宇宿 允人(指揮者)
神のような音を出す・・・。演奏を聴いた人の心を捕らえて離さない宇宿允人は、奇才の指揮者と言われている。
はじめてフロイデ・フィルハーモニーの演奏を聴いた日、訴えかける響きの迫力と共に例えようのない哀感と郷愁を感じて、その想像を遥かに超えてしまった。100人近くのプレーヤーが演奏をしている筈なのに、その100人がまったく一つの身体を共有しているように呼吸がぴたりと合わさり、巨大なエネルギーの塊が一気に動いているような躍動感と音から音への一瞬の間の静とのコントラストが見事で、息もつけぬほどだった。演奏が終わった瞬間、他の演奏会でかつて聴いたことのないような唸るような拍手の嵐だった。
宇宿允人はフロイデ・フィルハーモニーを率いる指揮者である。1982年東京芸術音楽協会を組織し、その年の10月、「宇宿允人の世界」の第1回演奏会を開催した。当時はフィルハーモニアTokyoというオーケストラであった。以後、97年6月に100回を数える演奏会を行い、今年1月、フロイデ・フィルハーモニーと名を改め、多くの宇宿ファンを魅了し続けてきたのである。
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杉並の閑静な住宅街に宇宿允人の家がある。青々とした樹木に囲まれた、年月と風格を感じさせる裏木戸を開けると、家屋が2つ建っていた。宇宿はその一方の「離れ」で生活をしている。
楽譜の棚とピアノと、大きなテーブルが存在感のある離れは、エアコンが気持ちよい風を送る音だけが機械的な音を立てていた。
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宇宿允人は1934年に京都で生まれた。子供時代の宇宿はガキ大将で、何事も人に負けることが嫌いだった。常に「悔しい」という気持ちを持ち続けていた。
『小学校のときに学校の宿題を忘れてしまったのです。そのときに限って、黒板に答えを書けと先生に言われましてね。
同じクラスにいつも勉強ばかりしている米屋の息子がいて、家に遊びに行くと彼はいつも山と積まれた米俵の陰で小さな30Wくらいの電気の下で勉強しているんです。頭がでっかくてね。ほとんど同級生の名前は覚えていないのに、なぜかその米屋の息子の名前だけは覚えているんですよ。
私は結局、問題の答えを書けなかったんです。その後に指されたのが米屋の息子で、彼は見事に答えを書いたんですよ。その時に私は先生から、「彼の爪の垢を煎じて飲んだほうがいい」と言われたんですね。悔しくて悔しくて、今でも覚えていますよ。しかしその悔しさも、今の私のバネになっていると思います。「お前はバカだ」という言い方をされるより、同級生と比較されたことは悔しかったですね。小学校4年のときで、人間の感情が露骨にわかるときですからね。』
中学時代は、バレーボール、軟式テニス、野球、ありとあらゆるスポーツをしていた。中でも走ることはどんなことよりも得意だった。
『走るときに、自分より前に人がいるのを見たことがないんですよ。3年になって編入してきた奴が陸上部に入ったんです。いかにも足が速そうで、土踏まずがグッとくびれていてね。そいつに追い抜かされたんですよ。最後の決勝の時に、はじめて自分の前に走る人間を見たんです。そのことも今でも忘れられないくらい悔しい出来事でした。しかし、小さな頃に運動会で負けたりした些細なことがその後の人生も「よし負けるものか!」という気持ちにさせるんです。』
宇宿が音楽に興味を持ったのも、実はその頃だった。
『ブラスバンドを始めたのもちょうどその頃だったんです。私達の小さな頃は戦争時代で、男は男らしく、女は女らしく、といった育てられ方です。音楽をやっている男は、女々しいと言われた時代です。だから音楽は好きでしたが、ブラスバンド部に入って初めて音楽をしたようなものなのです。担任の教師からは「音楽なんてやめろ。君はクラス委員もしているんだから立派な大学に入って勉強するんだ。」と言われていましたよ。』
そして実際に将来の希望として音楽の道に進むことを決めたのは高校2年の時であった。なんと晩学でのスタートであった。しかし、音楽という芸術の一分野に足を一歩進めたのも幼い頃からの宇宿の習慣や感性からして、必然だったのであろう。
小さな頃から父親と共に、月に3度、7のつく日には必ず比叡山に登っていた。山の頂から見る雄大な空、風とともに流れゆく雲、途中の道々で見かける小さな草花、路傍の石、その自然の全てと、延暦寺の風情ある佇まいとが、宇宿の幼な心に芸術家の種を蒔き続けていた。
宇宿がまだ小学生だった頃に一番上の兄が戦死したことも、その後の宇宿の心に大きな影響を与え続けた。宇宿は自由闊達な少年であったが、人の何倍も繊細な感情の持ち主であったから、生命の尊さをなによりも重く感じていたのである。
『高校の音楽コースに入ったら、みんな真っ黒な譜面(音符の数が多いということ)を見てピアノを弾いているんです。とにかくそれにショックを受けて、私はバイエル(ピアノの初級者のための教則本)から始めました。音楽大学を受けるなんてその頃の自分にはとんでもないことだったんです。遥か宇宙に飛び立つようなものだった。しかし、ここで負けてはいけない。なんと10日間で106番まで弾けるようにしたんです。次のレッスンのときは最後まで完璧に先生の前で弾きました。先生は非常にびっくりしていましたよ。バイエルは真ん中から加速度がついたように難しくなるんですが、きちんと音楽的に弾きましたよ。そしてバイエルが終わってすぐに、ソナタ(ピアノの中上級程度の教則本)を始めたんです。ベートーヴェンの「悲愴」も弾きました。しかし、まだまだ準備不十分で、芸大を受けるなんてとんでもないことだったんですよ。戦争中の特攻隊みたいなもんですよね。私はそういう感じで東京に受験に来たんです。』
それでも東京芸術大学の入学を果たして、意気揚々とした宇宿に運命の出会いがあった。その出会いとは、数々のオーケストラを創立してきた音楽界の大御所である近衛秀麿氏との出会いであった。
『そしてそのあとに近衛先生にお会いできたのですが、「芸大?あそこはだめですよ・・・」と言われてしまったんです。私は顔をバンバンと何発も叩かれたようなショックでした。それから近衛先生の書生のようなことをさせてもらったのですが、そうしながら学校に行くと、学校がいかに程度の低いことをやっているのかわかったのです。
近衛先生に「先生、僕は指揮者になりたいんです」と言いました。そうしたら、笑いながら、「地下足袋を履いて土方になりなさい。そうすれば土方は使えます。」と言って、すーっとその場からいなくなってしまったんです。
一瞬、何のことかわからなかった!!しかし、よくよく考えてみたらオーケストラのプレーヤーになることなんだとわかったんです。つまり「現場を踏むこと」だったんです。オーケストラのプレーヤーになるには、まず芸大を首席で卒業しなければならないんです。私はそれで「よし、1番になる!」と心に決めました。幸いに、なんとか首席で卒業しました。しかし本当は、どこの学校を卒業したとか、どんな賞をもらったとか、そんなことは本質的なものではなく、音楽とは、芸術とは、もっともっと奥深いものなのですよ。』
当時、日本のオーケストラの管楽器は、ほとんど陸海軍に抑えられていた。陸海軍の音楽隊の出身者がNHK交響楽団の主要メンバーであった。
宇宿が近衛管弦楽団を経てN響の首席トロンボーン奏者になったのは、1960年のことであった。一般にはとても魅力的なポストであったが、何故か10年後に指揮者として再出発することになる。
『それは日本の音楽界、並びに日本の音楽教育の将来に、疑問を持つようになったからです。それならば日本の音楽界を変えるためには、どういう勉強をすればいいのか?指揮をしたいから指揮者になったというより、音楽界を見直すために指揮者(指導者)としての道を選んだのです。
N響にいたころは、給料も良かったし、何よりゆったりと演奏活動はできました。しかし周りを見回すと、日本のオーケストラはピンからキリまである。N響だけでなく、他のオーケストラもレベルアップしなければいけないと私は考えました。近衛先生に「指揮者になりたい」と私が言った意味はそういうことなのだと、はっきりその時にわかったのです。』
そして「宇宿允人の世界」が幕を開くことになる。
スポンサーを持たないオーケストラの活動を続けるため、宇宿は自ら陣頭に立った。スポンサーを持たず、オーケストラのコンサートを100回以上も続けることはまさに至難の業であった。100人からなるオーケストラは、想像を絶する苦労を伴う。
今年の春には朝日新聞に、資金が尽き今後の演奏会活動が危ぶまれる、との記事が掲載され、多くの人の反響を呼んだ。その記事の中には "「神のような音を出す人」と絶賛するベテランメンバー、涙する愛好者がいる一方で、団員への暴言は数限りなく、悪評たらたら。「クラシック界一の奇人」とも言われてきた・・・・" というくだりがあった。
実際の宇宿は、コンサートマスター級の演奏者と学生の演奏者を、経験や身分の違いで差別することは全くない。どちらに対しても、音楽を真摯に追究していなければ「諫める」のだ。それは音楽的にはもちろん、物事の本質を追究するに他ならないのである。
『オーケストラの楽団員は、良く言えば個性的、悪く言えば奔放で無軌道な人間たちです。そういう人達をまとめるには、穏やかにやるのか、その人達以上に強烈にやるのか、どちらかと言われたら、やはりその人達以上に強烈でなければ人様を感動させる音楽を作るなんてことは不可能なんです。
私はいつもメンバー全員を怒っているようなイメージがあるらしいのですが、決してそんなことはないのです。しかしテレビや新聞で取り上げられると、私が怒っているところしか取り上げない。
取材はとても恐ろしいと思いますよ。読み手も、人の不幸は面白いんでしょうね。だから3面記事がいつまで経っても繁盛するんですよ。(笑)』
4月に新聞記事が掲載されたその日中にチケットは完売になった。しかし、必要以上に揶揄があったことも事実だった。
『電話で「4月にオーケストラは終演と言ったじゃないか」と抗議があったんですよ。朝日新聞に掲載された記事についてです。「終演と言ったのは嘘だったのか。終わると言うから切符を買ってやったんだ」と言うんですよ。しかもそれだけ言って、自分の名前も言わずに電話を切ってしまうんです。本当に信じられないことですよ。
そうかと思うと、「4月の演奏会の時のテンポが自分の趣味に合わなかったから、ダイレクトメールは今後一切送ってくれなくていい」という内容の電話をしてくる人間もいる。そんなものは個人の趣味に過ぎないじゃないかと言いたいですよ。
演奏会を聴きに来る人たちの中には、芸術家宇宿と違った面を見たいとか、苦悩している宇宿個人の生活面を見たくない人、さまざまな人がいます。テレビや新聞で取材を受けている私の違う面(苦悩している宇宿の私生活)を見たくないという人もたくさんいます。演奏会の最後に、私の声を聞きたいという人と聞きたくないという人も、はっきり二分されています。指揮者は喋らないほうがいい、偶像視していたいという人はたくさんいますよ。
中には、「先生の演奏会に人が入らないほうがいい」と言う人までいます。何故かというと、「人が入らなければ、いつでも好きな場所で聴けるから・・・」と言うんです。席を曲に合わせて好き勝手に移動ができないから人がたくさん入ると困る、というばかげたことを言う人間もいるんです。なんと中野区の教育委員ですよ。「全席のチケットを買ってくれるならば、好きなように移動してくださって構わない」と私は答えました。
ある人は2階の招待席に座っていたんです。「そこは招待席ですので・・・」と席の移動をお願いしたら、「チケットには全自由席と書いてある、どこに座ろうと自由じゃないか。大声で怒鳴るぞ!」と言うんです。とても悲しいことです。まったく、開いた口が塞がりませんでしたよ。』
ここまで聞いて、震えが止まらなかった。これが現実なのである。いったい人はどういう権利や思考でそんなことを言えるのだろう。チケット代を払っているからというそんな単純な理由だけで、そういう苦情は成り立つのだろうか?演奏を聴く側にもそれなりの姿勢がなければ、音楽の感動を味わうことは全く不可能なのではないだろうか?
『「こどもをオーケストラに連れてきていいのか?」と悩む親御さんは多いようですが、こどもの時からそういう場所に連れてこないと、大人になってからマナーがわからないんです。会社の経営者の人ですら、Tシャツ1枚で招待席に座ってしまう。会場は空調がきちんとされている。もちろん人がたくさん集まっているわけだから、暑いかもしれない。しかし演奏者は燕尾服を着ているんです。それなのに聴衆はTシャツで来る。演奏会は「儀式」なんですよ。日本人ももう少し、パーティや社交の場に慣れてほしいと思います。
文化放送のレポーターが、「先生、今はクラシックのコンサートは自由な雰囲気でいいんですよね!スニーカーで来てもいいんじゃないんですか?先生はどう思いますか」って言うんですよ。私は「儀式だと思っていますよ」と言ったんです。続けて、「これは冠婚葬祭と同じです。お葬式の時に、ジーパンで参列しますか?」と言いました。オーケストラをカジュアルに・・・と言ってしまったら、ステンレスでできた犬や猫の食器も洗剤で洗いさえすれば人間がそれでご飯を食べられる、水洗便器で食器を洗っても同じことになりますね。』
更に、宇宿はこう続けた。
『悲しいということのどん底ですよ。しかし、これが世の中なんです。世の中の50%の人が精神的に病んでいると思います。そして45%の人は優柔不断で、どちらにも転がる。残るたった5%のひとつかみの人だけが、本当の意味で世の中を引っ張っていくリーダーになるんですよ。働きアリにしても働きバチにしても同様なんです。
私は、物事をまず悲劇に落とすんです。悲観的に考えるんですよ。そしてその中から這いあがる。その時の力強さを音楽として表現しているんです。
今の芸術界は、ある先生の門下であったら、他の先生の門下になってはいけないという風潮があるんです。道をはみ出したら、破門になるんですよ。
幼稚園の子供でも、小学生でも中学生でも、音楽が好きで素直であれば、みんな伸びるんですよ。伸びないのは、ただひとつ、指導者の責任なんです。「どうして?」という質問にきちんと答えを出せる指導者がいないからです。
学校の勉強や、かけ算の九九を覚えるように、丸暗記で音楽をやったりする。それは全くの誤りなんですよ。だから、楽譜を本当の意味で読めていないんです。「なぜ?なぜ?なぜ?」という気持ちを常に持たなければ、本当の意味の演奏はできません。
税務署に行っても警察に行っても、全てのことで「法律で決まっているから」と言われますよね。「その法律が間違っていないですか?」と私は思うことがよくありますよ。日本の国は共産主義よりもっとすごい社会主義ですよ。きたないものに蓋をして、見ないようにしている日本人特有の精神が、私はとてもイヤなんですよ。歴史を、消そう消そうとしている。とくに痛ましい出来事の歴史は見ないようにしているんです。それが過ち(戦争)を繰り返すのです。世の中の事には、法律も含め、良い意味で疑問を持つことが必要なんです。』
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オーケストラの楽団員用の楽譜は、すべて宇宿の手作りである。空間の空いていない市販の楽譜から、一段ずつ、拡大コピーして切り貼りしていく。しかも、譜めくりの時に演奏に支障を来さないよう、各パートの休みの箇所を、めくりの場所に当てている。奏者の目に優しいように、ほんの少しクリームがかった色の紙を特注している。練習の時に、散らばった楽譜を集めてもすぐにパートが分かるように、パート毎に表紙の色を変えているetc・・・。そこには並々ならぬ配慮がされていて、その細やかさに溜息が出た。
楽譜のファイルケースもすべて宇宿の手作りだ。一分の隙もないほどきれいに作られているそれは、蛇腹式で、収納する楽譜が増えていっても大丈夫なように形作られている。
庭の木々や石畳、楽譜室、家の本棚、浴室、下水、家の門は杉を使って京都の庭園のような作りで、これら全て宇宿の手作りなのである。家の中で手を入れていない箇所は畳くらいだという。何事にも興味を持って自らやってみるということが、宇宿允人の音楽の根底にあるのだろう。
『アイロンがけも洗濯も、全部自分でやりますよ。人のものだってやりますよ。奥さんがやらなきゃいけないなんて法律ないでしょ。でもね、私は自分の布団が汚いことなんて問題じゃあないんですよ。自分については全然気にならないから、よく娘には注意されますよ。
自分で使える自由時間内には、できるだけ生活の努力をしたほうがいい。それは物事の本質を見つめるということに於いて、最も大切なことなのです。』
人を信じる、疑ってもやはり信じる。宇宿の心にはどんなに汲んでも汲んでも汲みきることのできない愛情の深い大きな井戸があるような、そういう真の芸術家としての計り知れない、人や事物への思いを感じてならなかった。人並み外れた愛情があるからこそ、怒りも尋常ではないのであろう。
インタビューのその晩も、演奏を聴いた日と同じように眠れなかった。重すぎて大きすぎて、頭の中でぐるぐると渦を巻いているようだった。何かの機会を与えてもらったような、この話のひとつひとつをこれからきちんと咀嚼していかなければいけないことを痛切に感じた。(インタビュアー 三上敦子)1998.9
宇宿 允人の世界 フロイデフィルハーモニー演奏会Interview top page にもどる
第113回 1998年10月22日(木)7:00pm モーツアルト・クラリネット協奏曲
フランク・交響曲二短調他東京芸術劇場 第114回 1998年12月26日(土)7:00pm スメタナ・交響詩「モルダウ」
チャイコフスキー・交響曲第5番他東京オペラシティコンサートホール 第115回 1999年3月3日(水)7:00pm シューマン・交響曲第1番「春」
シベリウス・交響曲第2番東京芸術劇場 第116回 1999年5月30日(日)6:00pm マイスタージンガー・カルメン組曲・こうもり序曲
舞踏への勧誘・「展覧会の絵」ほか東京芸術劇場 第117回 1999年7月7日(水)7:00pm シューベルト・交響曲「未完成」
シューベルト・交響曲「ザ・グレート」東京芸術劇場 第118回 1999年9月18日(土) 東京芸術劇場 宇宿允人の世界
inかつしか1999年11月13日(土)6:00pm ベートーベン・交響曲第4番
ベートーベン・交響曲第8番かつしかシンフォニーホール 宇宿允人の世界
inかつしか1999年12月25(土)6:00pm ベートーベン・交響曲第9番「合唱付」 かつしかシンフォニーホール
「宇宿 允人の世界」LIVE CD発売中
モーツアルト
ブラームス交響曲第35番ニ長調「ハフナー」
交響曲第1番ハ短調ベルリオーズ
シベリウス
チャイコフスキー序曲「ローマの謝肉祭」
交響詩「フィンランディア」
交響曲第4番へ短調。 モーツアルト
ブラームス交響曲第40番ト短調
交響曲第2番ニ長調「 チャイコフスキー
フランク幻想序曲「ロミオとジュリエット」
交響曲二短調」 シューベルト
ベートーヴェン交響曲第8番ロ短調「未完成」
交響曲第5番ハ短調「運命」、 モーツアルト
モーツアルト
ドヴォルザーク歌劇「後宮よりの誘拐」序曲
交響曲第25番ト短調
交響曲第9番ホ短調「新世界より」・ ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調「合唱付」 ヲ ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調 、 グリーク
チャイコフスキー「ペールギュント」組曲
組曲「クルミ割人形」
宇宿允人プロフィール
1957年東京芸術大学器楽科卒業。翌58年より10年間に渡ってNHK交響楽団の首席トロンボーン奏者として活躍する。その間、指揮法ならびに管弦楽法を学ぶべく、近衛秀麿氏に師事。1969年9月より、大阪フィルハーモニー交響楽団の専任指揮者に就任する。70年10月には、大フィル定期演奏会に於いてベートーヴェン「ミサソレムニス」で、大阪文化祭賞を受賞。同年、ヴィエール室内合奏団(関西フィルの前身)を結成し、続く71年にはヴィエール室内合奏団定期演奏会で、再び大阪文化祭賞を受賞する。一方、 1975年よりヨーロッパのオーケストラにも客演指揮者として招聘され、76年ルーマニア音楽祭に出演した際には、アンコールが 1時間にも及ぶ演奏になり、会場を興奮と絶賛の渦に包み込む。以後、関西を中心に精力的活動を続け、ウィーンフィルの首席奏者達をはじめ内外のソリストとの共演も多い。又、バレエ音楽 3幕4場「ゆき女」をはじめ小品の作曲と数多くの編曲を手がけ、レコード、ライブテープの作品は独自の世界を切り開いていると高く評価されている。 82年、東京芸術音楽協会を組織し、フィルハーモニアTokyoを指揮して「宇宿允人の世界」と題する定期演奏会をスタート。その活動は多くのファンによって支えられ、97年6月までの15年間に、実に 100回を数えるロングラン演奏会を成功させている。 そして 1998年1月、フロイデフィルハーモニーとその名を改め、より多くの音楽ファンに向け「宇宿允人の世界」を広めるべく、その第一楽章を奏で始める。
以下はコンサートパンフレットに掲載されていた
フロイデ・フィルハーモニーの支援のお願いです。
敢えてこの紙面に、その文面のまま転載させていただきます。
ご支援お願いいたします!
「宇宿允人の世界」存続のための趣旨にご賛同いただけましたら、下記の項目を一例としてご参考いただき、末永く、継続してご協力賜りますようお願い申し上げます。尚、年間の会場費に相当いたします1,000万円を、皆さまからの存続支援金としてご寄附いただき充当させて頂けましたなら、心強いこと他ございません。個人一口1,000円、法人一口10,000円からを目安に、ご都合のよろしい時に毎月のお小遣いの中から等、ご自由な形でお送りいただければ幸いです。これから予定されておりますコンサートも無事に開催できますよう、皆さまのご協力を、切にお願い申し上げます。尚、9月1日現在まで800名の方々より心暖かきご支援をいただいております。心より感謝申し上げます。
記
1.上記のとおり、活動資金としての存続支援金をご送金いただく。
お振り込み先
郵便振り込み 00160ー0ー29589
名義 フロイデフィルハーモニー存続支援金口座
銀行振り込み 第一勧銀 浜田山支店 普通口座 口座番号1658570
名義 フロイデフィルハーモニー存続支援金口座
2.さらに、もう一人お客さまを紹介していただく。
3.プログラムへの広告掲載(一口5万円より・サービスチケットの特典がございます)のご紹介。
4.チケットをまとめて購入くださる法人・グループのご紹介。
5.インターネット・E-mail等を通じ、情報を発信してくださる。
連絡先及びチケット申込
〒168-0072 東京都杉並区高井戸東2-19-14
東京芸術音楽協会
TEL 03-3333-7278 FAX 03-3333-2333
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