笑顔が美しい祐ちゃん

 赤いベレー帽と、紺のベルベットのワンピース。くりっとした目のきれいな女の子は、「うわあ一、お姉さん、ここで働くの?はじめまして。どうぞ、よろしく。」今、会ったぱかりなのに、私の不安を全部打ち消してくれるように、こんな挨拶をしてくれた。その女の子は小林祐子ちゃん。祐ちゃんは、急性骨髄性白血病で、1989年6月2日に他界した。初入院は1982年。私が彼女と出会ったのは、1988年11月8日。たった7ケ月間の付き合いだったけれど、数々のことを祐ちゃんは教えてくれた。一見、重々しい空間に、明るくてさわやかで、す一っと心地良い風を運んでくれたのも彼女だ。
そんな祐ちゃんのご両親は、決して祐ちゃんの治療のことで妥協をしなかった。家族の決め事も、家族3人、いつもお互いの意見を主張し合って、最後に疲労して議論を終わらせていたそうだ。そういうごまかさない関係が、祐ちゃんの勇気を作った。祐ちゃんのお父さん、小林紘さんに、今日はお話を伺おうと思う。

 『病気になったから苦しい。健康だから楽しい、そういうものじゃないような気がしますね…。考えようによっては、人間はどこか皆、弱い面を持っているので、精神的・肉体的な面を含めて、全てを抱え込みながら暮らしていく事が大切だと思うんです。子供が回復できなかったことは、本当に残念だったですが、12歳7ケ月という短い生涯の大半をここで過ごせて、そういう状況でも毎日楽しく暮らせたことは、とても重要だったと思います。子供の暮らしそのものを気持ちよくする環境が、ここで作られて行ったことは、大変素晴らしいと思います。』
 4歳くらいから、絵や文章を書いていた祐ちゃんは昆虫や植物、野外生活の本が大好きだったそうだ。祐ちゃんは小児科の中庭を、とても好きだった。

 『私はとにかく、我慢が弱いもんですからしょっちゅう、ぽやいてましてね。いつだったかなあ。「仕事を辞めちゃったら、どうやって食べていくかなあ。どう暮らしていくかなあ。」と子供の前で言いましたら、その時は丁度夏になりかけの時期で、中庭のぴわが見事になっていたんですよね。祐子に「おとうさん、あんまり心配することないよ。先生に頼んで中庭のぴわを分けてもらって。リヤカーに積んで売って歩けば、お金が儲かるよ!おとうさんが引っ張って歩いたらいいじゃない。私が後から押してあげるから。」……こう言われましてね。大笑いしたことがありました。祐子は中庭が大好きたったんですね。大きい立派な花より、ちまちました、私に言わせれぱゴミみたいなやつですね。雑草が好きでね。お亡くなりになられた昭和天皇”草には雑草というものはないです。みんなそれぞれに名前があります。”とおっしゃられたそうですが、祐子はちょうどそんな感じでしてね。小さくて、あまりきれいでもない、私に言わせれば、雑草を、鑑賞するのが好きでしてね一・・。大変そういう意味では、面白い子供でしたね』
 強さ、明るさ、優しさ、いつてもそれを持ち続けた祐ちゃんに、小さい頃からこうあってほしいと、お父さんが望んだことは、どんなことなのだろう。

 『私は「育てる」ということは意識していなくて、「一緒に暮らしていく」と思っていました。親という立場で子供に接したというより、私自身が非常に子供っぽい人間なので、一緒に生きることを楽しんていたというのが真実です。子供のことが本当にわかっていたとは言い難いです。子供にも自分の意見はしっかり持っていてもらいたいと思って、そういうことは要求してきたと思います。
 子供が病気をしてからは、患者の父親としてベストを尽くしたとは言い難いですね。子供の前で、ほやいたこともありますし、つまらないことで争ったこともあります。パーフェクトに彼女に対応したとも言えないてす。ただ、生きていくのは闘いですから、子供と一緒に努力しなけれぱならなかったですね。特に、子供が生き延ぴることが難しい重い病気に冒されていることを知った時からは親子3人で、先生方と協カして7年余りにわたって、病気と闘い続けました。子供が自分の死を意識して暮らしたかどうか、本当のところはよくわかりません。ただ、最後の2ケ月は自分の病気を知っていたと思いますし、だいたいの状況をわかっていたと思います。
 自分の子供が本当に持っていたものを、末だによくわからないです。子供がいなくなったのは事実ですが、何かを失われたという感じがあまりないんです。病気ということをきっかけに一緒の生活や体験をできたことは、苦しい闘病生活の中でも私にとってとても幸せだったと思えます。』
 東大出身の小林さんは、安田講堂から池之端門まで続く坂道が、学生時代、授業を抜け出して上野に遊ぴに行く時の、通り道だったそうだ。その坂道の脇の病棟に、祐ちゃんが入院すると決まった時の心境は、言葉に言い表せないだろう。

 『先生方にも、ただひたすら、子供たちのために献身するというだけではなくて、それぞれの方が人間として、楽しい生活を送っていただきたいと思います。技術的に子供に接するよりも、子供はとても敏感なので、治療がうまく行くためには、先生方もひとりの人間として、楽しく幸せに生きていることがたいせつなのではないかな、と思います。
 人間は他人のために生きているわけじゃないですからね……、祐子も祐子なりの、自分のための生涯を送ることができたのではないかと思います。』

 『人間は皆、“明日、人生を卒業するとは考えないから、毎日をいいかげんに暮らしてしまうのかもしれませんね……。』
 ひと山も、ふた山も、険しく高い山を乗り越えた人の、それはとてつもなく、重い言葉だった。 (インタビュー三上敦子 1992.12)
 
                         

Edited by Atsuko Mikami