ハンセン病原告団事務局長 国本 衛さん

 2001年があと数日で終わろうという穏やかな小春日和の日、ハンセン病訴訟が全面解決となる見通しがようやく開けたというニュースを耳にした。
 国本 衛(くにもと まもる)さん。14歳のときに、ハンセン病を発症し、第一区府県立全生病院(現・国立ハンセン病療養所多磨全生園)に入院し、生涯のほとんどをここで過ごしている。
 周知の通り、ハンセン病の患者さん方は長い間、国の政策により強制的に隔離されてきたのである。強制労働、監禁、断種、堕胎などを強いられ、人として受けるべき最低の権利までも阻まれてきた。隔離を柱としたハンセン病対策は、1907年制定の法律「らい予防ニ関スル件」から始まり、1996年の「らい予防法廃止」まで、なんと90年もの年月に渡り、続けられてしまった。しかし廃止はされても、その後に、国から政策の過ちについて反省を形にして示されることはなかったそうだ。そのために、1998年7月に熊本地方裁判所、1999年3月に東京地方裁判所、同年9月に岡山地方裁判所において、患者側は訴訟を提起したのである。
 国本さんは、その闘いの先頭に立っていた。1999年3月の東京地方裁判所における「らい予防法人権侵害謝罪、国家賠償請求」訴訟では、第一次提訴原告の一人として参加していた。そして、2000年1月15日に「生きて、ふたたび」(毎日新聞社刊)という著書を発行し、隔離されてから55年の歳月、73歳までの軌跡を表現したのである。
 国本さんは在日韓国人である。本名は李 衛(イ ウイ)という。持ち前のバイタリティと飾らない人柄のためか、お話される言葉は穏やかなあたたかさに溢れていて、クスッと笑ってしまうようなウィットにも富んでいた。そしてそれ以上に印象的だったのは、目の奥の底知れぬ力強さだった。
 このインタビューでは、韓国人として、ハンセン病患者として、そうして受けた二重の差別について語っていただいた。

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 大正15年、韓国で生まれた国本さんは、父親の仕事の関係で4歳のときに日本に移り住む。父親は大正時代の中頃に、家族よりも先に日本で生活をしていた。在日朝鮮人大虐殺という憂き目にもあったが、奇跡的に助かり、茨城に逃れたのである。
 『私の記憶は茨城からはじまっているので、韓国のことは全く憶えていないのです。茨城県の土浦で父が土木事業をしていて、たとえば霞ヶ浦の航空隊の飛行場整備の下請けとか、道路工事をしていました。それまで土浦の国道6号線は町の中を通っていたのですが、田んぼの真ん中にバイパスを造ったんです。新道は歩道もあって、コンクリートの電柱も立ちました。当時にしては、素晴らしくハイカラな道路という印象を受けました。ほとんど車も通らない道なのに歩道があるというのは、非常に先見性のある計画だったんでしょうね。
 土浦は田舎の言葉を使わないところだったんです。小さな町なのに皆が標準語を使っていて、後から考えてみると不思議なことでした。あんなに小さな町でどうして標準語を使っていたのだろうなあって・・・。航空隊の町で、阿見という町と土浦を往来する電車が通っていて、土浦には航空隊の将校の住んでいる家がたくさんありました。そういうことから、綺麗な言葉使いが行き渡ったのかも・・・。まあ、関係ないでしょうかね。
 ともかく、土浦にいた頃に、韓国人だからという理由で馬鹿にされたことは不思議となかったんです』

 土浦の町には、当時、小学生が3000人もいた。1学年に8つも9つも学級があり、国本さんはその大人数の中で、いつの間にかクラスのガキ大将になっていた。
 『同じ学年にもうひとりガキ大将Aがいたんです。勢力争いをしていました。私についてくるヤツと、ガキ大将Aについていくヤツと、子どもたちが二つに分かれていたんです。でも、弱い者いじめをすることは決してなかったですね。ガキ大将っていうのは、「遊び」の上でのガキ大将のことなんです。クラスが違うからお互いに意識しあうというか、私のほうは、「あいつには勝てそうもないなあ」と思っていました。自分よりもずっと力がありそうだなあと思っていましたから。
 運動会のときに、ガキ大将Aと私が喧嘩になったんです。そうしたら意外にも、私が勝ってしまった。相手を馬乗りになって叩いたりしたら、「勘弁してくれ」なんて言われてね。それ以来、ガキ大将Aは私に敬意を表してくれて、仲良くなったんです。
 子どもの世界というのは、面白いですね。韓国人の子どもが、日本人の子どもたちの中でガキ大将になるなんていうことは珍しいことだったかもしれません。そういう町で子ども時代の数年を過ごしたということは、後の私にとっても幸せなことだったのかもしれません』

   それから、土浦の隣の小さな村に移ることになった。その村では、土浦では味わったことのない経験をすることになる。
 『村の子どもたちが遠巻きになって、「朝鮮人!朝鮮人!」って私に叫ぶんです。いやぁ、それにはびっくりしました。
 うちの母親はどこでもチマチョゴリで通していましたから、誰の目にも韓国人だとわかります。近所の子どもたちが、「朝鮮の山奥で豚が3匹鳴いていた」って囃し立てるんです。どういう意味なのかわからなかったんですけれど、そうやってこどもたちがはしゃぐから、私たちを軽蔑した意味で言っているんだろうなあということくらいはわかりました。
 私は勉強嫌いだったのですが、なぜか算数だけは得意でした。でも、算数の時間も先生の話は聞かずに、他のことばかり考えていました。模擬試験をやっても、全くやる気がしなくて平気で白紙を提出していました。
 結局、5〜6人だけ、居残りをさせられて追試をするんです。二年生の時ですけれど、放課後に上級生が掃除に来ると、答案用紙を覗き込む。私がどんどん答えを書いていて、しかもそれが正解だから上級生が驚いて、 「この子はこんなにできるのにどうして残されてるの?」
「あ、ホントだ、ホントだ。なんでこんなにできてるのに残ってるんだろう?!」って。そんなことがありました。
 試験のときに何故書かなかったのか、自分でもよく覚えていないんですけれどね。試験中はどうしてなのか遊んでいたんでしょうね』

   このエピソードからしても、国本さんの大物ぶりが伺える。その泰然自若としている余裕が、次に移り住んだ谷田部でも十分に発揮された。
『谷田部は1万人くらいの人口でした。この町も韓国人ということで差別されてしまうところではあったんです。
 当時の谷田部の子どもはみんな、着物を着ていました。私は学生服を着ていました。なぜかというと、土浦では着物を着ている子はいなかったからです。学生服を着て、ランドセルを背負うのが土浦の小学生でした。でも、谷田部では、着物姿に風呂敷を持って学校に行く。それで私も同じ様に風呂敷包みを持って行ったんです。
 私がひとりだけ学生服を着ていたから、他の子どもも親に学生服をねだった。それで私が転校してきて1年も経たないうち、あっという間に生徒全員が学生服姿になっていたんです。
 そんなことがきっかけで、運がいいことに私は谷田部では金持ちの家の子と思われていました。田舎では、金持ちの家の子というだけで皆から単純に尊敬されるんです。いい意味の誤解をしてもらえるんです。
 それともうひとつ得をしていたのは、算数ができたことです。他の勉強はできなくても、算数ができると勉強全部ができると思われるんでしょうね。
 6年になると中学受験がありました。谷田部では中学に進む子どもは2〜3人しかいません。私は算数以外できなかったから受験に失敗して、結局は高等小学校に通いました。それから、農商学校に進みました。
 今になって思えば、ひとつでも自分の得意な分野があったから周りから尊敬されるようになったことが、韓国人として差別を受けずにすんだことかもしれません。でもそれはどんな子どもたちにも言えることなのでしょうね。ひとつの才能を伸ばしておけばものすごく後で助けになるというのでしょうか。昔は、どんな子どもたちも無理矢理勉強をさせるなんていうことなんてほとんどなかったんです。無理矢理じゃないから、その子どもの持って備わった得意なものがどこかで芽生えるときがやってくることがある。
 それでも今になると、真面目に勉強をしておけば良かったなあという後悔はあります。特に国語ができなかったから、ずいぶん後で苦労しました』

 お金持ちの子で算数ができる、国本さんの言うような「いい誤解」を周りの子どもたちにしてもらえたおかげで、韓国人としての差別をそれほど受けずに、学校生活を淡々と過ごしていた。
 それでも、差別については考えざるを得なかった。
 『当時の日本は現在とは違って、朝鮮の歴史を消されてしまうような教育だったと思います。朝鮮人が日本に住めば日本人として育てられていく。朝鮮という国は日本の属国であるという風に教えられていく。なんでそうなったんだろう?という疑問は誰にもある。けれどもそういう教育で、いつの間にか子どもたちも朝鮮人に対して優越感を持ってしまうのです。自分は日本という優秀な民族の子どもだという風に純粋に信じてしまう。
 侍が偉い時代には農民や商人が下に見られる。大名が通ると下の者は道ばたで土下座をする。そういう思想が、日本では長いこと変わらなかったのだと思います。部落民が差別され、やがては朝鮮人が馬鹿にされる。そういう教育の中で、子どもだった私も天皇中心の教育をとことん擦り込まれていったのです。そうすると素直に、自分は天皇のために死ぬことが本望だと思っていく。当時の子どもたちは教わった通りに忠君愛国をたたき込まれて、兵隊に行く。そして戦地で、天皇陛下万歳と言って死んでいったというように報道されたのです。実際にそんなことはなかったのですけれど。学校に行けば、天皇陛下のご真影がある。それに向かって必ず行き帰りに最敬礼する。つまり天皇は生神様だったからです。
 だから小さい頃の私は、朝鮮人ということで、人には言わずとも、拭い去れないような劣等感を持っていました。属国の子どもだと世間から言われていたから、自分は日本人になりきることはできないと思ってしまう。なりきらなければいけない、なりきって天皇のために全てを捧げて自分も死ななければならないと思っていたわけです。
 教育というのは恐ろしいものです』

 1941年、入学したばかりの農商学校の身体検査を受けてから、国本さんの生活は暗転してしまう。大学病院で「らい病」と診断され、父親に連れられて第一区府県立全生病院(現・国立ハンセン病療養所多磨全生園)を訪れる。
 『手が麻痺していて、つねっても痛くない。これがこの病気の特徴なんです。見た目は何でもなさそうなのに、冷たいとか熱いとかがわからない。だから熱いところに触って火傷をしてもわからず、どんどん火傷が深くなっていても気がつかないんです。例えば指に火傷を負ったとしたら、それがどんどん深い傷になっていって、最終的に指を切断しなければならなくなります。私が入所した当時は、手足を切断しなければならない人がたくさんいました。
 その当時の寮舎は、古くて汚くて、とても人が住むような所ではなかったんです。でも不思議なのは、そういう病気になって入院しても、私はあまりクヨクヨしなかったんです。もともと楽天家のところがあったせいなんでしょうか。
 ここ全生園に入園している人たちは最高の時で1500人もいました。一部屋は12畳半で、8人が一緒に生活をするんです。本当に「収容所」です。
 3人くらいの看護婦が何百人もの患者に、消毒もしないで一本の針を回し打ちしていたんです。私は注射で化膿した左ももを、医者の代わりだった看護士にハサミでジョキジョキと切り込まれたこともあります。
 入所してしまうと外出は許されなくて、見つかるとコンクリート塀で囲まれた監禁室に閉じこめられる。反抗や逃避を繰り返すと、草津楽泉園の特別病室という名前の「重監房」に送られてしまうんです。冬の寒い時期は零下18℃にまでなってしまう酷寒で、四重に囲まれたコンクリート塀なんです。重監房が廃止される1947年までに92人が投獄されて、そのうちの22人は獄死し、19人は凍死してしまったという痛ましい実状でした。
 そんな恐ろしいところでも、楽しいこともあったんです。入所してから、私のいた部屋が博打場だったんで、博打にはまりました。それで、なかなか博打から抜け出せなくなっていました。それはもう面白くてねえ。とにかく若かったから、そんなことをすることが格好良いと思っていたんです。隠語で、博打のことを「学校」というんです。その学校で、私は「教頭」って呼ばれていたんです。私より大先輩で、風格があって人望があった人が、「校長」だったんです』

   博打にのめり込んでいた国本さんは(このままではいけない)と、自らを立て直そうと決めた。そして、「詩の会」を自主的に作る。もともと文学への憧憬があった国本さんは、園内に文学の香りを持ち込もうと、同人誌「灯泥(ひどろ)」を率先して発刊したのだった。
 『不思議なことに、人間というのはどんな状況にも慣らされてしまいます。世間と隔離された患者は、簡単にこういうものだと思い込んでしまえる。今日の生活ができることも、「らい予防法」によって助かったからと信じている人ばかりです。「ここにいることが幸せなんだ、らい病になってしまったお前たちはそれが宿命なんだ」という言葉によって管理され続けるのです。国民に病気をまき散らして病気を増やしてしまうから、ここにいることでお前たちの楽園を作ってやろう。その「楽園」という言葉で惑わしながら、患者に強制労働をさせていったんです。皇室のご仁慈によってお前たちはありがたく生かされているんだと言われるわけです。何かあると礼拝堂に集められて、園長のお説教を聞かされ、皇室のお恵みがあったということを患者はいつも聞かされる。それまで入院前も天皇は絶対で、ここに来てからは尚のこと、生きていられるのは天皇のおかげと教えられる。そう思い込まされてしまうんです。
 だから裁判で闘うということは、日本のファシズムとの闘いでもあったのです。そういう意識を持って闘わなければいけないと思っていました。ファシズムの発想から日本で「らい予防法」が生まれて、患者を強制隔離して、醜いものは外国人の目に触れてはならないということと、優秀な日本の民族を作っていくにはハンセン病患者を一人残らず社会とは隔離したところに集めて、社会という枠にはそういう患者を入れてはいけない。強い軍隊を作り、軍隊の中にハンセン病患者を作らない。民族の浄化という発想の中にそのことがあったのです。単なる民族の浄化ではなくて、強力な軍隊を作るというその思想のもとに、ハンセン病患者をあぶり出して強制収容させ、「ここはおまえたちの楽園だ」という。つまりそれは全くの誤魔化しだったのです。
 病状の軽い人は労働をし、病状の重い人は24時間看護される。しかしその看護も、患者同士でやることを義務づけられる。病気の軽い人間は「健康舎」、少し重い人は「不自由舎」、そして本当に重い人は「病棟」、この3つのどれかに収容させられる。健康舎の人間が、不自由舎と病棟の人間を看護するのです。
 健康舎の人間は「付き添い」という名称で、24時間不自由舎の人や病棟の人を看護しなければいけないんです。年に何回かその役の順番が回って来るんです。1回で15日間、働くのですけれど、付き添いの作業賃がいちばん高くもらえてね。当時は付き添いに一回行くと12銭になって、一般作業は10銭だったのです。一般作業というのは、農作業や土木作業のような肉体労働で、とにかくなんでもやります。煙草のゴールデンバットが7〜8銭の頃でした』

 入所している患者さんであるはずなのに、「なぜ労働?」と首を傾げたくなる。何十年もその小さな世界からはみ出ないでいると、それがあたかも正当のように思わされていく。外の世界の人たちを、所内では「壮健」と呼んでいて、患者は皆必要以上に恐れていた。
 『おかしなことですが、患者自身が外に出るのをとても嫌がったんです。後遺症があるから、じろじろ見られると思うと恐くなってしまう。現に私もそうでした。
 ハンセン病患者のことで、徹底的に政府が社会にいかに恐怖心を与えたかという例ですが、戦後まもなく昭和24年くらいの頃、患者同士で結婚して間もない2人が自分の実家に帰省したいという帰省願いを出しました。でも、帰省許可なんて出るわけがない。仕方なく、旦那さんのほうが先に、ヒイラギの垣根を超えたんです。3メートル50センチくらいありました。幅も70センチくらいありました。奥さんが超えるのは大変だけど、勇気を出してよじ登って、やっと超えたんです。それで上手く逃げられたのだけど、横浜駅で警官につかまってしまって、護送されてまたここに戻されてきました。もちろん当然のように監房に入れられてしまう。新憲法の成立は昭和22年5月3日のことです。しかし、ここでは新憲法なんて全く通用しないのです。監房に入れられるということは、悪いことをしたから当然の結果ということで、入院している人間たちもそれについて何も感じない。無感覚なんです。「ああ、また監房に誰かが入ったらしいなあ・・」って。
 あくる日の新聞に大きく掲載されました。「らい患者 春に浮かれて外出、つかまる」というタイトルで、まるで犯罪者のようなんです。こんなことが新聞のトップ記事になるんです。そういう風に、ハンセン病患者は恐いという恐怖心を、社会の人に植え付けていかれたんです。
 それから4〜5年経って、世田谷でごく普通の生活をしていた患者が見つかりました。そうしたらそれも、「隠れ住む、らい患者 発見」なんていう風に、また新聞の社会面のトップを飾ったのです。近所の人が、患者を見つけて保健所に連絡をしてしまう、そうすると保健所が警察に連絡をする、すると今度は警察が新聞社に連絡をする。新聞社は書き立てる。こんな悪循環の仕組みをどんどん作られていったのです。おかしな恐怖心だけをあおっていく。そうすると、患者も世間を恐がってしまって、もう外には出られない。
 患者は罪人よりも悪い人間で、ハンセン病は恐ろしい病気だという風に、国民に擦り込ませる。そうすると今度は、患者が社会の人に恐怖心を持つ。社会の人は患者に対して恐怖心を持つ。顔を見られたくないと思ってしまう。
 昭和35年に園院内の垣根を半分以下に切り込みました。すると、それまで散歩していた人は外の人に顔を見られるのがイヤで散歩をしなくなってしまいました。恐いんです、自分のことをどう見られるのだろうと。そういうものなんですよね。普通には考えられない心理状態に陥ってしまう。
 私もそういうことにずっと長いこと慣らされていたんです。でも、これはおかしいとずっと思ってました。96年のときに政府が謝罪をしてきたことに対して、患者は皆、「ありがとうございます」と答えている。でもそれは間違いだと思ったんです。政府は「過ち」をひとことも言わないで、らい予防法の見直しが遅れたと言っているだけなのに、それに対して、「ありがとうございます」と頭を下げている。頭を下げる必要は全くないんです。ああいうときに頭を下げてしまうと、本当の怒りを伝えることができなくなるからです』

 ハンセン病訴訟全面解決と伝えられている今、国本さんの心の中ではどのような思いが去来し、さらにこれから新たに向かって行くところはいったい何処なのだろう。

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 『本来はすごくぼうっとしているというか、のんびりした性格なんです。でも、燃えるときには自分でも驚くくらいの力が湧いてくる。闘いのとき、いざっていうとき、これは黙っていられないと思って前に出て行ってしまうんです。
 古い寮舎を新しくしてもらう時も、自治会と交渉をしなければならなくて大勢の患者が会場に詰めかけているんですが、最初私は後ろのほうにいたのに、だんだんだんだん前のほうに出ている。結局、いちばん発言をしてしまう。黙っていられないんです。いつの間にか一番前にいて、交渉のトップに立ってばかりでした。
 ハンセン病のことだけでなく、世の中には本当に不条理なことがたくさんあって、本当はその全てに関わりたいのですが、そんなことは自分だけではできない。それでも、今やっておかなければならないことは、「人間回復」ということではないでしょうか。
 今はC型肝炎になっているので、とても疲れます。おまけに心臓も悪い。身体の条件としては悪いのに、よくやってきたなあと自分でも思います。
 でも、燃えるときに燃えなければ、生きてる価値がない。何のために今、生きているのか、これまで生きてきたのか、なぜ生まれてきたのかということを考えないとね。何もしなければ何もしないですむのだけれど、それでは人生の敗北者だと思うんです。自分は人生の敗北者にはなりたくない。
 自分が生きてきた、これからも生きる、それはなんのために・・・・・・。いい人生でありたいと思います。これまでの長い間には、考えられないような出来事ばかりありました。でも、それは今となってはどうでもいいことなんです。やはり晩年を迎えて、終末を迎えても、いつまでも人間は「思い」を持ち続けなければいけない、そう思うんです』

                          2002.1(インタビュアー 三上敦子)

                          

 
                         

Edited by Atsuko Mikami