子供達の受難の時代-希望なき政治を改革したい-   衆議院議員 あべ ともこ

<お礼とご報告>
 選挙戦に挑むこと三回、お陰様で先の衆議院議員選挙で社民党の議席を得て、国政の場に臨むことになりました。
 初回は平和:市民という新党の全国比例区候補、二回目は神奈川県の地区候補として、共に参院での議席の確保を目指しましたが、相次いで落選、今回は神奈川十二区(藤沢市・寒川町)で衆議院選挙を闘いました。
 政治を変革したいと願ったのも小児科医として診療経験からですし、現実にそうした志を理解し支えてくれたのも母校である東大小児科医局の存在です。
 子ども達や社会への基本的視点を教えてくれた東大の小児科に更めて心からお礼申し上げ、またこれからこの医局に集い学ぶ若い皆さんに熱い期待を込めてこの一文を書きしたためます。

<政治へのきっかけ>
 私が入学したのは1968年、丁度「東大闘争」と呼ばれる激しい学生運動が始まる年でした。カエルの解剖実習は突然にクラス討論に変わり、実験室ではなくて駒場の噴水横の芝生が教室となりました。誰もが「学生であること、医者になること、そして学問とは」等を自分自身に問いかけざるを得ない雰囲気が満ち満ちていました。いわゆる団塊の世代、全共闘世代と後に呼ばれるようになる私達の年代は、世界中のあちらこちらでこのような問いかけを行っていました。
 こうした大きな運動の波がひいて、学校でも日常的に授業が行われるようになってからも(1970年以降)、私自身は台湾からの留学生であった 彩品さん(現在は中華人民共和国で国会議員を勤め、天安門事件では学生の側に立って非民主的な中国政府を批判)の在留許可を勝ち取る運動や在日朝鮮人二世三世の押捺拒否の運動の支援に朝から晩まで駆け回っていました。
 当然授業はほとんど欠席、大変不真面目な学生でしたが、いわゆる社会勉強(フィールドワーク?)は人一倍させてもらいました。
 日本人である自分と近代日本と極めて関わりの深い在日中国・朝鮮人の現実の存在を通して、差別・被差別の立場の違いを教えられたように思います。

  <医学部への進学と小児科への道>
 どの科目もギリギリの点数を取り(しかし何故か見田宗助先生の社会学だけはAでした)、本郷に進学してからも社会勉強三昧の日々でした。当時精神障害の方々の置かれた療養環境をより人間的なものにするための解放病棟運動に学生ボランティアとして参加したり(赤レンガ病棟が拠点でした)、未熟児網膜症や大腿四頭筋短縮症といった子ども達を犠牲にした大きな医療被害問題で、親御さんたちや先輩医師達が小児科学会を揺るがす運動をしておられるのを経験したり、とにかく弱いもの・小さいものが医療の中ですら虐げられている現実を何とか変革していかなくてはならないと強く思ったものです。
 ”火事場の馬鹿力”で合格したと言われる医師国家試験(実は私の実力・学力の無さを心配した同級生が特訓学習コースを組んでくれて、その山が当たったのだと思いますが)を経て、精神科医局に1日のみ入局し、何故かさっさと小児科への転籍を決めたのが東大小児科医局と私との御縁の始まりでした。

<東大病院小児科病棟>
 精神科の赤レンガ病棟には学生時代から出入りしていましたが、小児科の病棟は研修医として始めての”職場”でした。
 ボランティアとして精神障害者と呼ばれる皆さんと付き合うことと、医者VS患者という上下の関係で相手と接することの違いに大きな違和感を覚えて精神科から逃げて来たのですが、そもそも大人と子どもという絶対的力関係の差のある小児科医という仕事なら、より素直に「子ども達のために何が出来るか」と考えることが許されそうな気がしました。
 そしてまた東大の小児科ではお母さん達が付き添うことが原則でしたので、若い未熟な医師である私達はむしろお母さん達の視線にビクビクしながら、必死になって医師としての腕を磨こうと努力していました。
 すでに亡くなられましたが、94歳まで鎌倉市内で診療を続けられた養老先生(養老先生の御母堂です)が入局したての新米医師の頃に、「まず聴診器を持たずに病室に行ってご家族にお話を伺ってくるように」と当時の教室主任(弘田教授でしょうか?)から指導されたそうですが、そんな風土が教室のどこかにしっかりと根付いている医局だったと思います。
 私達もまた1日も早く上手に採血や注射が出来るよう(子ども達はもちろんのこと、親御さんの信頼を得るにもこれは大きい)、そして亡くなっていく子ども達の死を親御さんと一緒に「ありがとう」と感謝しながら送れるだけの確信を持つべく、研修に追われる日々でした。けれども実際には研修医時代にはただドタバタと言われるものを取りに走るのみでしたが・・・。

<小児科医としての画期点>  大学での研修終了後に長女を出産し、1年あまりの闘病生活(医療ミスによる産褥熱から骨盤腹膜炎、子宮穿孔となりました)を経て再び小児科医師として復帰出来たときに、本当に心から職業として小児科医師を続けていこうという覚悟が出来たように思います。
 特に優秀だった私の同級生達(菱先生、山中先生、林先生、田村先生などなど)はとうの昔にそれぞれ第一線で活躍されていましたが、私は1周も2周も遅れまして子持ちの再スタート、自分は自分と思い定めて、また医師として復帰できたことを幸運と思い、稲田登戸病院での仕事に励みました。その昔、結核の療養病棟であった登戸病院は裏山に咲く桜の美しい古風な病院でしたが、特に看護婦さん達が子連れの私をよくカバーしてくれて何とか一人前の仕事が出来るようになりました。登戸病院で生まれた次女を抱っこ、長女をおんぶして夜中の点滴差し換えに坂道を登ったりしたのもなつかしい思い出になっています。
 登戸病院から国立小児病院、そして卒後10年近く経って1983年の暮れに再び大学の医局の助手として戻り、約10年間今度は若い研修医を教える立場を務めることになりました。

<子ども達の教えてくれたもの>
 文部教官助手(特に病棟助手)としての仕事は自分も病棟の患者さん達を受け持ちながら、研修医の指導に当たるのですが、大学病院で出会った患者さん達は実に東大小児科ならではのユニークな子ども達ばかりだったなと今更に思います。
 今も病棟に健在のやっくん、もっくんはもちろんのこと、いろいろな思い出を残してあの世へと旅立っていったたくさんの子ども達、どの子も思い出す都度にドキッとさせるような、或いは胸にズシッと響くような仕種をしていたと思います。
 またその子達を支えるお母さん達も横綱級ばかり、びしっと度胸がすわってただ黙々と脳死に近い我が子をひたすら看護していたスー君のお母さんをはじめ、東大病院小児科病棟が生んだ個性ある親子の姿は数え切れないほど。
 私が大学に帰ってまもなく、厚生省に「脳死研究班」が発足し、その頃に病棟にいたのがスー君のお母さんであったことも私が脳死移植反対の立場を鮮明にしなくてはならないと決意した大きな理由でもありました。
 スー君以外にも東大小児科には限りなく脳死に近い子ども達が闘病の日々を送っていたこと、そしてその子達を殺してまで、他の子どもを救うべく、臓器を提供させることなど絶対やってはならないこと、この当たり前の事実を忘れた医療や政治の流れは、しかしこれ以降ますますその動きを強めて、ついには三年前に日本でも臓器移植法が成立したのはご承知の通りです。もちろん本人が臓器提供の意思をあらかじめ表明(ドナーカード)した場合という限定付きですが・・・・・・・。

<子ども達の受難>
 私が当選した今国会では、この臓器移植法の見直し、とりわけ「子どもからの臓器提供」を可能とするために小児の脳死判定基準の作成と親の意思による臓器提供へ道を開くこと(本人同意をはずす)も検討されると伝えられていますが、目下のところはっきりした厚生省からの動きはありません。
 脳死・移植問題が世界中で問われたから約30年以上経ちましたが、この間ふたつの大きな変化が起きていると思います。ひとつは脳死下での臓器摘出時には血圧や脈拍の変動を伴うため麻酔を用いることが推奨されるようになったこと、もうひとつは既に脳死臓器移植が定着したと言われる欧米でも果たして脳死を科学的に死と判定しうるか否かに疑義が持たれ始めたことです。
 今年の初旬に小児科病棟にお招きしたロスのUCLAで小児神経の教授を勤めるDr.アラン・シューモン氏も小児の脳死研究を1980年代始め頃から続けられる中で、脳死判定後も子ども達が成長を続け外界への反応を示すようになる事例を紹介してくれたように、脳死と言われる病態は依然未知なのだと思います。
 その子達の臓器を親の意思によって摘出する時、果たして子ども達の体に走る痛み以上に、子ども達の心が最後の別れの瞬間に親からすら大きく裏切られることになるのではないかと案じます。
 これまで病棟で出会った多くの子ども達は、子ども達なりに死を受けいれ、果敢に未知のあの世へと旅立っていきましたが、何故か今わの際に涙を流す姿をよく目にしました。
 そうした別れの涙すら残すことなく、手術場での死が訪れる、それが脳死からの臓器提供です。
 何としてでも、親の手による臓器提供に道を開くことだけは止めたいと思います。

<閉塞の時代の中で、希望とは>
 そして不思議なほどに、今は政治の場でも子ども達が”狙われている”と思います。
 学校現場での日の丸・君が代の斉唱の強制(国歌・国旗法)に始まり、今国会では相次ぐ青少年犯罪に対して少年法の改正(厳罰化)、学校教育でのボランティア義務化(なんだか言語矛盾)等々、とにかく抵抗権・選挙権のない子ども達を狙って、「国好みの青少年」作りが政治の最大限目となっているように思えます。
 子ども達の犯す犯罪は、神戸の中学生によるとされる小学生殺害・首切り事件を頂点に次々とそれと残虐さを競うような事件の都度、新聞やマスメディア報道をにぎわせています。バスジャックや大分での一家殺害など14歳から17歳は犯罪多発年齢としてまるで予測不明の危険年齢のように扱われいます。
 また一方で不凍港から引きこもり、或いは拒食障害など、この年齢の子ども達の示す現象はすべて陰に現代社会の最大テーマとして語られ、いじくり回されようとしています。
 子ども達が何故言葉を無くし、本音を語らず、何に苛立ち、己を責め、親を責め、引きこもるのか、その根本を見返すことなく、さらにがんじがらめの中に青少年を押し込めようとする国日本。
 今の日本の子ども達が「やり直しがきかない」と早くに自分を諦め、「どうせ自分はこれほど」と自尊心を無くし、長い目で見た希望を持とうとしないとしたら、問題は間違いなくこの社会、とりわけ政治にあるのではないでしょうか?
 政治は未来を示すはずのもの、けれども隣国の金大中氏が願ったような南北統一の夢や、かつての米国キング牧師が語ったような人種差別撤廃にむけての希望に類するものが日本の社会からも政治からもすっぱり抜け落ちているのです。

<日本の未来像>
 冷戦後の世界構造の中で、そして我が国での五五体制といわれる保革の政治対立の終焉の中で、日本が目指すべき社会・経済・政治のモデルを私自身はヨーロッパの社会民主主義に求めました。
 男性と女性が互いに支え合い、環境を大切に社会的な公正や差別の解消を目指す、そうした抽象的な理想を大枠にして、より具体的な像を我が国で求めてみたいと考えました。
 何よりも現在一千万人と言われるフリーターの若者、或いは増え続ける不登校をすべてマイナスイメージで語るのではなくて、新しい社会の仕組み、働き方、男女の役割等々をもっと積極的に打ち出すべきだと思います。
 たとえば不足する小児科医師、激変する小児科診療の問題も、医療を経済効率万能に貶めた時代のツケですし(採算・不採算の天秤)、女性医師達が働き続けられる条件を積極的に作ってこなかった日本の医療界の怠慢でもあるでしょう。
 少子化問題の背景にも、効率や外的に経済評価をされるものに重きを置いた時代に生きる女性達の選択の結果をみる気がします。
 子育てをわずらわしいと思う母親が増えたことも同根かもしれません。その結果の幼児虐待が我も我もとテレビ画面で告白合戦になるのも異様です。
 私は仕事柄もまた個人的体験からも、女性達には「子どもを育てる」経験をしてほしいと思います。もちろん男性にもですが・・・・・・・。
 幼く絶対的保護を求め、また決して自分の思い通りにならぬ生き物としての子どもを育み育てることは社会にも個人にも必要な経験です。

<日本の文化の中で>
 社会の大枠を欧米型社民主義に求めたとしても当然、根のないところに花は咲かないの例の如く、文化の根が必要です。
 その根を教えてくれたのが実は東大小児科での、母子・父子の闘病の姿であるように思います。
 我が娘の生命が後数日と覚悟しつつ、中庭で来春に咲く球根を次々と必死に植えていたお父さんの後ろ姿には四季の中で生き死を受容してきた日本人の姿が重なります。お母さん達は顔変わりした我が子をそれでも必死に愛しんで最後の瞬間まで懐深く抱いているかのようです。
 時々訪れる小児科の病棟には、私が辞した後も同じように続く親子の風景があり、ふと時間の流れを忘れるように思うときがあります。
 この子ら達のためにも政治を良くしたいと思います。
 「先生、がんばって」と言ってくれた子どもの声を背に、二十一世紀の幕開けに新しい息吹をつくりたいと思います。
 皆さんもどうか東大小児科で学ぶことの誇りを胸に、しっかりとがんばってください。
(あべ ともこ 昭和49年入局)
「東大小児科だより」56号より 2000.9


菱 俊雄