書家   柿沼康二さん





 『僕は「書道界の革命児」と言われていますが、今までの書道界には若いうちにこんな風に露出された人間がいなかったからだと思います。革命児と呼ばれたとしても、今の僕の技術や表現がベストだとは全く思っていません。たまたま時代の流れと僕の生き方や作品が世の中のニーズにマッチしただけだと思います。本当は自分の宣伝になるようなことをあまり望んでいません。ただ、書道を知らない人たちに書の可能性を伝えたり、書の既成概念をうち砕くにはチャンスだと思います。ハッキリ言えば、学校の書道の時間に子ども達は適当に書を習うことで書道を誤解してしまう。「別にうまく書こうと思わなくてもいいんだ、先生につかなくても書はできるんだ、下手でもいいから筆で字を書いてみよう」。そんな考えを導き出すことが自分にできたら嬉しいです。
 書はたしかに「老齢の芸術」といって、50代、60代では鼻たれ小僧と言われる世界です。日本の伝統の歌舞伎、茶道、華道などもそうですが、たかが15年くらいの勉強 ではまだまだ修行が足りないと言われる。でもそんなことを言っていたら若い人たちが育たないのが現状です。ですから僕がやっていることが、これから書をやっていく若い人たちに一石投じられればいい。でも、そういうことよりも、好きな書を続けていって自分の人生を貫くだけのことと思っています』

 重さ20kg、墨を含むと約50kgにもなる大筆をがっしりと抱え、室内いっぱいに広げられた紙の上で柿沼康二さんはまるで見えない何かと格闘するように文字を書く。BGM にはロックが流れ、眼光は鋭く、身のこなしもとてもシャープだ。リズムを刻みながら「ここぞ」という時を読んで、ためらわず筆を一気に運んでいく。金色の髪を揺らし、ダイナミックに舞う姿は確かに誰もが知っている「書家」のイメージとは違 う。しかし毎日何時間もの臨書を欠かさない、まさしく鍛錬で得た本物の力と、天賦の才能を認められ、国内にとどまらず、2002年にはニューヨークのメトロポリタン美術館に招かれ、見事な瞬間の芸術を披露し数百名の聴衆を魅了した。

 『シカゴの美術館では大筆で書きましたが、メトロポリタン美術館では普通の大きさ の筆で「春夏秋冬」の万葉集を4曲屏風形式に書き、日本書道の美、そしてその原点を見てもらいました。楷書、行書、草書、かなを書き分けたのですが、万葉集は漢字が完成する前の文学なので当て字なんです。一漢字一音節になっていて、かなにも書けるし漢字にも書くことができる。楷書はゆっくりと、行書はリズムにのって、草書はさっと書く。そのためのBGMも録音して持っていったのです。そうやって表現していたら、観客の人たちがどんどん増えていって最後には何百人もの人たちで溢れていました。美術館の人たちはそんなに受けるとは思っていなかったようで驚いていました。
 外国人は日本人のように書の経験もないし、「書家というのは年輩で、上手になるには時間がかかる老齢の芸術」というインフォメーションがない。だから僕のような若くて金髪の人間がやっていれば、それがイメージとして植え付けられる。つまり、後にどこかで別の書家の書いている姿を目にしたら「なんで若くないの?なんで金髪じゃないの?」と思うことになります。今は、海外で日本文化ルネッサンスが起きています。このところ、日本のマスコミも日本の伝統芸能に携わる人をクローズアップしていますが、それは逆輸入なのかもしれません。外国人のほうが日本文化の造詣に真髄していたりするので、それが日本に戻ってきていて、日本文化の素晴らしさを外国人から気づかされているのかもしません。
 先日、落語の立川志らくさんとテレビ番組で共演させていただいたのですが、「志らくの落語は格好いい、面白い」「柿沼康二の書は格好いい、面白い」、そんな風に日本の伝統芸能を見直してもらえれば十分と思いました。面白いと思って若い人たちが入ってきてくれないと、廃れてしまうのが日本文化だと思うのです』

 毎日書道展毎日賞、(財)独立書人団審査会員、彼の「書」での受賞歴や経歴には目を見張るものがある。書道界に於ける華々しい賞を20代後半から現在までにほとんど掌中に収めてしまった。それなのに当の柿沼さんは、他人事のような目でクールに自分を見据 えている。「書道界」という小さな世界から飛び出して海外で活動することは、自分の中にチャンネルをたくさん持つことでもあり、もっと広い世界に目を向けることだから、「賞」をとることは目標にはならないという。

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 『僕は栃木県矢板市という関東平野の最北部で生まれました。3人兄姉の末っ子で、うんと小さい頃は、おとなしくて全く手が掛からなかったそうです。兄貴は人前に立つ性格で、目立っていてやんちゃでした。僕はその陰でコツコツと努力するタイプで、勉強もコツコツとやっていました。もともとは非常にナイーブな性格で、人前で何かするとか旗を揚げるタイプではありませんでした。
 中学・高校ともサッカー部に所属していて、全国大会に進むくらい強い部だったので、がむしゃらにサッカーをやっていました。それと同時に、兄貴の影響で音楽に興味を持ったり、悪いことも覚えたりして、ロックバンドを結成してベースをやったり、あちこちでケンカも随分やりました。あるところまではずっと怒りを抑えているんですが、爆発してしまうと止まらなくなってしまったんです。決して真面目な学生ではありませんでした。 父は中学の体育教師で、若い頃は国体選手として10回も大会に出場し、指導者としても日本一の生徒を3人育てたんです。忙しい人だったので家にほとんどいませんでしたが、家にいるときはいつも書道をやっていました。母は父と結婚したときからそうだったようですが、子どもが3人できて尚のこと「我が家は子どもが4人」と思っていたようです。
 父は幼い頃から書道をやっていて、何人かの師匠に就いてずっと続けていました。高校時代には書道の先生から「私よりも柿沼君のほうが上手だからみんなに教えてあげて」と言われて、同級生に教えたりしていたそうです。走っているか、寝ているか、食べているか、書いているか・・・父はそういう生活をしていました。
 書の能力を高めたくて父は師匠を数人変えましたが、最後に行き着いた師匠が昭和の三大書家のひとりと言われている手島右卿先生でした。手島先生から「書道と教師の二足の草鞋は無理だ」と言われ、この先生に就くということは中途半端な気持ちでは無理なんだと悟ったそうです。父は真っ直ぐな性格なので、教師を辞めようと決心しました。辞めるということになって親類からの軋轢があり、随分葛藤したようです。そのときに母が「男のひとりやふたり、私が食べさせる!」と言ってのけたそうです。それから父は書道教室を営みながら書の世界に邁進することになりました。
 父の書道の表現の世界を見ていて、子ども心に「格好いいなあ」と思いました。大きな筆で書いている父が、「書」の「し」の字もわからない僕に、「ここの線は背骨だ。ここは命なんだ、心臓なんだ。この心臓がバクバクしているような、見る人にそれを伝えられるような線を極めなければいけないんだ」と語っていました。
 ある日の朝起きて居間に行くと、父が目を真っ赤にして仏様にお線香をあげている。僕と会っても「おはよう」も言わずに書に向かいました。そして僕が学校から帰ってきてもまだ黙々と作業を続けていたんです。とても可愛がっていた教え子が、阪大の助教授として迎えられるというときに日航機の墜落事故で亡くなったことがわかった日でした。それは父にとって本当に悲しかったのだと思います。それから1年後、父は斉藤茂吉の詩の超大作を発表し、その作品で「手島右卿賞」という35年の歴史の中で7人しか受賞対象にならなかった賞を頂いたのです。
 その1年間の様子をずっと傍で見ていて、僕は本当に父のことをすごいと思いました。世間一般でいう書道の世界ではなく、書道アートというのでしょうか。書道のスタイルで紙に文字を書いているのだけど、ただ単に意思を伝達したり表記したりするだけではなくて、文字や線の中に自分の命を吹き込む世界なんだなあ・・・と子ども心に感じました。そして、それが僕が一番ぐれていた時代だったのです』

 なんのために自分は生まれてきたのか?勉強ばかりするのは何か違うと思えてきて、訳も分からずに喧嘩ばかりするようになったり、サッカーや音楽や映画にのめり込んだ。でもそれは、漠然とエネルギーを放出するだけに過ぎなかった。何も見えないし、何も掴めない。そういうときに、柿沼さんは5歳から続けていた書道を真剣に見直すようになった。
 『柿沼家の中で僕にはこれという秀でたものがなかったのです。自分はどうやって将来生きていくのだろうと考えたら、サッカーで飯を食っていけるはずもない。父から「おまえは、書だったら日本一になれるかもしれないよ」と言われました。いい加減な一言ですが、今思えば、自分の後を僕に継いでほしかったのかもしれません。それから父は手島右卿先生に「息子を弟子にしてください」という手紙を書いたのです。「男が本気で仕事をやるなら日本一になれ!」というのが父の言葉でした。高校1年生の10月10日に手島先生の稽古に連れて行ってもらいました。手島先生はとても厳しく神経質な先生だったので、2時からの稽古だったらきっかり2時に門を開けないと怒る人だったのです。その日もお弟子さんたちがいつも通りに門の前でカウントダウンをして「よし、入るぞ」と門を開けようとしていました。驚いたことに、手島先生は初めて訪れる僕のために早々と玄関に立って待っていてくださったんです。
 先生は「おお、ちび。ここに座れ」と僕を自分の横に座らせ、「なにか書いてきたものを持ってきたか?」と言って、僕が2ヶ月かかって書いた作品を見て下さったのですが、全て一点一角、丸をもらえずに朱で直されました。「スケールはある」と言われました。手島先生は普通はどんなお弟子さんにもほんの少ししか朱を入れないのですが、僕の字は丁寧に全部直して、最後に「君は若いから、今からやれば私を越えられる」と一言だけ言われました。可能性を買ってくれたのだと思います。
 その出会いがあまりに大きくて、大学進学のときも書以外に学びたい学問はありませんでした。日本の大学で書道を学ぶのに質が高いのは学芸大学書道科です。でも僕は受験に失敗し、一浪しました。今となっては、浪人したことが本当によかったと思います。生意気盛りで、誰にも負けないと思っていたところを一喝してもらえたのが一浪の時代でしたから。
 ところが、憧れの大学に入学したものの何かが違う。周りの連中は、ここで勉強さえしていればなんとかなると思っている。最初はみんな、書家になるという目的で大学に入ってきたのに、卒業の頃はほとんどの連中が筆を持っていない。論文を無難に書き、卒業制作展で発表をし、今まで使っていた筆を後輩に売り、書とは関係ない世界に就職する。それが現実でした』

 卒業して、柿沼さんは非常勤講師として学生を教えることになる。「書家になる」という目標があるから、定職には一切就こうと思わなかった。
 『若いときに、書の世界の登竜門である毎日書道展で毎日賞をとったり、独立書人団という財団法人で会員に上がれるという人は化け物だと思っていました。でも僕は非常勤講師の3年間に、それらを手に入れてしまったのです。求めているうちは気合いが入りますが、自分のものになってしまったら気持ちがどんどん白けていく。このままこの立場に胡座をかいて、黙ってコンスタントに作品を発表していれば、簡単に日本のトップランク位には上がれることが予想できました。
 そういうときに何処からともなく「おまえの夢はそんなことなのか?!」という声が聞こえてきて、それでニューヨーク行きを決断したのです。それが27歳のときでした』

 柿沼さんにとっての行き先が、なぜ、ニューヨークだったのだろう。
 『・・・意味はなかったかもしれないです。尾崎豊に憧れたり、坂本龍一に憧れたり、そういう単純な理由だったのかもしれません。でも、よくもわるくも、あの街で生活さえすれば自分の中の何かが変わるような気がしました。
 でも、行ってみると、やはり満足のいく世界ではなかったのです。ビザのために語学スクールに通い、どんどん喋れるようになって、いつしかニューヨークの街にすうっと馴染んでいる自分がいた。当初の緊張感が全くなくなっていました。トランスファーして、その後、アートスクールに入学しました。でもなにかそこも自分の居場所ではない。そんな風に悩んでいるときに、フランス人とアメリカ人の親友から「おまえはアーティストとして、なんでこの街で勝負しないんだ?!」と言われたんです。 その言葉に、ハッとしました。
 この街に1年いてできないことが3年いてもできるわけがない。だったら、とにかく1年と決めて、この街になんらかの匂いや足跡を付けて帰ろうと決めたんです。それから奮起してギャラリー周りをし、日本ではやったことのない個展をしました。
 個展をしたことのない僕が海外で個展を開いたということは自分にとって大きなことでした。日本では団体で展覧会をしていましたが、個展は全て自分でオーガナイズしなければならない。責任は全て自分にある。金銭的なものや時間も自分次第。海外で個展を開くということがいかにきついかということを身に染みて感じました。でも、それをやったことが今の自分に繋がっていると思います』

 ニューヨークの個展で成功を収めた柿沼さんは、帰国後、ドキュメンタリー番組で取材をされた。取材が進むうちに、書家・柿沼康二の取材のはずが、教育者としての柿沼康二にスポットが当てられていた。
 『番組が出来上がったら、「教え子の高校生ふたりと僕」という物語になっていました。ちょうど未成年の犯罪が多発していた時期だったこともあったのかもしれません。勉強は嫌い、でも書道は大好き。書道のときは爆発してしまう。夜中に身体中に墨を塗って壁に突進して人拓を取ったり、発泡スチロールに「命は燃やしつくすもの」なんて書いて、学校に持ってくる。番組では、こういう熱い高校生が存在するということを見せたかったようです。番組の反響もすごかったようです。
 その番組が放送されてから、僕は学校側からますます疎んじられました。管理職からすれば、自分たちよりも有名な先生が学校に存在しては困るわけです。しかもそれが非常勤講師だからなおさらなんです。僕に教わりたくて転校してきた生徒までいました。
 作家・柿沼康二でいたいがために非常勤講師として働いているのに、奇しくも僕の教育が「すばらしい」と言われることには驚きました。非常勤講師は学校の先生のようであるけれど先生ではないフです。部外者というわけでもなく、先生と生徒の間に立っているようなポジションでした。間に立っているからこそ、学校の問題点もハッキリと見えてきてしまう。そのジレンマをどうにかしたいとも思っていました。
 僕が中学・高校時代の、ぐれていた時に「ああ、こういう先生はイヤだなあ」と感じたことがずっと頭に残っていました。突っ張ってはいたけれど、世代の離れた上の人に本当の自分を知ってほしかった思いがありました。だから生徒達とは、「今、どんな音楽を聴いているんだ?」とか「彼女、いるのか?」とか、そういう話をとにかくたくさんしました。書道教室に来て弁当を食べる子がすごく多くて、いつの間にか、書道教室が安らぎの場になっていました。でも、周りの先生たちはそういう僕が本当に気に入らなかったようです。
 教えることは嫌いじゃないです。子どもたちと接することは本当に楽しかった。
「こういう大人がいてよかった!」と僕のことを見てくれる子どもたちの気持ちには ずっと答えてやりたかったんです。でも、「ちょっと待て、俺は先生じゃないんだぞ」という気持ちを、自分に対しても、外に対しても表明したくて学校を辞めました』

 柿沼さんは一本の真っ直ぐに伸びた大樹のような、養分をいっぱい吸収し、またそれを周りに還元させるエネルギーに満ち溢れている。思春期の子ども、とりわけ男子生徒にとっては「背中についていきたい」と思わせるような先生だったのだろう。もう少し、自身の中学、高校時代の話を聞きたくなった。
 『実は、高校時代の僕は「インテリ不良」みたいでした。勉強はできるが、先生には反抗する。「俺、近々、学校を辞めるよ。大検で大学に行くから!」なんて、高校1年のときに友達に話していました。そういう時期に先生と個人面談があって、「おまえは態度が悪い、斜に構えている」と言いたい放題に言われたのです。先生の話を聞き終わってから、教室中の机を倒して、ドアを蹴って、「今日で学校を辞めるから!」と先生に向かって言いました。そうしたら先生が血相変えて追いかけてきて、30発くらい殴ってきました。鼻血が止まらなくて廊下中が血だらけになったんです。 僕は(やり返そうかな)と思ったけれど(学校を辞めてからでも遅くない)となぜか 冷静になれて、先生と、とことん話をしました。そうしたら、その先生は話を聞いてくれる人だったんです。僕は自分の中に鬱積した思いを全部吐き出しました。そのとき、はじめて僕は大人と本音を話すことができたんです。その先生がいなかったら、本当に学校を辞めていたと思います。  僕はいい意味でもわるい意味でも真っ直ぐな人間で、一度口に出したら行動を起こしてしまう。そんなところは父親譲りだと思います。だからもし父親に「学校を辞めるから」と言っていたら、「辞めたいんだったら辞めてみろ」と言われたと思います。父親には昔から、「人と同じ生き方をしていたら、人と同じにしかならない」と言われていました。父親も教育者だったのですが、あちこちに飛ばされるような人生だったようです。どこに行っても、「この学校には校長がふたりいる」と言われていたそうです』

 ある番組に出演中の柿沼さんに、高校時代のその先生からFAX が届いた。「君は昔から竹を割ったような性格でした。人間は節目節目で伸びていく。君ほど伸びていく生徒を見たことがない」という内容だった。そういう柿沼さんだからこそ、子どものことを本当の意味で「沿う」ように見ることができる。「間違いを繰り返してそれを克服していった人間はとても強くなる。間違いを恐れないで好きなことに向かってほしいし、それを導いてあげるのが自分たち大人の役割だと思うのです」

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 『何かを極めている人というのは、世界は違っていても全く違和感がない。情熱を持って何かに向かっている人間には温度差がないと思います。
 今、不景気だと言って嘆いている人も多いけれど、「じゃあ、おまえはなんの熱を出しているんだ?」と聞くと、なんの熱も出していなかったりする。人間には自分にしか出せない「熱」があるはずです。そしてその熱に惹かれて人は集まってくる。自分も熱を持っていなければ、誰もついてこない。僕はどんなに寂しくても、お金がなくても、いつも景気がいいんです。毎日、フルカウントで「余力がない」というところまでやらないと気が済まないんです。365日、24時間、ずっと「書」のことばかり考えています。今、もし何か不慮の事故が起きたら、もう明日はない。そう思うから、今の時間にやれるだけのことをやりたい。時間、人生、人間の存在、生命力というのは永遠ではないから、今を大切にしたいんです。
 体力的にも年齢的にも今しかできないことがあるから、とにかく今はエネルギーを爆発させたい。でも晩年は、その反対に生きてみたいんです。最終的には「そっと強い」表現をしたい。表現しながらも表現していないという、もし「表現停止」という言葉があるのなら、そうなりたい。どの分野でも、頂点を極めている人はきっとそんな表現なのだと思います。噺家であれば、普通に喋っていても面白い。書家だったら、「書いているのに書いていない。でも全てがそこに備わっている」というのが理想なんじゃないでしょうか。そして、そういう表現をできるようになるには、自分が高まっていかなければならないと思います。
 好きな漢字は、「情熱」でしょうか。昔はそういう漢字は書けませんでした。「命」とか「情熱」とか、なんとなく気恥ずかしかったんです。でも、人間はいつ死ぬかわからないし、今、自分の未熟なときに書いて表現しておくべき字だと、このごろは思えてきました。でも、僕の理想とする「情熱」というのは、バーンという焦げるような情熱でなくて、そっと強い情熱です。低温やけどするような、周りにいる人がジワジワという熱を感じるような、そういう熱を出せる人間になりたいです。
 そして、灰になる前に、「生まれてきてよかったなあ」そう言い切れる人生を送りたい。「いい夢、見たな」と、言い切りたいんです。金や名誉なんて持っていけませんからね。人間は「生まれて、生き、死んでいくもの」それをまっとうしたいです。欲を言えば、そのときに愛すべき人がいてその人を愛し続けて死んでいけたら幸せだと思います。書で日本一有名になったとかメトロポリタンで仕事をやったとか、MOMAに大作を飾られたなんていうことがあったとしても、そんなことは決してゴールなんかじゃないと思っています。もっと日常の生活にこだわって、人を愛おしいと思う心とか、親に感謝する心とか、そういうことのほうがよっぽど大切だと思います。
本当に大切なことは、実はすごくシンプルなことだと思うのです』

  2003.7(インタビュアー 三上敦子)

柿沼康二略歴  1970年栃木県生まれ、 1992年 東京学芸大学教育学部書道科卒業、1989年 独立書道展特選、1996年、1998年 毎日書道展毎日賞受賞(2回)、2002年(財)独立書人団第50周年記念大作展記念大作賞受賞、2003年 文化庁公益基金 第6回国井誠海賞受賞など
国内個展2回、海外個展3回(NY、シカゴ)
(TV出演) NHK「にんげんドキュメント」、NHK「スタジオパークからおめでとう」、NHK「スタジオパークからこんにちは」、TBS「情熱大陸」、テレビ東京「たけしの誰でもピカソ」 その他多数
(現在) (財)毎日書道会 会員 (財)独立書人団審査会員 
URL http://www2u.biglobe.ne.jp/~k1018/

 
                         

Edited by Atsuko Mikami