無意識の必然      久保田雅也

 QOLC (Quality of Life Conference)は小児科ホ−ムペ−ジにも紹介されているとおり病棟入院中の患者と一緒に「何かできないか、何か遊べないか」ということで、ほとんどが個人的なつてで集まってくるヒト達から成る。ア−ティスト、技術者、学生、何がしかの「想い」を持ったヒト達が無償でこの病棟に集まってくる。もともと組織の体をなしていないのでいつ消滅してもおかしくはないが、そうならない理由が確かにあるのだろう。ここ数年に限っても入院中の児玉君の眼球運動を利用した意志表出装置の開発、病棟内でのワ−クショップ「コンピュ−タをけっとばせ」、児玉君の作曲によるCD製作、院内ネットワ−クの構築のための模索、糸電話を利用した音楽会などを試行してきた。このエネルギ−の出自はどこにあるのか私にはわからないが、確実にいわゆる「ボランティア」の概念が変わっているように思える。QOLCに集まってくるヒト達には旧来の「ボランティア」の匂いは全くしない。これはいいことだ。これまでの「ボランティア」概念には、「ボランティア」される方はどこか身を低くし、「ボランティア」する方はどこか爪先立ったところがあった。そのどちらもない。現在の窮屈な「病者」や「障害者」の概念を打ち破るのに窮屈な論理は不要である。開かれた相互の関係の自由度を規定するものをひとつひとつ分析すればよい。中でも阪神大震災において見られた、また当QOLCにおいても垣間見られる「無意識の贈与」の構造をゆっくり分析する必要がある。

  「飢えた子供にたいして文学は有効か」という問いがある。おそらくこの問 いには幾多の陥穽がかくされている。(中略) いいかえれば、それは外部社会の 悲惨にたいする負い目の意識が、そういう問いをちらつかせることによって、 文学の存在理由をなおも確保しようとしているだけのことである。そしてこう いう形をとった政治主義の発想は、飢えた子供にたいする関心を、しばしば大 義名分をかりて万人に強制するまでに至るものである。
                      (磯田光一 「吉本隆明論」)

 私は数ある吉本隆明論の中で礒田光一のものが最も吉本の孤独な営為の中にある必然に肉迫していると思っている。もう20年も前に上記文章に始めて接した時、蒙を啓かれたおもいがした。「飢えた子供」の「飢え」に対して直接的に文学が有効であるはずがない。この「飢えた子供」を「病者」に、「文学」を「芸術一般」に置き換えても同様のことが言える。役に立つから、有効であるからヒトは絵を描いたり、それを見せたりしているわけではない。つまり現実的有効性につながる意味や価値が所与のものとしてあって芸術一般に関わるというのではなく、むしろ逆に可能性のうちにそれらの破壊と自己批評性を兼ね備えたものが「何かを創り出す」ということであろう。上記政治主義は今だ多様な領域で転倒すべき課題として形を変えて存在する。「文学」を「教育」に変えても同じである。
 最近4,5,年ぶりに油絵を描いてみたが、かつて憑かれたように描いていた時期の感覚を思い出して実に楽しかった。それを生業とし、骨身を削るように日々修練を持続しているであろうプロの画家とは全く異なる位相で描いているので始まりも終わりも気ままなものである。しかし描きたい時に描くといったアマチュアの場所からも何故ヒトは絵や文章や音楽にのめり込んでしまうのだろうかという問いは浮かんでくる。芸術は時に救済であったり、慰安であったり、排泄に類するものであったり、最先端のテクノロジ−の必然の帰結であったりする。また、製作のきっかけが社会的な事件であったりもする。しかし、例えば、ピカソの「ゲルニカ」がすぐれているのは決してピカソの反戦意識が高級だったからではない。そういうレベルではピカソといえどもスペイン内乱の単なる遠くからの傍観者に過ぎない。当事者として戦争に関与しようとすれば一兵卒として銃をとるしかないのである。素材としてスペイン内乱を選択した眼がまずピカソにあり、その美意識でもってゲルニカを造型化したキャンバスの手ざわりの一切がもたらす「新しさ」に比較すると画家の反戦意識など二義的なものだと言える。
 子供は絵を「眼」で見ているのであろうが、我々大人が同様に絵を「頭」ではなくその「眼」で見るのはほとんど不可能に近い。全身を「眼」にして絵を見るにはあまりにも夾雑物がこちら側に多く、解釈や分析を施すことになる。作者の精神の軌跡とこちら側の手ぶらの感受性がシンクロする瞬間はそう多くはない。ではこの不確かな、とらえどころのない芸術を媒介にヒトとヒトはどうつながっていくであろうか。現在QOLCはこのようなことを考えながら、特に方針らしい方針もなく、不思議と次から次へと寄り集まってくるヒト達によりゲリラ的活動が続けられている。ア−トを媒介に病棟で何かできないか、というより何か一緒に遊べないかというのが主調音である。この無意識の集合は新しいなにものかであるような気がする。
 メディアを初めとしてテクノロジ−の享受が誰にとっても当然となった現在、画家や音楽家がアトリエや狭い会場からとびだして来るのもある種の必然であろう。企業がたとえ税金対策、エコロジカルなポ−ズとしての一面があるにしても、その資源を「福祉」に活用し始めているのも時代の流れであろう。おそらくこれらが象徴する「無意識の必然」もまた、その意図に関係なく、つまらない政治主義から免れた新しい予兆であろう。
 東大小児科に哲学研があり、めだかの学校があり、QOLCがありといったことは誇ってよいことのように思える。これらを支えている「無意識の必然」もまた、未来につながる新しいなにものかであることは疑いない。


菱 俊雄