作家 瀬戸内寂聴さん

 向日葵の花が咲いたようだった。ぱあっと大輪の花が咲いたような笑顔が眩しかった。とても華奢で小柄な瀬戸内さんなのに、圧倒的な存在感がある。瀬戸内さんは僧侶と作家という2つの職業を、いつしかひとすじの道に重ねてきた。
 瀬戸内さんの作品である「いずこより」を読むと、自分自身を誤魔化さず正直に生きることを全うするための勇気と、心の奥底から絞り出すような力を自ら沸き起こすことの凄みで、胸が張り裂けそうになってくる。自分に向けた誤魔化しが最初は小さなシミのようでも、少しずつ波紋のように肉体や魂に広がっていったら、己というのはいったいどうなっていくのだろう。この世に生まれてきたのは、自分を生きること・・・。「いずこより」には、何事からも逃げずにひたすらに信じた道を生きていくことが表現されている。
 「いずこより」は「瀬戸内晴美」としての作品である。45歳のとき、著者の生まれてからそれまでを575ページという大作に表した。自分を誤魔化さないで生きることの45年間が克明に描かれているから、読後は息もつけないほど苦しくなる。けれどもしばらくすると、なんとも言えない爽快感に包まれる。どんなに高い山でも地面を踏みしめて前に進む、そういうひとりの人間の潔い生き方が透徹されているからではないだろうか。
 その作品の6年後に瀬戸内さんは奥州平泉中尊寺で受戒し、「瀬戸内寂聴」となった。それまでもその後も、瀬戸内さんはひとすじの道を歩み続けているのだろう。
 このインタビューでは、こどもの頃の瀬戸内さんに焦点を絞って語っていただいた。

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 『私は、1922年5月15日に徳島市に生まれました。父は指物職人をしていて、一代で神仏具商を作りました。私が生まれたときには父の弟子が10人くらいいまして、木の神仏具を作って売っている家でした。
 朝から晩まで職人として働いている父がいて、母が姉と私を育てながら弟子の面倒を見ていました。そういう環境で育ったものですから、両親からちやほやされるようなことはなかったのです。姉は祖母に可愛がられて二年間の幼稚園の行き帰りを面倒みてもらったりしたらしいのですが、私が2歳のときに祖母が亡くなったので私はほとんど放ったらかしにされていました。
 幼稚園に私も二年通いたかったのに、親から「送り迎えの人手がないから来年からにしましょう」と言われて、放ったらかされているような感じで少し悔しい思いをしていました。5月頃、こどもの足で40分くらいかかるようなところにある幼稚園にひとりで歩いて行きまして、「入園しにきました!」と言いました。これには、幼稚園の先生も母もびっくり仰天してしまって・・・。入園許可をすぐにいただけたのです。
 姉が同じ構内にある小学校にいたものですから、いつも姉にくっついていて、幼稚園が終わると、姉の教室に行っていました。姉の担任の先生から自分の机をいただいて最前列におとなしく座っていました』

 物怖じすることのない瀬戸内さんは、小学校に上がると活発さにますます磨きがかかっていた。走るのも速くてダンスを踊るのも得意。運動も勉強も人並み以上の能力だったから、自然とリーダーとして同級生を引っ張っていく場面が増えていった。
 『「鼻たれマッちゃん」と呼ばれているみんなより知能の低い子がクラスにいて、年は3つか4つ上で身体がとても大きかったのです。先生がマッちゃんと私の席を並ばせて、「面倒見てあげてね」と言うのです。運動会でもマッちゃんと組まされるのですが、マッちゃんは大きくてなかなか動かないのです。だから私が一生懸命マッちゃんを動かしてダンスをするのですが、見物の人たちが可笑しがって笑っていました。私は笑われる理由がないから憤慨してしまいました。マッちゃんの面倒を見るのも、「貴方だからできる」と先生から言われると、しなければいけないんだなあと思いましてね、そういうことが嫌ではなかったのです。
 もうひとり、てんかんの子がいて、発作を起こすと私が家まで連れて帰る役が廻ってきました。なにかそんな風に、責任を負わせられるようなことが多かったように思います。今でも人の面倒見がいいのは、こどものときからの癖なのかもしれないですね。鼻たれマッちゃんにも、てんかんの子にも、情が湧いてしまって、だから何か面倒を見たかったのです。
 成績はと言うと、甲乙丙丁で評価される時代で、私はどの教科も甲でしたから、内心とても得意になっていました。それなのに家では、得意気に通信簿を両親に見せても見向きもしてくれなかったのです。
 「全甲だから、見て」と言っても、「全甲をとれないような馬鹿な子は生んでいない」と言って、親は当たり前の顔をしています』

 お父さんは香川県の讃岐、お母さんは徳島市の南の村の、穏やかな土地に生まれ育った。 
 人よりも抜きんでて何でもできてしまった瀬戸内さんは、このお母さんからいつも必ず「増長してはいけない」と言われていたという。自惚れることなく謙虚であり続けてほしいという思いを、そのひと言に示されていたのだろう。
 それでも、こどものことを守らなければいけないここぞという本質的な場面では、ご両親は真っ正面から何事にも向かっていってくれたのだ。
 『担任の先生が産休になって、代理の先生が担任になった時期があったのです。その先生が私の書いた作文を読んで、「どこからとってきたの?」と言われました。誰かが雑誌に書いたものを私が真似したと思ったのでしょうね。「私が書いたのです」と言っても、せせら笑っていて信じてくれないのです。その日は悔しくて悔しくて、家まで泣いて帰りました。
 母親に泣いている理由を聞かれたので、「私の書いたものを、誰かのを盗んだって先生に言われた」って言いましたら、母親が着けていたかっぽう着をかなぐり捨てて私の手をぐいっと引っ張って、学校まで一目散に走って行ったのです。教員室に飛び込んでいって、先生にものすごい剣幕で「うちの子は生まれつき頭がいいんです!だから人のものなんか盗まなくてもできるんです!どうして先生は、はじめから疑ってかかるんですか?!」って、教室中に響き渡る声で怒ってくれたのです。
 そのときはじめて私は、(お母さんってなかなか偉いんだなあ)って思いました。自分のことを心の底から思ってくれているのが、そのことでよくわかりました。
 母は高等小学校、父は小さい頃に家が没落して小学校4年しか出ていません。母は進歩的な人で、どこで覚えたのかサンガー夫人のバースコントロールを覚えて、「貧乏な家ではこどもはたくさん生んじゃいけない。少なく生んで十分な教育をしなさい」と言って自分も実行しました。
 父は、こどもに対して放任主義で、「アホは生んでいない。成績が良いのは当たり前だ」というような人で一切干渉しない人でした。
 私が学芸会のスターでしたから、劇にはいつも出演していたんです。母はいつも観に来るのに、父は全く来ないのです。
 母が「お父さんもたまには観に行ってやってください」と頼むと、父は、「あんなにこまい(小さい)子たちが、教えられたダンスや劇をしている姿はとてもいじらしくて涙が出て観られない」って・・・。
 そういう父や母は、こどもに教育をつけることを嫌がりませんでした。姉に家を継いでもらいたいという考えが父にはありましたので、姉は女学校だけでしたけれど。あの時代に私は女子大に行かせてもらえて、今になってみればとてもありがたかったと思います』

 職人の家は、働かなければ食べていくことができない。こどもの頃から働くのが当たり前と思って瀬戸内さんは育ってきた。けれどもこども心に、自分の家庭よりもっと貧しい家の子は平等に教育を受けることができないという事実に、言いようのない憤りを感じていた。
 『クラスの中で半分くらいだけ女学校を受験する子がいて、あとの半分の人たちはほとんど家が貧しくて行けないのです。その人たちは放課後に行われる受験勉強のための授業に出られないのです。
 クラスの中でとても仲のいい子が2人いたのですが、2人とも非常に勉強ができるのに家が貧しいために受験組に入れませんでした。世の中の不公平というのをそのときにはじめて感じました。あれだけ優秀な人たちが上の学校に行けなくて、そんなにできない子が受験できるということが悲しかったのです。
 貧しい家の子以外は、当たり前のように学校に残って勉強を教えてもらえる。貧しい家の子だって本当は残って勉強をしたいのにできない。今はもう、猫も杓子も大学に行きますよね。それが本当に良いのか悪いのかわかりませんよね。
 女学校から更に上の学校に進む人はそのころは少なかったですから、1学年で200人くらい生徒がいたらその中から4〜5人だけでした。東京へは2人、後は大阪に進学しました。日本女子大にひとり、私は東京女子大に入りました。女の子は女学校で十分。勉強なんかしたら嫁のもらい手がないという時代でしたから、「あんな器量の悪い子を上の学校なんかにやってどうするんだ」と、親類から母が非難されたらしいのです』

 学ぶことを強要されたり、ましてや道を作られたわけではない。進みたい道に小さいけれども確かな灯りをともしてくれるご両親の姿勢は、より大きな安心感と真っ直ぐ前を見ていける自信を与えたのではないだろうか。
 そして、生き生きとした土壌に実りのある種を蒔いてくれたのはある先生との出会いだった。
 『小学校3年の頃、私に特別な教育をしてくれた広田しげ先生との出会いは大きかったと思います。私が授業をつまらなそうにしていたのでしょうね。「つまらないの?」って聞いてくださったのです。授業では知っていることばかりしか教えてもらえなかったので、退屈でつまらなかったのです。
 広田先生と居残りをして、1対1で白秋や藤村やアンデルセンを読んだりしました。それは非常にありがたかったことです。どういう本が良いかということを分かるようになりましたから。その頃から小説家になりたいと思うようになっていました。
 「無記名で将来何になりたいか書きなさい」と言われました。「髪結いさん」、「お嫁さん」、「学校の先生」、という答えがとても多かったのです。私は「小説家になりたい」と書きました。名前を書いていないから誰が書いたかもわからないはずなのに「小説家になりたい」と先生が読み上げたら、みんなが一斉に私を見るのです。そんなことを書くのは私だけだと、みんなから思われていたのでしょうね。
 5つ上の姉は無口でおとなしくて文学少女でした。だから、家では本を買うことだけは自由に許してくれました。両親がインテリではなかったので家には大した本の数はなかったのですが、姉の担任の先生のお宅に「世界文学全集」や「日本文学全集」が揃っていて、私も先生のところでお借りして読ませてもらっていたのです。
 同じクラスの子の家に行くと児童文学全集がありましたから、それを読ませてもらって、あとは町の図書館を利用していました。
 幼稚園のころから姉の読む物を一緒になって読んでいましたから、知らず知らずにませますよね。少女クラブを読んでいたら私もという風に、なんでも姉と一緒に読んでいたのです。そのことはとても得していたんじゃないかしら。
 世界文学全集を読んでいても、理解できていたかどうか本当のところはわかりません。だけど6年生くらいまでには世界文学全集はひと通り読んでいました。
 覚えているのは、トルストイの「復活」で、カチューシャが男の部屋にしのんでゆく時、その後、たしか氷の割れる音がするのです。そういう感覚的な一場面を覚えています。あらすじをしっかり覚えているわけではないのです。
 私の読み方は、手当たり次第の乱読でした。でもそうしているうちに、こどもは自分で本を選べるようになると思うのです。面白くないものは読まなくて、自分にとって面白いものだけを選べるようになると思います。
 今のこどもたちも、もっと本を読んだほうがいいのではないでしょうか。小学生の教育審議法というのを、今、検討されていますが、教科書を改めるのなんてとんでもないことだと思います。「ゆとりの教育」というのは、以ての外だと私は思うのです。小さいときでないと駄目なのです。鉄は熱いうちに打てと言う言葉があります。こどものうちに鍛えておかなければ。明治の人たち、鴎外などは4、5歳で論語の素読をやっていたそうですが、意味が分かる分からないは別にしても読んでいたらしいのです。それで神経衰弱になってしまうなんてありませんよね。ゆとりなんていらないと思うのです。こどものときに覚えた事って、ずっと年をとっても覚えていますから』
 
 本を読むことは、好奇心いっぱいの少女だった瀬戸内さんを、遠くて未知な世界へ誘っていく。町にやってくるサーカスも活動写真も、同じように刺激的なものだった。
 『近所に広場があって、そこにサーカスがやって来ました。テントが張られると嬉しかったのです。毎日、観に行っていました。通い詰めていたから、いつのまにかただで観せてくれるようになったのです。あのころは、こどもがサーカスを観に行くとさらわれて身体を軟らかくするためにお酢を飲まされて何処かに連れて行かれると言われていました。行ったことがわかったら叱られますから、親には内緒で行っていました。でも、私はサーカスが大好きでしたから、連れて行かれてもいいという気持ちで行っていたのかもしれないです。
 その頃は活動写真と呼ばれていた映画も、学生は行ってはいけなかったのです。映画なんて行ったら不良と言われた時代でした。学校の先生たちが映画館の入り口で見張っていましたから。それでも、姉が映画好きだったから私はいつもくっついて行きました。帽子を深くかぶってマスクをして、変装して行ったのです。観てきたものを、家に帰って近所の子たちを集めて真似していたのです。
 こどもの頃から、どんなことでも、表現することが好きだったのです。その中でも「劇」は大好きでした』

 表現のひとつでもある、お洒落をすることも大好きだった。そしてそれはやはり、粋でセンスの良いお母さん譲りのものだった。
 『小さいときから私はお洒落でした。母がとてもお洒落な人でしたからね。私たちが小さい頃は貧しかったので母は服も買わなかったのですが、買えるくらいに経済が安定してからはいつも綺麗にしていたのです。
 母は戦時中に空襲で防空壕で亡くなったのですが、その晩は自分で縫ったデシンのふわっとしたドレスを着ていて、逃げ遅れて亡くなったらしいのです。「国防婦人会会長がもんぺを履いていないのはまずいでしょう」と周りからは囁かれていたようです。本当にお洒落な人だったのです。
 徳島にパーマネントが入ってきたころ、町で一番早くかけたのは母だったのです。そのときの言い訳は、「働いているから髪を結う時間がもったいない」ですって。本当はお洒落でかけていましたのにね。
 その当時、こども服というのはあまり売られていなかったので、姉と私の服は母の手製だったのです。編み物が上手でしたから、婦人雑誌の編み物の付録に載っているモデルと同じ服を私に編んでくれました。それを着せてくれるのですが、「モデルが着ているのとお前が着るのでは、どうも何かが違う」って・・・。仕方ないですよね、モデルと比べられてもね。
 それから、帽子を遠足に間に合うように編んでくれると約束していたのですが、母は忙しくて編めなかったのです。私が、「いつも私たちに約束を守らなきゃいけないって言ってるのに、お母さんが約束を守らないとはなにごとですか。明日の朝までに編んでくれるって言ったじゃないの」と、すごく怒ったのです。そうしたらその晩、母は徹夜をして編んでくれました。朝起きたら枕元に緑色のしゃれた毛糸の帽子が置いてあったのです。そのときも、(やっぱりこの人は偉いんじゃないかなあ)と思いました。
 母は愛情深いというよりも、筋を通す人なのです。約束を破るな、嘘をつくなって日頃娘たちに教えているのに、自分で約束を破ってはいけないと思ったのではないかしら。
その帽子の形は今でもはっきりと覚えています。
 こんなこともありました。私が幼稚園くらいのときに父が人の保証をして、その人の借金を背負いこみ、破産してしまって、父の弟子もみんないなくなり、商売ができなくなりました。
 お正月に着る晴れ着まで持って行かれてしまったのです。母が可哀想だと思って、古着を買って来て、着せてくれました。でもそれが古着か新かなんて、私にはわからなかったのです。喜々として友達のところに見せに行きました。姉は私よりも5つ年上だから古着だということがわかるのです、姉は泣いていました。(なんで泣いているのかな?)と、私は思いました。そういうことがありましたね』

 遠くへ遠くへと好奇心が更に広がっていく毎日が、200人の生徒のうち1〜2人しか進まない東京の女子大へと気持を動かす。女学校に貼られていたポスターの中の、東京女子大のキャンパスの美しさに惹かれて受験することを決心した。
 『女子大というと日本女子大と、みんなが思うような時代だったのです。私も女子大がふたつも存在するなんて知らなかったのです。お金持ちのお嬢さんが女子大に行くというと、日本女子大でした。でも、(こんなにきれいな学校があるならこっちに行こう)と思って、東京女子大を受験したのです。
 数学の先生に「あなた、東京女子大を受けるの?」と聞かれて、「はい」と答えたら、「このままではとても受からない。予備校が東京の渋谷にあるからそこに行きなさい」と言われたのです。12月の冬休みに塾に入って1月の女子大の試験を受けるようにしないと、とても無理だと言われました。
 初めて行く東京で、何もわからないまま塾に入りました。そうしたら、全国から来ている人たちが、秀才ぞろいなのです。塾の先生の講義なんて、私にはちんぷんかんぷんで、全然わかりませんでした。英語もわからなければ数学もわからない、もうこれはあかん!と思いました。逃げて帰ろうと思ったのですが、せっかく東京にやって来たのだから挑戦してみようと思ったのです。
 寄宿舎に泊まり込んでいるから、一部屋に5〜6人で生活するのです。日本全国あちらこちらから、優秀な人ばかりいました。私は勉強もできないし、もうどうでもいいやと思っていました。でも、せっかく東京に来たからには試験を受けなければ申し訳ないので、試験だけでも受けて帰ろう、学校を見学しておこうと思ったのです。地図を頼りに行ってみると、冬でしたから震撼としているのです。それでとてもきれいでした。「入れないから、学校を見ておくだけ・・・」、そう思いながらとぼとぼと帰りました。試験を受けても、落ちてると思っていました。そうしたら忘れた頃に通知が来て、受かっていました。通知が届いたときは本当に嬉しかったです』

 瀬戸内さんの学生時代の話はどれもが昨日のことのように新鮮で瑞々しく映る。弾むような明るさと華やぎを感じる。
 『女学校時代は楽しかったです。戦争中だったから楽しくないはずなのですが、生まれたときから戦時中でしたから。非常時っていうのが日常だったから馴れていたのです。
 例えば、女学校の卒業旅行で満州に行きました。私たちが戦争前で最後の時代でした。女子大で関西のお寺周りをしたのも最後でした。クリスマスで七面鳥が出たのも最後でした。勤労作業にも行っていません。私の時代は佳き時代の最後だったのです。英語も勉強できましたし、華やかな女子大時代だったように思います。皆、お洒落もしていました。代返を頼んで学校を抜け出して歌舞伎に行ったりもしていました。寮に住んでいて規則が厳しかったので、時間はちゃんと守らなければいけなかったのですけれどね。
 日本が一番戦争の激しかったときは北京にいました。学徒動員の少し前に学生結婚をして北京に住んだのです。だから幸せなことに空襲の怖さを私は知らないのです。
 北京は美しいところで毎日のように空が青くて、きれいでした。でも向こうで終戦を迎えたので恐ろしかったのです。絶対に殺されると思っていましたから。それまで北京では日本人が本当にやりたい放題にひどいことをしていたのですからね。
 その後の人生は、本当にいろいろなことがありましたね・・・・・・』

 女性が「1個の人間」として生きるのが難しい時代に瀬戸内さんはひとりの人間として正直に生きていた。そしてそれは、ずっと変わらない。
 『女の業なんて書いていません。人間を書いているだけです。人間の持つ矛盾相剋を追求しているだけです』
 「いずこより」の一説にあるこの言葉は、いつまでもいつまでも強く心に残った。

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 『日本は文化を大切にしたほうがいいと思うのです。日本は憲法で武器を捨てたのですから、世界と対等に交わるとすれば、もう、文化しかない。
 それから、若い人に公憤がないのは日本だけではないでしょうか。おかしいですよね。一番正義感がなければいけないときなのに、学生運動が無い国というのは日本だけじゃないかしら。学生の頃というのはいろいろなことに敏感で、最初に血が騒ぐはずなんですけれど。
 心にわだかまりを持っていれば血の巡りが悪くなって病気にもなります。だから心にわだかまりを持たないことが健康の秘訣なのではないでしょうか。自分に信念があれば権力と闘っていい。そういうことをいくつになっても恐れないほうがいいと思います』                        2001.6(インタビュアー  三上敦子)

                          

 
                         

Edited by Atsuko Mikami