字幕翻訳家  戸田奈津子さん



 映画は、最高に楽しい。家で、レンタルビデオをごろんと横になって気軽に観るのもいい。映画館の大きなスクリーンを前に期待に胸躍らせてワクワクしながら観るのは、格別。さまざまな感情を味わえるから、ひとつの作品を観終わるとなにかしら満たされた気持ちになっていく。
 それが外国映画ならなおさらで、見知らぬところを旅しているような気分に簡単になれるのは、映像はもちろん、聞こえてくるそれぞれの国の言葉のおかげで非日常に浸れるからだろう。
 あらゆる国の映画を当たり前のように観ている私たちは、映像中心に目をやりながら、難なく字幕をさらっと追ってストーリーの理解を深めていける。意識することはなくても、字幕が果たす役割というのはあまりに大きい。
 そして、現在のアメリカ映画の多くの作品には「字幕 戸田奈津子」という文字が現れる。作品のストーリーや出演者はいちばん気になるけれど、その字幕翻訳をされている戸田奈津子さんという方はいったいどういう方なんだろうと、いつ頃からかずっと気になっていた。
 戸田さんはハリウッドスターの来日記者会見の通訳をされていることも多い。その席上での明朗闊達で媚びのない戸田さんをテレビで拝見すると、なぜかスカッとしてくる。時には、ハリウッドスター以上に戸田さんに注目してしまうこともある。
 「字幕の中に人生」・・・。今日は、あまり知られていない戸田さんの子ども時代の話を伺った。

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 『私が生まれたのは父の転勤先の九州の戸畑です。銀行員だった父は、日中事変で私が生後一年数ヶ月で戦死してしまったので、母は私を連れて東京の実家に戻りました。
 九州で生まれたのですが、生後間もなくから東京で育ってきたので、九州のことは何も記憶に残っていないのです。
 世田谷の母の里で、お祖母ちゃんと3人で暮らしていました。母は手に職を持っていなかったので、東京女高師(現在のお茶の水女子大)にあった教職課程の教育をするコースに通っていました。そのため私は、母と一緒に幼稚園の時からお茶の水に通っていたので、近所にはほとんど友達がいませんでした。
 鍵っ子で、おまけにひとりっ子だったので、いつも家の中でひとりで遊んでいました。外で遊ぶことよりも、家の中でじっとしていることが好きだったのです。テレビもなかったし、なにより本を読むことがとても好きでした。
 当時は子ども向きの本なんてあまりなかった時代です。親戚が二階に住んでいたので、大人たちが読むような本が雑然と並んでいる二階の書架から探してきて、手当たり次第に読んでいました。余り意味がわからなくても、とにかく読んで読んで、常に活字を追っていました。
 そして、ひたすら想像の世界に思いを馳せることが好きだったのです。頭の中でお芝居することが好きで、ドラマやフィクションが好きというのは先天的にあったのかもしれません。学校の行き帰りの電車の中で、思いついたまま友達に物語を話して聞かせたこともあります。「その先はどうなるの?」と楽しみにしてもらえたので、けっこうストーリーになっていたのかもしれません』
 
 テレビもないし、うんと小さな頃に映画を観た記憶がないから、映像というものに全く触れたことがない。昭和23年から洋画が解禁になったので、10歳を過ぎてから洋画を観ることになる。戦争中は、国威高揚映画だけが映画館で上映されていたのだった。
 『昭和20年3月10日の夜に東京は大空襲を受け、それまで東京に踏みとどまっていた私たち家族も、父の田舎の愛媛に疎開をすることになったのです。
 疎開先の愛媛の西条市ではお寺の離れを借りて住んでいましたが、ここでは、お墓の前に備えられているお供え物を盛る小さな器をこっそり盗んで、和尚さんの目を気にしながらおままごとをしたりしていました。
 都会育ちだったから田舎の暮らしは本当に新鮮でした。食糧不足を補うために、子ども達は放課後に30匹のイナゴを捕まえなければ家に帰してもらえなかったのです。捕ることができずに私がべそをかいていると、友達が捕った物を分けてくれました。
 それまで、あまり虫に刺されたことがなかったので、蚊やノミに刺されると身体中にたちまちおできができてしまいます。特効薬もなかったので、蚊やノミを避けるために母は私を連れて、密閉されて被害の少ない映画館に行ったそうです。上映されているのは軍国主義の映画でつまらなかったので、全く内容は覚えていません。
 終戦を迎え、小学校4年のときに初めて洋画を観たのですが、字幕が全て読めるわけではないから、わからないところは勝手にあらすじを作ったりしていました。初めて観る映像は、とても衝撃的でした。本で読んだ「小公子」や「小公女」の中のイギリスのお屋敷の世界を活字で想像はしていたけれど、映像で観ると、(ロンドンの街はこういうところなんだ!)とびっくりしたのです。今の人が、映像を観て受けるカルチャーショックとは全く異質なものだと思います。生まれた時からテレビを観ていたら、動く映像なんて当たり前ですよね。でも、初めて動画を観るショックはとてつもなく大きかったです』

 敗戦後の東京は、富士山から東京湾まで全てが見渡せてしまうような真っ平らな焼け野原。戦中よりも、戦後のほうが飢えがひどくなっている。食べる物はもちろん、人々は生活の全てのことに飢えていた。
 『お芋の茎を食べているような時に、アメリカのリッチな生活を映画で観ると、冷蔵庫にたくさんの食べ物が溢れている。そういう、言ってみれば原始的なレベルでの驚きを感じました。「この時代に、こんなに食べ物があるんだ!こんなにすごいところがあるんだ!」と、想像を絶してしまう。あまりにも自分の生活と違うから、好奇心に駆られました。「普通の家庭に車がある!」とか。
 暮らしの中に、娯楽なんてなかったのです。ラジオはNHKだけで、「尋ね人」の放送ばかり。娯楽と呼べるのは映画だけでしたから、国民全てが映画ファンでした。私の家族だけが特別に映画好きだったわけではないのです。暇があったら「映画に行こう」という時代でしたからね。
 学校から近かったので、池袋の「人生座」という銭湯を改造したような造りの映画館によく行きましたが、画面に雨の降るような擦り切れてしまったフィルムだったのです。それでも、いつも満員でした。
 新宿や池袋にある名画座は3本立てで観られるし、ロードショーは高いから、安くなってから観に行きました』

 中学に進学した戸田さんは洋画の影響か、英語に人一倍興味を抱いた。教科書の中の「ABC」というアルファベットを見て、衝撃を受けたのだった。
 『英語を目にすることが全くない時代ですから、本当にカルチャーショックでした。それまで、チャップリンや西部劇やフランス映画なども観ていましたけれど、話している言葉は何がなんだかさっぱりわからない。だから教科書を見て、(素敵な俳優さんが映画の中で喋っている言葉はこれなんだ!)って嬉しくなったのです。
 言葉をたくさん知りたかったから、どんどん英語を好きになっていきました。「勉強」と思うと義務感があるでしょう。私は、知りたいという気持ちだけで勉強していました。
 そして、映画からイエスやノーが聞き取れた、次はこの言葉・・・、そういう積み重ねだったのです。生きた英語が耳に入る機会は映画しかなかった。学校の英語の先生は、文字とか単語を教えてくれるだけで、会話を教えることができない。目と耳は使わない教育ですからね。
 でも、基本は学校で教わるしかないので、結果的には学校で文字や単語を教えてもらってよかったと思います。話すことは、そういう環境に放り込まれてしまえば、誰でも喋れるようになっていきますからね』

 高校生、大学生になると、ますます映画への情熱が高まっていた。休みの日には、3本立て映画をひとりで観に行く。隣の人が楽しんでいるのかとても気になってしまうので、いつも「映画」対「自分」だった。ミュージカルやロマンティックな映画を好んでいた戸田さんが決定的に好きだったのは、イギリス映画の「第三の男」だったそうだ。
 『津田塾大学に通ったのですが、世田谷から国分寺までが遠くて、学校に着くまでに沈没してしまい、途中で映画を観てしまうことも多かったのです。
 なんとなく大学時代を過ごしてしまったので、卒業の頃に慌てて将来は何をしようかと考えました。字幕翻訳家の世界に憧れても、一朝一夕にできるような仕事ではなかったし、周りにお手本があるわけではありません。
 でも、今のように情報もないから、当時は好きなものがはっきり見えたと思います。チョイスがないから自分の好きなものだけが明確に見えてくる。物質には恵まれなかったけれど、そういう点では、とてもいい時代だったと思うのです。
 けれども、字幕の世界ではとてもすぐに食べられないということがわかったので、仕方なくOLになりました。自分の食べる分くらいは自分で稼がなければ・・・という気持ちがあったので、学校で紹介された企業に勤めました。最初から腰掛けのつもりで働き始めたので、1年半くらいは我慢していました。会社には申し訳なかったのですが、割り切っていたのです』

 字幕翻訳家に憧れても、誰に尋ねても何を見ても、ガイドになるものはない。そこで思いついたのは、いつも観ている映画で見る名前だった。当時、第一線の字幕翻訳家、清水俊二さんに手紙を送った。
 『「字幕翻訳家になりたいのですが・・・」という手紙を清水先生に送って、数週間後に会っていただいたのですが、「職業としてチャンスがめぐってくるのも難しいし、技術そのものも難しい」というような諦めた方がいいということを、優しい口調だけど、はっきりと言われました。
 でも、私は諦められませんでした。時々、清水先生のところに相談に伺ったりしましたが、仕事は本人でしかできないような、弟子をとれない世界なので、要所要所でアドバイスはいただけても背中を押されたことはないんです。積極的に手を引っ張ってもらえることはない世界で、言ってみれば職人の世界です。その人の実力だけが、ものを言う世界だから、推薦してもらえるということはあり得ない。
 字幕翻訳家は今も昔も10人足らずしか存在しないのです。しかも当時は男性の世界です。字幕翻訳家の仕事だけで食べられる人は、たった5人くらいしかいなくて、狭き門というより、門すらないような世界でした。そしてそれは今でもそうだと思います。
 私の場合は、自分にいちばん向いている仕事だと直感的に思いました。ドラマが好き、台詞を作るのが好き、でも、小説を翻訳するということには一切興味がなかった。翻訳は、食べていくためにやっていましたが、好きなことではなかったです。とにかく、何よりも台詞を作ることがとても好きだったからです。
 小説の翻訳というのは、一語一語を丁寧に訳さなければいけないので几帳面でなければならない。一語一語を丁寧に訳さなければいけないので、私には相性がよくないのです。映画の台詞というのは直訳ではなく、自分のセンスでエッセンスだけを抽出して台詞づくりをしていく。そういう、勘というか直感で動くことが、私にはとても合っていたのです。
 それと、字幕の仕事は完全にひとりでできます。助手もいないし、極たまに、あまりにおかしな誤訳をしたときだけは映画会社のほうから指摘されることはありますが、基本的には上で目を光らせている人はいないのです。だから自分の好きなように、のびのびと仕事をしていける。社交性ゼロの仕事だから、人とのつきあいで気を使ったりするのがとても苦手な私にはとても向いていたのです。どれをとっても、非常に自分に合っている仕事だと直感で思いました。そして、その勘は予想した通りで、本当に合っていました』

 字幕翻訳家の仕事は、英語ができることよりも、日本語をどう使うかが重要だと戸田さんは言う。むしろ、日本語の表現のセンスがとても問われる。驚いたのは、戸田さんが英語を実際に話す仕事をしたのは、30歳を過ぎてからだったということだった。
 『今、ハリウッドスターの通訳とかをしていますが、それは自分で望んだことではありませんでした。もし今なら、私にそういう仕事が来るわけがありません。だって英語を喋れなかったんですから。
 30歳を過ぎて初めて英語を喋ったのです。それまで全く、外国人と話したことがなかった。留学というのは夢のまた夢でしたし、何よりも、私の就きたい仕事は字幕翻訳家でしたから、日本から決して離れてはいけないと思っていました。とにかく、この環境にくっついていたほうがいいと確信していました。外国に行っても、字幕の学科はないし、外国で勉強したいというものもなかったのです。
 映画評論家の水野晴郎さんのところでアルバイトをしたことがきっかけで、「アリスのレストラン」という映画のプロデューサー来日記者会見で、突然、通訳をしてほしいと頼まれました。真っ青になっているのに、強引に記者会見の席に座らされたのです。無我夢中で、単語の羅列で喋っていたのですが、映画のことを私が知っていたことで話が通じたようです。知識をある程度持っていれば、コミュニケーションはとれるし、通じるのだということをこのときわかったのです。
 通訳の仕事は、字幕の仕事とは全く無関係なので、字幕翻訳家で通訳もしているのは私だけなのですが、通訳の仕事はこれがきっかけで、どんどん入ってきました。今になってみれば、素晴らしい人たちに会えていることは思わぬ大きな宝物になっています。でもそれでも、通訳の仕事はわたしにとっての本職とは考えていないのです』

 ベトナム戦争終結後、映画監督のフランシス・コッポラがベトナム戦争を描く大作を撮るということで、日本の映画会社に資金参加を呼びかけた。その呼びかけに日本ヘラルド映画が応えたのだった。
 戸田さんはヘラルドから何度か仕事をもらっていたことが縁で、コッポラ監督のガイド兼通訳を依頼された。
 『そのときに、コッポラ監督は1年以上に渡って「地獄の黙示録」を制作していました。私は彼が日本に来るたびに案内をし、撮影現場ではいつも近くにいたので、「地獄の黙示録」の翻訳をやらないかと言われました。それが今から20年前のことです。
 大変な話題作だったので、その作品で字幕翻訳家としてブレイクできたことはラッキーなことでした。なにか、とても運命的なものだったかもしれません。字幕翻訳家を目指してから20年経ってのことですが、それは結果的に20年経っていただけのことです。それまでずっと、「明日、チャンスが開けるかもしれない!」「なんとかなるだろう」と、そう思って仕事をしていました。前しか見ていなかったのです。
 そのときまで、翻訳や、たまに字幕の仕事もしていましたが、勤めているわけではないから今でいうフリーターの生活です。来るか来ないかわからない仕事を待つ。だから周りから、「違う仕事をしたらどう?」とか「結婚したらどう?」とか、いろいろ言われたこともあります。でもその二つの分かれ道の時に、私はやはり「字幕翻訳家」の夢を捨てなかったのです。どうしても選んでいました。そうしたら、20年経っていただけなのです。
 先日、あれから20年経って「地獄の黙示録・完全版」の翻訳もしましたが、ブレイクした映画を20年後にまたやり直すということは殆どないことです。蘇ったものを、また私が翻訳をするということに非常に因縁めいたものを感じてなりません。
 「夢を追えば叶う」という言葉があるけれど、そんなに甘いものではないと思うのです。ただ夢だけ見ていて、それで叶ってしまったら、そんな楽なことはない。叶う、叶わないは全て五分五分で、完全に半分はできない確立だから、いつもそれを頭に入れていました。物事には明と暗があるとはっきりとわかっていました。そうじゃないと、叶わなかったときに大変な挫折を感じてしまう。最悪の場合は食べられなくなることもある。でも、「どんなに仕事がなくなっても飢え死にはしないはずだ」と思っていました。だからこそ出来たのかもしれません。飢え死に寸前の覚悟さえしていれば、それに賭けるリスクをとれるわけです。身の保証のために好きでもないことをするなんて、そういうのは嫌でしたから。
 飢えはしないという、その最低線を見ていれば、いつの間にかリスクはとれてくるのかもしれませんね』 

 字幕づくりは、一作品につき、一週間くらいかける。映画は同時公開が多いので、字幕づくりも同時進行でやらなければいけない。日本で上映される映画は、年間300〜400本。そのうち50本を戸田さんは黙々とこなしている。

 「これから、幼稚園からの同級生と会うのよ!」・・・。そう笑いながら立たれた戸田さんの、後ろ姿を見送る。真っ直ぐに伸びた背筋が颯爽として、風や辺りの空気が一瞬にして清涼に包まれたような気がして、目を離すことができなかった。

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 『今でも英語はあまり上手くないですけど、どんなハリウッドスターが相手でも態度を変えないのはコミュニケーションのこつなんです。私はどんなに目上の人でも、反対に、下の人でも目を下げて見ないのです。必ず同じ目線で話しています。それは主義ではなくて、そういう性格なのでしょうね。
 どんなスーパースターでも決して見上げないから、相手は話しやすいのかもしれませんね。人って、見上げられるととても嫌なものだと思うのです。自分はそんなに価値がないと思っているのに勝手に仰ぎ見られたら、とても嫌なものですよね。
 「私はこんなに英語が下手で、これ以上でもこれ以下でもない人間です」というのを偽らなければ、相手はちゃんとつきあってくれる。自分より大きく見せようとしたら、そういうのって簡単に相手に伝わるものでしょう。
 もちろん卑下してもいけないし、正直に自分を出していく。それで、「貴方がアクセプトするのもしないのも、それは貴方の勝手よ」という風に、身を投げ出すようにする。それはスターに対してだけではなくて、あらゆる人に対してそうしています。
 自分を飾らずに見せる。自分をよく見せようなんて、考えたって無理なことなんですから・・・』                      (インタビュアー 三上敦子 02.4)
                          

 
                         

Edited by Atsuko Mikami