医療におけるパソコンネットワークの理想型をめざして

菱  俊雄     



東京大学医学部小児科では7年前にMacintoshが導入され、診療、教育、研究
のそれぞれの分野で業務の効率化を図るために使われ、浸透してきた。そして
昨年、全部で23台ある同科内のMacintoshがLocal Talkでつながり、今年に
入って外来棟及び全国に散らばる外部の関連病院の小児科ともモデムを介し、
アップルリモートアクセス(Apple Talk Remote Access)によって通信で
きるようになった。さらにインターネットのサーバとしても機能し始めている。
特筆すべきは、同科内の配線が全て小児科の菱先生の手によってなされたこと
だ。組織的な大規模ネットワークを構築するには時間も費用もかかるが、ここ
では手づくりゆえの機能性、小回りの良さが感じられる。何よりも人間性を大
切にした、本来のコンピュータが持っている拡がりを実現しようとする菱先生
の思想が息づいていると言えよう。今回は東京大学小児科(以下、東大小児科)
菱先生に取材し、日本の医療におけるネットワークのあり方を考えてみたい。

道具としてのMacintoshと通信のためのARA
菱先生がパソコンMacintoshを使う目的は2つある。ひとつは医学的な現象を
数学的に理解する方法論を確立することであり、もうひとつはネットワークづ
くりによって、閉鎖的になりがちな日本の医学の世界を開放することである。
以降は後者に焦点をおいて話を進めていきたいと思う。そこでまず、いかに
Macintoshという道具が菱先生の考えるネットワークづくりに適しているか
をご紹介しよう。東京大学小児科ではMacintoshを使うのは医師だけでなく、
例えば事務担当の女性がイラストによるポスターを作成したり、“東大小児
科だより”という定期刊行物を作成するためにDTPとして使用している。院
内ネットワークを医師だけの世界にしたくないという考えを持つ菱先生は、
Macintoshを“女性や子供や年配者にやさしい道具”として高く評価し、さ
らに、同じアップルコンピュータ社の製品であるARA(Apple Talk Remote
Access)というネットワークづくりのためのソフトウェアをも高く評価さ
れている。実際、東大小児科の場合、インターネットを含む遠隔地のやりと
りは全てARAでつながっている。
「ARAはアップルコンピュータ社のface to faceの考え方が非常に良く表れ
たシステムです。次々とフォルダを開いていくと階層の構造が見え、相手の
意図することが伝わってくる。インターネットではWWW(World Wide Web
)という方式が圧倒的に人気がありますが、こちらは目録を追っていくこと
になり相手の構造がみえない。これではひとつの目的しか追いかけられませ
ん。ARAなら構造がわかりますから、他のファイルも見たくなります。そこ
が良いと思いますね。」
菱先生はネットワークづくりに対して確固たる思想を持っておられる。とい
うよりも、思想を実現するための手段としてMacintoshによるネットワーク
づくりを選ばれたと考えて良いだろう。

情報発信を中核にしたネットワーク構想
先にも述べたように、閉鎖的になりがちな日本の医学界の殻を破ろうという
のが、菱先生の意図するところである。そのために、一例として東大小児科
の全貌をネットワークを通じて世界中に知らしめようと構想を練られている。
平たく言うと、東大小児科を支える全スタッフが何を考え、何をし、何を課
題や問題としてとらえているか、を伝え、関心を持つ世界中の医療従事者と
意見を交換することを目的としている。そのための下地づくりは以前からな
されていたと言えよう。そのひとつには、東大小児科が開設100周年を迎え
た時に創刊された“東大小児科だより”が挙げられる。それは菱先生曰く、
“100周年を迎えた東大小児科に医師としての業績以外に何の記録も無かっ
たことを反省して”誕生した機関誌であり、今から100年後のスタッフに、
現時点で東大小児科の皆が何を考え、どんなことをやろうとしているかを伝
えるためのツールとして位置付けられている。だから3カ月に一度発刊され
る東大小児科だよりには、医師も看護婦も事務担当者も分け隔てなく登場す
る。それは100年後に東大小児科の人間的な記録として残っているはずなの
だ。そして一方でこの機関誌は、ネットワークにおける情報発信の材料のひ
とつとして、その構想の中に組み込まれているのである。

海外ネットワーク構想
もう一つの下地は、アジア各国を中心とする海外からの留学生が多いことだ。
東大小児科への短期留学生はここ6年間に60名近くにのぼる。
「短期留学生として来日した人達と通信ができれば、一挙にアジアの14〜5
カ国とつながるわけです。そして受信した人は、それを周囲の人達にみせて
欲しいのです。ネットワークによって我々のここに在る気持ちが外に出て、
モンゴルやネパールの人達に伝達できることは、すごいなと思いますね。」
このことは、今のインターネットでは困難であり、菱先生は現在のところ自
分達の意図を伝達するにはARA(Apple Talk Remote Access)が一番適
していると考えておられる。また東大小児科から欧米各国への留学もここ15
年で70名にも達する。“国際人にふさわしい言葉を持った”海外留学体験者
こそが、海外ネットワークづくりの原動力となり、さらにはインターネット
のサーバとしての機能の中核となってくれる、と菱先生は期待されている。
「今年、カナダに居る留学生とARAによる通信を実験的に始めるつもりです。
海外ネットワークの始動はその後のことになりますが、具体的なプランもお
およそ考えてあります。」この構想が実現すれば、Macintoshとモデムと電
話線さえあれば、図書館等の施設もないようなローカルな都市でも東大小児
科の治療方針を見ることができ、本当の意味での海外貢献が可能になるであ
ろう。

インターネットのサーバとして
インターネットにおけるサーバとしても、基本的に意図するところは同じだ。
つまり、医師であっても医学だけでなく様々な見解を公開していくこと、ま
た医師だけでなく東大小児科を支える全ての人達を理解してもらえるような
情報公開をめざしている。例えば東大小児科には、長期入院している子供達
の心身のケアと教育を意図してつくられた『めだかの学校』がある。それは
哲学研究室から生まれたのだが、部屋には子供達の好きな絵が貼られ、グラ
ンドピアノが置かれ、評判を聞いて、時には坂本龍一氏がゲストとして来ら
れたこともある。入院中の子供達をベッドの外へ出し、本物を見せることを
実践している『めだかの学校』は、内外からの評価も高い。だがそれ程多く
の人に認知されているわけではない。だから菱先生は、インターネットによ
って『めだかの学校』に象徴されるような東大小児科の思想や現状を公開し
たいと考えておられる。
「今ここで何がなされているか。例えば『めだかの学校』に飾られる絵のラ
イブラリーなど、できるだけ分かり易い具体的な情報をインターネットにの
せたい。それは日本人の感性ややさしさを世界中の人に知ってもらうことで
もあるんですね。」
少し話はそれるが、菱先生は去年の12月、インターネット上で開催されたよ
うな国際会議(前号のInteviewページで内容を紹介)に対しても、ありすぎ
る学会の整理と、学会に要する経費や時間の削減に役立つものとして高い関
心を寄せられている。

人間への信頼を土台にしたネットワークをめざす
菱先生は、医療におけるネットワークづくりで一番大切なことは人を信用す
ることだと言及される。自分の情報を盗まれたり、いじられたりすることへ
の恐れが閉鎖性を生み出すわけだが、東大小児科では全てが壊されたとして
も容認できるという準備を進めている。そこには先革者としての強い意志と
勇気が感じられる。
「全ての人が基本的な礼儀を知っていると信じ、開かれたネットワークづく
りをめざしてスタートしたいと思っています。今年の4月に東大では初めて、
小児科の学生実習室にMacintoshが入りました。“どうぞ自由に使って下さ
い”と投げだされているものは、案外大切に扱われるものなんですね。そし
てそこからも中味が見られ、医師たちが何をしているのかを把握できます。
ある部分は教授室からしか見られないということはありません。それはこの
小児科に医師同志がフランクに意見を交換し合えるという土台があったから
こそ、できたと思っています。」
ではここで簡単にMacintoshに収められている東大小児科の中味をご紹介し
よう。主なものは、研究の分野ではデータベースと様々なことに応用可能な
方法論、臨床の分野では患者情報と東大小児科での日頃の活動記録である。
無論、患者情報はセキュリティ管理がなされており、例えば共同研究などの
目的で許可をすれば、個人名を消した上で見せることになっている。

コンピュータに託される未来
菱先生はコンピュータの限界を知った上で、Macintoshというコンピュータ
が持つ思想を大変高く評価されている。コンピュータができたからこそ自在
に生理学を分析することができるようになったが、コンピュータは無限の問
題には答えられないし、概念もつくれない。しかし、概念に近づくことはで
きる。つまり、人が概念をつくり出す上で大事な契機を与えてくれる。これ
らのことを理解した上で“友人のようにつき合えるコンピュータ”であるM
acintoshの持つ思想に感銘を受けたと菱先生は語られる。
「ここ東大小児科のMacintoshには、普通、病院で使われているコンピュー
タにはインストールされていないようなソフトウェアが沢山入っています。
その理由のひとつは、医者以外のいろんなひとにも、使ってもらって全てを
見せられるものにしたいからであり、もうひとつは、医師の心を形成してい
る様々な領域を引き出して表現してみせたいという気持ちからなのです。ま
た、知識の均一化を図る意味もあります。Macintoshの良さは手元にあると
いう事で、これが非常に大切だと思っています。ホストコンピュータに操作
されているだけの端末機ではない。こういうコンピュータが、人がつくって
いる虚構を打ち破って、多くのものを発見するに違いないと考えます。そこ
に未来を託せるやさしさを感じるのです。」
インターネットがこれだけ注目を浴びていることを見るにつけても、菱先生
のいう“虚構を打ち破る”時代はそこまでやってきている、といえるだろう。
その時、コンピュータがいかに多くの人間に多くの幸せを与えられるか。東
大小児科では、この課題に対して明確な回答を持ち、その考えに基づいて着
実に実現への道を歩んでいる。

インタビュアー:大伸社 吉田 紀子

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Edited by Toshio Hishi