初代教授 弘田 長先生の短歌


 亡せし子のぬぎ捨てたりし庭ぐつを
  見てはまたなくいもとせあはれ
              

 私たちは言葉によって、時間と空間を超えて、知識や感情などを共有することができます。実際にその人にあう、つまり謦咳(けいがい)に接することに比べればそのインパクトは小さいけれど、詩に詠まれた感情は時代を超えて私たちの胸にひびきます。
 弘田 長先生は、皆さんご存じのように、東京大学小児科学教室の開設者で、同時に日本の近代的な小児科学の父といっても良い人です。退官されたのが1921年ですから、そんな大昔のことではないのですが、弘田先生の謦咳に接した人はもうほとんどいません。そんな医師としての弘田先生の仕事は、医局に保存してある小児科学会雑誌のバックナンバーを丹念に読めばある程度わかりますが、実際にどのような人だったのか、わかりません。亡くなられてからまだ60年くらいしかたっていないのに、ちょっと寂しい気持ちがします。今年小児科学会の100周年記念を行いましたが、そのときの資料として弘田先生がなくなられてから5年目に弘田先生を偲んで発行された「弘田先生遺影」という文集を目にする機会がありました。厳格な先生という評判だった弘田先生でしたが、東京大学で初めて女医の入局を許可したり、育児会病院という子育て支援病院をつくったりした社会性の豊かな先生でした。国定忠治が大好きだった弘田先生は、歌を詠むことを趣味にされていました。これから数回にわたって、弘田先生の歌を紹介したいと思います。
 冒頭の句は、断腸と名付けられたものです。亡くなった子どもの、もう持ち主のない庭くつに、本来ならば庭を駆け巡っているべき子どもを亡くした悔しさが込められているように思います。(97.6)
 



病める児のもらす笑顔に父母(ちちはは)の
    昨日に似ざる 微笑みのいろ

うせし子を思ひでつつ父母が
    語りて泣く 霰(あられ)ふる夜を

マッチ箱論争
 弘田先生は、こわい先生として医局員から恐れられていた存在だったようです。回診の時に病室で怒られるのはまだいいほうだったようで、一番こわかったのは「後で教授室へいらっしゃい」といわれた時だった、と当時を回想した医局員が書いています。弘田先生の怒りっぽさには、二つ原因があったように思えます。一つはもともと怒りっぽい性格だった、らしいのです。弘田先生と学生時代同期の小金井良精先生があるとき「弘田君は近ごろまだ怒りますか」と聞き、「ええ」と答えた医局員に「そうかね、やっぱり怒っているかね。ありゃ性質だね。学生の時には怒ると手がふるえた」と述壊したというエピソードが紹介されています。もう一つは、弘田先生の天性のカンの良さ、です。ご自分の診たてには強い自信をもっていたようで、それに対して意見するとその後カミナリが落ちたといいます。たとえ科学的な根拠があって意見をいっても、だめだったようで、医局員はなかば諦めていました。たとえばこんなエピソードがあります。弘田先生はは子供に与えるパンの量をすべてマッチ箱の大きさを基準にして指示していました。ある医局員が回診の際に「科学的」に「パン何グラムを与えています」といったところ、「パンの量を目方でやるやつがあるか。マッチ箱の大きさで定め給え」と強くいわれたのです。医局員ががんばって「マッチ箱にも大小いろいろありますから」と抗弁したところ、「僕の机の上のを見給へ」と一喝し、部屋を立ち去ったというのです。興味深いことは、この医局員があとで、お互いの意見を真剣にだしあった、という記憶しか残っていない、と述壊していることです。たぶん、弘田先生も、教授としてのコケンにかかわるから怒ったのではなく、本当にマッチ箱ではかる方がいいと信じていたのでしょう。むしろ微笑みたくなるようなエピソードだと思います。
 弘田先生時代の小児病棟は、たくさんの重症感染症の子供がいました。毎日なくなってゆく子どもたちとその親に対して弘田先生はたいへん同情されていたようです。
 冒頭の句にそれがよくあらわれています。   (97.12)




くりかえしまたくりかえし逝きし子の
       上ものがたる老いたる母は

年頃の似たる女の稚児いだき
       道行く見ればまたも悲しき

うちそろう夕けのむしろ吾子一人
     あらずなりたるにとみに悲しき

うせし子が遺しし書をえりわくる
      我目うるみてみえずなりゆく


 弘 田先生の生きた時代は、人の死が今よりずっと身近にある時代でした。子をなくした親の悲しみは、弘田先生の短歌の大きな主題でした。最初の句は、入院中の子どもを失った老いた母親の悲しむ様をうたったものです。自分より先に逝ってはならないはずのわが子の死が、どうしても納得できない様子が伝わってきます。

 頑固でちょっとひょうきんなところのあった弘田先生でしたが、身近に死があるという現実は、弘田先生も例外ではありませんでした。すでに嫁いでいた娘さんが、幼い子どもを残して大正2年に亡くなり、さらに最愛の息子さんをその5年後に失っています。息子さんは東京大学医学部に在学中であり、きっとこころのどこかで自分のあとをついでもらう心つもりがあったのではないか、と思います。2首めの歌は娘さんを亡くしたときに、そして最後の2首は、息子さんの死に臨んで詠まれたものです。
 乳児死亡率が世界一低い日本では、我が子の死にめぐりあう親は少なくなりました。私たち小児科医でも、自分の子どもの死を見取るという辛い思いをした人はごく少数です。受け持ちの子どもが亡くなった時の親の気持ちを、真に共感することが難しい時代になったのかも知れません。最近脳死の判定を6歳以下の子どもにまで拡大するための作業が厚生省で始まっています。脳死を肯定的にとらえていた医師や作家が、自分の子どもの脳死を経験してから、次第に脳死とそれに引き続く臓器移植という考え方に疑問を呈するようになることからも、現代は「死」から隔離された時代になっているのではないか、などと思ったりします。かつては亡くなった子どもの親に共感することで完結していた医師というプロフェッションが、子どもの脳死の確認とともに、その「死体」から臓器を収穫(ハーベスト)する役目を負うようになったのは、医学の進歩ゆえなのでしょうか。                (98.3)




歌舞の堂うまし少女ら堂にみちて
      春風かをる春の野のごと


病いやす聖の祖のいにしへに
      道学びつる島青くかすむ


国亡せて唯おくつきの高みのみ
      世は限りなし夢は短し

弘田先生の時代は現在のようにいつでもだれでも外国旅行ができる時代ではありませんでした。ごく限られた人だけが、それも船で何週間もかかっての外国旅行でした。弘田先生の最初の外国経験は、27歳の時にドイツのストラスブルグ大学への留学です。そして1906年(明治39年)に一年間アメリカとヨーロッパの視察旅行にでかけています。1906年といえば、日本は日露戦争の戦勝気分の余韻がただよっていた時代です。講和条約の内容に国民は落胆していたとはいえ、鎖国状態を解いてから30年という短い期間に、ヨーロッパに少し近づいたという自負が国民のあいだに満ちていた時代でしょう。具体的に弘田先生が一年間どのような視察をされたのか、資料が手元になくわかりません。ただし帰朝報告会が盛大に行われ、「欧米における吾科の近況に就きて」という講演をされたことだけが分かっています。
 最初の句は、パリでオペラ鑑賞をしたあとに詠まれたものです。華やかなオペラを見て、春の野に咲く花を連想されたのでしょうか。2番目の句は、ギリシア沿岸の船旅の途中にヒポクラテスのことを思って詠んだ句です。そして最後の句は、ピラミッドを見たときのものですが、悠久の時の流れと人の命のはかなさを対比されています。病棟でみとったたくさんの子どものことが脳裏を去来したのでしょうか?
                 (98.6)




耐えしのびしのびつる甲斐ありて
      仇打ちひしぐ時まさに来ぬ

をやみなく降る春雨に稚児をいだき
      しほしほとして女まうずる

仇とみえし異国人と手をとりて
       六十年ぶりに昔かたるも

明治時代に、日露戦争があったことをまったく知らないで、植物学の研究に没頭した博士がいました。その研究に専心する姿勢を「科学者」として評価する人もいるようですが、弘田先生はそういう意味では科学者というより一般人でした。日露戦争を題材にとりあげた短歌はたくさんありますが、最初の句はその当時の国民の平均的な気持ちなのでしょう。国定忠治が好きだったという弘田先生らしい威勢のよい句です。弘田先生の日露戦争に関する句をよんでいると、同じころ東京大学で教鞭をとっていたベルツと共通する思いがあったことがわかります。ベルツもドイツ人ながら(だから?)、日本のロシアに対する対応を手ぬるく思っていたようです。
 しかし弘田先生は戦争の悲惨な面もちゃんと見ておられました。2番目の句は、戦死した夫を靖国神社に詣でる母子の様子を描いたものです。この句以外にも、傷病兵をいたわる句を残されています。
 最後の句は、明治維新前に知り合った外国人との再会を記して詠まれたものです。国の方針によってそれまで仇だと思っていた外国人が今は友人であるというものですが、ヨーロッパでの生活を経た国際人らしい冷めた目で見ていたことがわかります。             (98.9)




知らぬ間に鉢の朝がほつみとりて
        糸にぬきつつ幼子遊ぶ

花ぞのに夕べ水やる幼子が
    ふみちらかしたる小さき足あと

幼子の遊びつかれていねしそばに
       母は糸くるわらぶきの家

  子 どもの姿はいつ見ても心を和ませてくれるものです。鎖国時代に長崎の出島にきて日本の様子を世界に伝えたケンペルやツエンベリーが、日本の子どもが穏やかで幸福そうなことを感心して叙述していますが、子どものもつ大人を和ませる力が作用していたのかもしれません。弘田先生の詠まれた短歌の題材としての「子ども」には3通りあります。一つは以前にご紹介した病気の子どもたちです。乳児死亡率が150前後であったと思われる弘田先生の時代には、子どもの命ははかなく、か弱いものだったのです。もう一つは、弘田先生ご自身のお子様の死を悲しんで詠まれた歌です。これらの悲しい句に混じって、子どもの何気ない日常の様子を詠んだのが今回ご紹介する句です。花が大好きだった弘田先生らしく、花と子どものかかわりを詠んだ句が結構たくさんあります。最初の2句は、忙しく辛いことも多かったに違いない先生にとってほっと息をついた瞬間に詠まれた句なのでしょう。最後の句はそのまま絵になるような情景ですが、子の親への信頼と親の子への愛情がしみじみと感じられます。
                   (98.12)




「花」
あかねさす千本の桃を裳裾にて
天そそり立つ白たへの君

目路のかぎり菜の花咲ける畑中に
紅匂ふ桃の一村

病む人の眠る枕辺清らかに
水仙かをり朝日きらめく

亡せし子が愛でし水仙此の冬も
手向けて妻が寂しくゑみぬ


弘田先生のもとで臨床研修を積んだ女医さんの座談会で先生の趣味が話題になっています。それによると、弘田先生の趣味は、映画、芝居、琵琶、歌(短歌)、食べ物そして花だったようです。現在なら「文人」の趣味とでもいうべき幅広い趣味をもっておられたのです。短歌の主題も注意して見ると花を詠んだものが多いのです。たとえば朝顔を主題にして15首続けて詠まれたりしています。座談会では香の強い百合が好きだったとありますが、主題としてよく詠まれたのは桃の花です。春の季語として読み込まれたのかもしれませんが、なごやかで幸せな雰囲気を好まれたようです。
最初の句の白たへの君とは富士山のことで、桃色に煙る春の大地のうえに雪をのせた富士山がそそりたつ、という趣の句です。2句目は、奈良と京都のあいだの汽車の車窓風景です。
 桃とは対照的に水仙の花は、弘田先生の心象風景のなかでは悲しみのメタファーのように思われます。最後の句は、嫁ぎ先で亡くなった次女への想いが詠まれています。
 近年身近な自然がますます少なくなってきています。花を植える庭さえ確保するのが困難になってきています。自然を楽しむ余裕は私たちも持ちたいものです。 (99.3)
ヨーロッパ

 弘田先生は明治18年にストラスグルグ大学に留学されましたが、帰国後小児科学教室の設立、処和会(小児科学会の前身)発足、小児科学会開催と多忙を極めておられたようです。そのためやっと明治39年(1906年)になって、若き日々をすごしたヨーロッパを再訪しています。1906年の日本、ヨーロッパはどんな時代だったのでしょうか。1905年日本は日露戦争に勝ち、ポーツマスでロシアとの講和条約に署名しています。30年前まで鎖国をしていた東洋の国がロシアを破ったということは、戦争の悲惨さはさておき、国民の間に高揚感を醸し出していました。前年1905年には、日本は初めて大使館をロンドンに設置することを認められています。ヨーロッパでは、コッホが細菌学の功績でノーベル賞を受賞し、アインシュタインが特殊相対性理論を発表したのもこのころです。しかし、ロシアは日露戦争敗戦によって、ユダヤ人虐殺事件や戦艦ポチョムキンの船員の反乱などもあり、流動的な社会情勢下にありました。日本でも日露戦争による国民に疲弊のうえに、東北地方では冷害による大凶作があり餓死者がでたり、足尾銅山で大規模なストライキがあったりして社会不安も高まっていました。でも弘田先生はかつての留学の地に、日本もここまで来たのだという自信をもってヨーロッパ再訪を楽しまれていたのではないでしょうか。

八千のもののふねむる岡の上の
     碑は真赤なり夕日ななめに

民の涙人の血しほの集まりて
     成りし城かもヴェルサイユの城

嫗泣きわれもまた泣きて霙降る
     寒きあしたを我が立ち出づる

最初の句はストラスブルグの普仏戦争の記念碑を見て詠んだものです。ストラスブルグはアルザス地方の中心都市で、弘田先生は留学したときはドイツ領でしたが、現在はフランスの一部です。
最後の句は、パリの宿をでるときにそこの老女主人と別れを惜しんで泣き交したことをうたったものです。浪速節の好きだった弘田先生はどうも涙もろかったようです。(99.6)




子どものいる情景

乳房ふふみ眠れる吾子をながめをる
     母の心に幸は足らへり

すやすやと雅子はねむれる枕辺に
     うごかぬ犬の主を護れる

木がらしの身を切る夜半の道の辺に
     物売る童誰が家の子ぞ

 コソボ、東チモール、そして最近のトルコの大地震災害と世の中には悲惨な事件が満ちているように思えます。しかしどんな悲惨な状態にあっても、子どもたちの笑い顔が絶えることはありません。不確実な次の1000年への幕開けが目近ですが、未来を信じている子どもたちの笑顔を裏切らないようにしたいものです。
 弘田先生の子どもを歌った詩は、3通りあります。一つは病気の子どもの様子を詩ったもの、そしてもう一つが今回ご紹介した、健康な子どもを詩ったものです。最初の2句は、健康な乳児の幸福につつまれて育つ姿です。大都会では高層住宅のなかに閉じこもって子育てをすることが多くなり、公園デビューなどという言葉ができるありさまですが、弘田先生の時代には、もっと子どもが街にでていたのだと思います。最近発展途上国を訪れる機会がありますが、街のなかに子どもがあふれているように思えました。もちろん子どもの数自体も日本より多いのでしょうが、それだけではなく、社会が社会に直接接するインターフェースが広いような気がします。3句めは、きっと貧しい家庭の子どもなのでしょう。社会派の医師でもあった弘田先生のするどい感受性が伺われます。
 子どもの詩の3番目のカテゴリーは、弘田先生自身のお子さん、あるいはお孫さんを詩ったものです。以前に紹介しましたが、ご子息や二女をなくされている弘田先生にとっての深い悲しみに満たされた詩です。 (99.9)




決意

かへりみて悔ゆる人こそ正しけれ
     此の心ありて道に迷はず

ふり積もる雪如何ばかり深しとも
     けたてて行かん我まだ老いず

父ゆきて十とせにあまる九とせ
     祭るわが身も老いにけるかな

 これまでご紹介してきた弘田先生の句は、子どもや、花、景色といった目に見える情景を主題にしたものが多かったのですが、今回はご自身の気持ちを歌った句を拾ってみました。弘田先生のお人柄については、その当時の医局の先生方がいろいろな文章にのこされています。怒りぽかったとか、頑固だったというのが大方の意見の一致するところですが、浪速節が好きで涙もろかった、あるいはちょっととぼけるところがあった、という感想もみられます。いずれにせよ、厳格だったが人情あふるるお人柄だったようです。最初の句は明治35年(1902年)44歳、最後の句が大正10年(1921年)63歳の時に詠まれたものですが、最初は元気の良い句が多く、後半になって老境を感じさせるものが多くなっています。特に60歳のときに東大医学部在学中のご子息をなくされてからは、悲しい内容の句が多くなっています。
最初の句は44歳の時に詠まれたものです。前年に小児科学会会頭に就任され、またライフワークの一つであった「所謂脳膜炎」についての論文を発表されています。まさに順風満帆の時代です。むしろ迷いがあったほうがよい、と力強く言い切っています。
第2句は、45歳のときで句の説明書きに「心を痛むる事ありける時」としています。しかし心痛んでも、雪をけちらしてでも前進するという決意に満ちています。
最後の句は、前2句とはかなり趣が違っています。55歳という年齢は現在ではまだ若いと思えますが、前年に娘さんを亡くされたことがひびいているのでしょうか。公務では多忙をきわめておられたと思われますが、雪をけたたて行ったあのエネルギーが感じられません。(99.12)




弘田先生が生まれた安政6年といえば、明治維新へ向けて世の中のすべての価値観が変換しつつある時でした。幼少時には、土佐藩の侍の子どもとしてのしつけと教育をうけ、青年時代は維新直後の東京で、そしてヨーロッパも生活されました。私たちの時代も価値観が急速に変化する時代ですが、弘田先生の経験された世の中の変遷は、私たちには想像もすることができないくらいめまぐるしいものだったでしょう。生き方の指針のようなものを持たなければ、しっかりとした自分を支えて行くのが困難な時代だったと想像します。謹厳なお人柄であったことも関係していると思いますが、弘田先生には「道」という言葉の入った短歌をたくさん残されています。今回はその中の3首をご紹介します。

 おろかなり只一すぢの道さへも
     ややともすれば踏み迷ふ身ぞ

 雲霧は行手を千重につつむとも
     進みて行かん我が思ふ道に

 小春日を野の花摘みて妻子らと
     語らひたどる粟畑の道

最初の2首は、まだ小児科教授に就任して間もないころに詠まれたものです。緊張感に満ちていますが、最後の句はのどかで楽しそうです。(00.3)




 


榊原 洋一