1999.3.3

春の声

 昨日の朝の6時半ころ、私は「うぐいす」の鳴き声で目を覚ました。
 「ほ〜 ほけきょ」と文字どおりにきれいな高い声で鳴くうぐいす。年の頃は人間でいうと17才くらいかな?ぴ〜んと張りのある鳴き声は、濁りがない。真っ直ぐに空に向かって突き抜けるような声は、霞みがかった春の空を一声で透きとおらせるような勢いがある。
 しばらく窓を開け放ったままにして、寒いのも忘れて聞き惚れることにした。
 考えてみれば去年まではカラスの鳴き声で目が覚めていた。春の到来はカラスと共に・・・っていうくらい、以前の家の周りはカラスの声がすごかった。
 通りをふさぐカラスが恐くて仕事に遅刻したほど、私にとってはカラスは天敵だったから、今度のうぐいすの声というのは、引っ越し後の全く予期しないありがた〜い贈り物だったのである。
 今朝もやっぱりうぐいすの声が聞こえてきた。「ほ〜〜〜 ほけきょ けきょけきょ」昨日よりもさらにパワーアップした鳴き声は、なおさら春の到来を実感させてくれた。
 爽やかで穏やかな朝。西の空には富士山、そして軽やかなうぐいすの声。突然、緑茶が飲みたくなって急いでお湯を沸かした。
 ・・・なにをかくそう、私は緑茶好き。それはこどものころからだった。母親からの情報によると、田舎の畑で3時のお茶をしているおじさんやおばさんがいると(もちろん赤の他人)、3才の私は湯呑みを持って走っていって「お茶くださ〜い」とちゃっかりその場に座りお茶をさせてもらっていたらしい。それが私の田舎に遊びに行ったときの日課だったということだ。
 お湯が沸いたので、京都の粉茶(おいしいよ)をいれた。そしてもう一度、富士山とうぐいすの声を楽しむことにした。
 こんなとき和菓子があったら最高なんだけど。朝の甘いものっておいしい〜。ケーキも朝に食べるのがいちばんおいしいなあって思う。気持ち悪いなあという人もいるけれど。
 うぐいすに富士山に緑茶だったら、今はちょうど桜餅。でもそんなに上品じゃなくてもいい。どら焼きとかお饅頭でもいい。あ〜、甘いものが食べたいよ〜・・・。「花よりだんご」っていうのはこういうことなのね。
 だんご・・といえば、今日は「だんご3兄弟」の発売日。この歌って無意識のうちに口ずさんだり鼻歌になっているからすごい。「しょうゆ塗られてだんごっ、だんごっ」とか唄っちゃって。
 うぐいすの声と「だんご3兄弟」の歌が、今年の私の春の声になりそうな、・・・そんなヨカン。

1999.3.8

竹久 夢二

 この週末、久しぶりの家族旅行で群馬県の伊香保温泉に出掛けた。
 出掛けるまでは、のんびり温泉に浸かって美味しいものをお腹いっぱい食べて、そして甥と遊ぶ・・・そういう温泉旅行だと想像していた。
 ところが、その温泉旅行で、こんなに久しぶりに「電気が走る」ようなことを感じるとは夢にも思わなかった。
 このページをもし好んで読んで下さっている方がいらしたら十分お分かりのように、私は本当に知識や興味がとても偏った人間である。おおよそ、普通の人が当たり前のように知っていることを、私自身が当たり前のように掴めているという自信が全くない。
 「竹久夢二」についても、そうであった。
 何しろ、ものすごく恥を忍んで言ってしまえば、はんなりとした気怠いような幸薄そうな女性の絵があまりにもインパクトが強いので、なぜか私はずっと「竹久夢二」を女性だと思っていた。「夢二」なのに・・・。あの画風と作者がまるっきりオーバーラップしていたのだった。そんなことからもわかるように、今の今まで、全く竹久夢二という人に興味がなかったのである。
 伊香保に着いてまだまだ夕食まで時間があったので、母と保科美術館に足を運んだ。そこは日本画と、なぜかエミール・ガレのガラス作品と、そして竹久夢二がほんの少しあった。それが私の初めての本物の竹久夢二の作品との出会いになった。
 そこには、私が見たことのなかった夢二の世界があった。例のはんなりした女性の絵は数点あったが、それと共に、セノオ楽譜という楽譜の表紙絵が何点か飾ってあり、また雑誌の表紙絵なども数点あった。
 その絵を見ている自分の鼓動がどんどん速くなるのがわかった。
 構図・デザイン性・レタリング力・色彩感覚・・・・・。そのどれもがずば抜けているのだ。もちろんそんなことを、素人が言っても信憑性なんてありはしない。単純に、自分の感性とマッチした。特に驚いたのがデザイン性だった。
 モダンで、この20世紀の世紀末に見ても斬新で、こういう人が日本にいたのか・・と思うと誇らしい気持ちになれた。色彩感覚やデザイン感覚がまるっきり日本人離れしているように感じた。
 後ろ髪を引かれながら宿に戻って、私は次の日の朝にひとりで竹久夢二伊香保記念館に足を運ぶことを考えた。
 夢二記念館は大正浪漫の雰囲気を随所に残している。ようやく私の中で「彼」となった夢二は、1884年の明治17年に生まれた人だった。
 何故、伊香保に記念館が作られたか・・。大正8年36才の夢二が伊香保を訪れ榛名を一度で気に入ったことがきっかけだった。人生で最愛の女性がその前年の大正7年にこの世を去ってしまったことも大きかったのだろう。
 夢二は特別に絵の教育を受けたわけではなかった。それでも生活に密着した美の世界を常に追求していた彼は、挿し絵の入選で世間に名前を知られることになった。
 24才の彼は岸たまきという女性と結婚をし、便箋・封筒・祝儀袋、半襟・帯・浴衣・・・そんな生活に潤いを与える物たちにデザインを施し、たまきと共に店を開いたのであった。しかし、たまきとの仲は徐々に冷えていった。
 そんなとき、夢二のファンだという美大生の彦乃が現れる。そして彼女は夢二にとって生涯で無くてはならない唯一無二の存在になっていった。彦乃にとっても夢二はそうだった。ところが大正7年、彦乃は結核のため、25才の若さでこの世を去る。
 その2年前、彦乃が結核のため療養をすることを知った夢二が作った歌が、有名な「宵待草」という歌である。

      待てど暮らせど来ぬ人を
       宵待草のやるせなさ
        今宵は月も出ぬそうな

 彦乃が亡くなって数年後、お葉という女性と暮らすようになるが、それはすぐに終わってしまった。夢二は生涯、彦乃の面影を追い続けて暮らしたのだった。その夢二の支えとなったのが伊香保・榛名の風景だった。特に彼は伊香保の春を愛したそうだ。
 こういう生涯を知ってから彼の作品を見ると、女性を描き続けた理由がわかる。そして宵待草の歌の意味も心に染みた。口ずさむとなんだか涙が出てきた。
 夢二と彦乃のお互いに宛てた手紙の数々が展示されていた。きっと夢二のような男を人は女々しいというだろう。生き方も考え方も力強くはないから、英雄になれたわけではない。しかし、私は彼の作品の数々がほとんど「どこかの誰かの日常を飾るもの」として作られている作品ばかりだったことに、底知れぬ愛情の深さや人思いの暖かさを感じた。
 夢二が伊香保を知る8年前に、12才の少女から夢二へのファンレターが届いた。伊香保に住む少女だった。そこには、少女が伊香保で偶然夢二を見かけたけど声を掛けれなかった・・・と書かれてあった。夢二はまだその頃は伊香保に足を運んだことがなく、少女の人違いだったのである。
 夢二はその少女へこんなふうに返事を出した。
 「イカホとやらでお逢いになったのは私ではありません。それが私であったろうならと心惜しく思われます。お逢いする日があったらその日を楽しみましょう。
 さらば春の花の世をすごさせたまへ」
 私はこの文字がにじんできちんと読めなかった。だから何度も何度も読んだ。
 
 伊香保旅行がこんなに心に残る旅になるとは、昨日まで夢にも思わなかった。