小児医療における人間化とは

はじめに

 病気の子どもを前にすると、いとおしいほどにかわいいと思うことがある。私は子どもが好きだし、かれらが次の時代の思潮を創るものと信じている。医師になって13年、毎日子どもをみながら暮らしている。若いころの2年間、浜松の病院に勤めた以外は、すべて古びた煉瓦づくりの建物のなかにある東大小児科で過ごしてきた。病院はまるで明治時代をひきずっているような高い天井の古風な造りである。薄暗い病室の窓からは、四季折々に姿を変える欅の大木がみえ、東京とは思えぬほど高く透んだ空が眺められる。病室には医療機器が近代装備され、10台近いモニターと7台のレスピレーターが常時作動している。しかし、調理場で母親が子どもの好物をつくる姿をみると、母と子の病棟生活は、明治の初め以来変わらず続いていると感じる。私はときおり、なんらなすすべもなく、子どもの死を看取らざるをえなかった明治のころの医者の姿をふっと想い浮かべる。医者と患者の重い関係を長いあいだこの建物はひきずつてきたのだ。
 「医療の人間化」というテーマは、小児医療においては、二重の重要な意味を帯びている。病を負うた子どもは、大人に比較して、「病い」と「子ども」という二重の弱さものをもつ存在であるという点にある。医療の人間化とは、ただ、子どもたちが普通の病児として扱われ、母親は普通の母親として、医療従事者はただ普通の人間として存在することにほかならない。私の医療をとおして経験してきたことを整理して、私なりの「人間化」の意味を述べてみたい。

今日の小児医療

 ふたつの経験を紹介する。ひとつは東大小児科に入院していた6歳の男児。その子は3年ぐらいのあいだ、ネフローゼ症候群で入退院を繰り返していた。ある日、ウィルムス腫瘍となり入院治療を行なったが、腎不全となった。半年ほどの最後の東大での入院であったが、当時透析が東大ではできなかったため、某小児病院へ転院することになった。その数日前、その子は私を前に、「先生、こんどぼく、母子入院でない病院に行くことになったよ。」と優しく、また穀然とした声で語った。急に検査が入り、不忍池のボートに乗せる約束を果たせないまま転院した。約2ヵ月後、母親からその児の死を知らされた。入院中、その病院では母親の面会時間は制限され、臨終近くなってからつき添いが許されたらしいが、死の前にかれは母親にこういったという。「お母さん、ぼく先生のいうことも、看護婦さんのいうこともよくきいて、お利口にしていたよ。」。母親はそれを私に告げながら泣いていた。この言葉にはかれにとっての、母や医療従事者の意味がよく含まれている。死せる子を前にしても、私たち医療従事者は、お利口であることを要求するのか。
 もうひとつ、2歳の神経芽細胞腫で亡くなった子がいる、長い入院生活のあいだ、母親はかれの世話をつき添いのおぱさんに任せきりで、重態となってからは、ますます足を遠ざけた。つき添いさんはじつに一所懸命世話をした。それでもその子は、母親が来ると彼女を求めた。死の数日前、病棟中の子どもたちと構内の桜をみる機会があった。ストレッチャーに酸素をつけて連れ出そうとしたが、最初は「いやだ」と拒んだ。そしてすぐに自分から行くといいだした。硬い表情であった。やがて暖かに舞う花びらの下で、久し振りに柔和な顔をみせてくれた。死ぬ直前に母親が来て、酸素ボックスに入ったかれの手を握ろうとした瞬間、かれは母親の手を振り払い、「お母さん、きらい。」といって目を閉じた。それからまもなくかれは息をひきとった。かれはまるで孤高の男だった。どんな表現を探そうと、立派な生きざまであった。しかし、かれは母が欲しかったはずである。わずか2歳の子の生きざまに感動する私たちに、もっと大事なことは、寂しき死に追いやった責任が私たちにあったということである。
 このふたつの事例は、母子分離を容認する傾向の医療従事者に問うてみるべき課題である。かれらがそれを容認しうる唯一の根拠は、自らが、同一の条件下での死をひき受けられるという可能性のみである。小児医療においても、細分化と情報量の増大は時代の流れであった。その効率的処理のしかたとして、小児病院が臓器別診療科を伴って登場してきた。医療業務上は責任分担を再総合する意味で、チーム医療、チーム看護が語られてきた。そして医療業務の効率を阻害するとして、母子分離が導入された。
 しかし、これはよくよく考えれば、集団としての病児を医療従事者の側で、病気という部分により整理し、業務上の機能化をはかることにほかならない。このような近代合理主義的手法は、対象を物化することが前提とされるため、医療上は深い危険を孕むことになる。病気という部分によって、医療従事者は人間存在としての病児を押しつぶす可能性がある。こうした傾向に対して、最近は「こころ」が問題にされ、部分的な母子入院も導入されてきている。これらは好ましいことではあるが、しょせんは「こころ」を部分として平板に取り扱っているだけのように思える。一見、科学的とみえる近代合理主義的手法も、医療においては、医療従事者側の論理、ひいては現代という時代の論理を病める子に押しつけることでしかない。私たち医療従事者は、その科学的対象がほんとうに人間そのものであることに立ち還える必要がある。そのうえで、初めて病児をとりまく関係が明らかになり、子が負うた病態構造が精緻に明らかにされるはずである。

東大小児科での母子入院

 私たちの病院の患者は、重症なこどもが多い。死を待つ身が、一生寝たきりでレスピレーター管理が必要な子か、退院できるとしても、一生病を負うて病院の外来生活を余儀なくされる子がほとんどである。こうした患者を前にすると、病院を日常生活の場として、生活しやすい環境を考えることしか、かれらの心に応えうるものはないと思う。私たちはこの古い建物が要請するかのように、できるだけ子どもたちへの現制をはずしたいと考えている。古い調理場からは、母親たちが心をつくしてつくる料理の臭いが、そして母親たちの談笑もきこえてくる。昼食会には医師や看護婦も加わって、母子のくつろぎの場所となり、日ごろはみせない生き生きとし本表情のこどもたちをみることもできる。天気のよい日には、皆で一緒に、不忍池や三四郎池、上野動物園に出かける。四季折々の日射しの下で、かれらは風を感じ、木々の緑を嗅ぎ、水面の景色に魅せられている。母親や自然に包まれている子どもたちの表情はやすらぎそのものである。こうした日常生活のほかにも、多くの非日常的世界を創るために、医師、看護婦、心理臨床士が主催して、たくさんの行事を催す。こうしたなかから、母親や子どもたちが互いの立場を理解し、多くの友を得ていく。まるで人生の学校のようでもある。
 こうしたことを定着させなければならなかった理由は、私たち医師が、どのように努力しても病いを治すことができないと悟ったとき、結局私たちになしうることは、子どもたちをできるだけ自由にすることだけだと考えたからである。治すことを医師の職責として全うしようとしても、治せぬときもある。その敗北感のなかで、私は子どもたちから遠く去り、ひとりの人間として子どもたちとの出会いの意味を感じざるをえない。散歩や行事のなかには、必ずこれが最後になるであろうと思われる子がいる。母に包まれ、かれらが好む自然に包まれ、最後の一時を過ごす姿を、そしらぬ顔をして、しかしその存在の鮮烈な姿を胸に刻みつけながら後ろからゆっくりとついていく。こうした数々の経験は、治すという医師の責務へと自己を駆り立て、またただの人間としての責務を、同時に繰り返し想い起こさせてくれる。「医療の人間化」とは、医療従事者自身が、ただの人間でしかないと自覚することから始めなければならない。それによって、社会的思潮を色濃く帯びる小児医療を正確にみすえることができる。普通の小児にかかわる医療従事者になるための分析を少ししてみたい。

小児の特性とは…

上述したように、医療の近代合理主義は、医療従事者の側で一方的に解釈した体系として存在する。このことを根本的に反省するには、小児を人間(医療従事者あるいは社会の人間像)べの発達の一過程であるとする考えや、小児が表現する部分のみによって全体を決定する考えに固執することから離れるべきである。そうでなければ、自由に身を動かすことのできない子どもに対して、その心に近づくことはありえないことになる。
 子どもは、たとえ生まれたばかりの赤ん坊でも、人間としての最低の与件を備えている。すなわち、自らの意志あるいは感情で動かしうる肉体をもち、その肉体の外縁にはひとつの区切りが存在すること、つまり統一体であることである。生まれたばかりの赤ん坊が、一糸まとわぬ姿になるときの啼き方は、かれらが外縁をもつ、つまり自らが自らの肉体でまとまっていることを示すとともに、その蹄泣は存在の不安をも示している。主語的に肉体を動員するようすも、述語的に肉体を快感のなかに解消するようすも認められる。そうであるために・必然的に生じうる他者との関係で、自己自身(自らの意志と感情と肉体)を対置しうる。このような性質は、人間としての最低の与件を有しているといえる。子どもは肉体的にも精神的にも発達するものであり、それは、肉体的自由度と対他者との認識の発展にほかならず、表現の多様さもここから生じる。子供たちは年齢に応じて肉体的不自由度をもつ。このことは、意志して動きえない存在のゆえに、人間の克服しえぬ存在不安を強く抱き、また対他者との関係においては、圧倒的に意志しえぬ存在に転化することを意味する。したがって、かれらの不安、恐怖、痛みにかんする情感の強さは、私たち大人の想像をはるかに超えるものがある。
 統一体としての肉体をもち、その自由度の少なさゆえに、子どもは大人の意向をそのまま受け入れざるをえない。しかし、私たち大人は、そのことを十分理解できているようには思えない。私たちは、この意志する小さな存在を、自由自在に扱っている。そしてその了解の程度は、他の大人を理解しようとする程度にもいたっていない。子どもは自身で独立した弱い多感な存在であること、そしてその存在内容については、私たちには不可知であることをまず認識すべきである。医療従事者のなかにも、また母親のなかにも可知論が多すぎる。とどのつまりは、自らの関係強制にほかならなぬ理解のしかたしかしていないにもかかわらずである。
 子どもの存在は不可知であり、独立した人間であることを前提として、病を負いたる子どもたちのことを考えてみよう。
 病いを負いたる子どもは、子どもゆえの弱さのほかに、自身の肉体の分離を要求されざるをえない事態をもつ。痛みや苦しみのほかに、動かすことのできない体、襲いくる死の恐怖。こうした肉体につきまとう事実を拒否しながらも、結局はそれを自己自身のものとして背負わなければならないことを知る。病によっては、自身の肉体における拒否と容認を際限なく繰り返さざるをえない。寝たきりの重度の障害をもつ子、確実に死を待つ子、私たちは通例苦しみを糧に、それを克服することを自己の強さと感じるが、幼くしてかれらは肉体的苦痛と肉体的不自由を感じ、これを克服せんと努めている。それにもまして、自身のおかれた存在とその吝悩を了解しうる人間のないことを知り抜いているのであろう。肉体的に表現上の制約をうけた子どもの言葉を心のひだにたとえるならば、私たちの数十倍、いや数千倍の深いひだをもつようにみえる。病いが重ければ重いほど、私たちは子どもが遠くそびえる存在のようにみえる。私たちの推測しうる領域よりはるかに遠くあるという認識は、医療従事者にとって最低限の了解事項である。この不可知を前提にして初めて、私たちがその子との関係において、なにを強制しているかが明らかとなる。

母親とは…

母親とはなにか。答えは簡単である。自分が生んだ子であり、その存在の責任を負うているというだけである。子にとって母親とは、その存在を包んでくれる存在であり、そのことによワ、子は強制的な関係とならざるをえない他者との関係で、フリーハンドになれる。母親はただ注意をすればよい。子の諸性質にこだわらず、子の存在の責任を受け持てばよい。しかし、母親は社会的拘束を受けるがゆえに、この単純な決意をにぶらせることがある、むしろ母親が子への強制的関係を、社会的拘東の上からしいることがある。その関係は、子と医療従事者以上に深い問題をもたらす。
 病いを負うた子どもにとって、母親に抱かれたり、側にいてくれるということがいかに大きな意味をもつであろうか。上述したように、病いを負うた子どもは、たんに子どもであるという不自由度の上に、肉体的に襲いかかる多くの事態に直面せざるをえず、自己を表現するにもそのすべは少なく、かつそれを理解することも、医療従事者の側に欠けていることが多い。こうしたなかでは、母親だけがその存在と主張を認め、かれらの心を包み、かれらの訴えようとする中味を多く代弁してくれる。私たち医療従事者が母親の肩代わりになれないのは、ひとつには子どもの存在への責任が決意できないからであり、また子ども自身が自身の従属物として私たちを捉えることが不可能だからである。母親が子への規制をする場合の多くは、医療従事者の考えに拘束される関係のなかで起こりうる。母親は自分の子どもより、医療従事者の意向にそうことを余儀なくされるとき、子どもにとっての母親は、医療従事者の代弁者として登場する。
 こうしてみると、病いを負う子がいつも自己自身を表現し、苦闘のなかで自らがそれを処理しうる能力をもっためにも、母子入院下にあっても、母親が医療従事者に対して自由に発言できる必要がある。そして両者が、子にとってもっとも望ましいと思われる行為を成すべきである。母子入院下での母親は、他児の苦しみを了解しえない傾向がある。これは母親自身にも、わが子の存在の苦悩を真に了解しえないことから生じている。より遠くから子どもをみないかぎり、ほかの子どもの存在が視界に入らないのかもしれない。

医療従事者の態度

病いを負うこどもたちに対する私たちの態度は、まずかれらを一個のまとまった人間として認めることから始まる。このような態度によってのみ、職能的技量や科学的態度は必然的に深化する。病気のみで子どもを扱おうとすれば、その職能的技量の限界も不明となり、情報の処理も平板化され、教科書的結論へと導かれるのみである。いくどとなく述べてきたように、病いを負う子どもが、二重の意味で苦悩する存在であること、かれらと私たちの関係がいかに強制的かつ一方的であるか、病態の構造を含めてかれら自身を知りえないことを、つねに私たちの心のトゲとして据えておかなければならない。そうして子どもたちと接するときに、かれらを私たちより、より高く遠き存在であることを知るとき、病いから解放する情熱も生まれ、自己の限界も知りうる。
 病いを負う子どもたちには、かれらの共通した言葉があるはずである。たとえ寝たきりで、感情の表現が乏しそうにみえる子でもそうである。かれらが、幼くして、拒否すべき肉体と私たちとの関係のなかから、強く生き抜こうとする姿をみるとき、かれら自身のたくましい人間学の創出のあることを感じる。私たちが当然のように受け入れてきた時代の精神の抑圧的意味と、非人間化を意図してやまない私たちの共通言語に対する、新しい言葉が生み出されてくることを願わずにはいられない。
(ひしとしお・小児科学)1987


菱 俊雄