 年をとるとだんだん子供にかえっていくので、もっともっと子供の気持ちがわかるようになって、一生診てあげられる科であるかもしれません。』
 お父様は軍医。7人兄弟の末っ子で、日露戦争の少し後にお生まれになった内藤先生。小さい頃はとても身体が弱くて明日をもしれなかったという。
 今、目の前の先生は、背筋がピンとして、じ一っとこちらの目を見てお話してくださっている。
 きっと、内藤先生の奥深いやわらかな微笑みはたくさんの経験の結晶だろう。
 おもてに出ると、薄紅色の夕焼け空が、とてもきれいだった。(1991.11.5 インタビュアー三上敦子)
 
                         

Edited by Atsuko Mikami