父のこと         弘田 親輔



 父のことについては、没後に皆さまのお心づくしにより「遺影」が刊行され、それに父のほとんどすべての全貌をつくされておりますので、ここでは「遺影」に出ていないこと、それは、父がどうして遠い土佐の田舎からはるぱる東京へ出て医学を修業するようになったか、なぜ小児科への道を歩むようになったか、というようなことについて申上げようと思います。
 明治三年に時の政府から貢進生という制度が発令されました。これは明治の新政府が中央集権をねらった政策であるともいわれておりますが、それは全国から優秀な少年を選抜して東京に集め、他日国家有用の材たらしめんとする意図のもとに、今日の中学、高校、大学に当る八年制の課程を習得させる制度でありました。その選抜方法は、五万石以下の藩から一人、五万石以上の藩から二人、十五万石以上の藩からは三人の少年を選定することになっておりました。父の住む土佐藩は、もと遠州浜松の五万石の小藩でありましたが、関ケ原の役の勲功によって一躍二十五万石の土佐の大藩に封ぜられましたので、三人の少年を送る資格を持ち、父はその三人の少年のなかに加えられて明治四年、十三歳の時に上京致しました。「遺影」によれば「父(私の祖父)につれられて上京」とありますが、私が父から直接聞いたところによりますと、「当時土佐から上京する外人宣教師がいたので、4、れに連れられて他の二人の少年とともに上京した。途中、大阪の宿で宣教師がサーデソ(鰯の油漬)の缶詰をあけて、それを御飯にまぶしてくれた、、始めて境する異国の食物の油臭さに閉口したが、食べなければ親切を無にすることになるし、あんな困ったことはなかった」ということでした。
 全国から東京に集った少年たちは、志望に従って東校(医)と南校(法)に分けられましたが、始めから家業の医を志した父は、神田和泉橋の東校の寄宿舎に入寮しました。父と時を同じうして備前岡山の三十一万石の池田藩から三人の少年が送られてまいりましたが、その少年の一人が後年の小金井良精先生でありまして、小金井先生と父とは、この時から終生の交りを結んだわけであります。なお、父と同じころに南校には、小村寿太郎、鳩山和夫、穂積陳重、古市公威の諸氏がおられたもようです。
 ところが明治四年に廃藩置県の法令が公布されたのを機として貢進生の制度も廃止されましたので、この制度もわずか一年余の短かい命でありましたが、父がその短期問の恩恵に浴したことは幸運であったともいえます。しかし、たとえこの制度がなかったとしても、父のはげしい向学心は、必ずや何かの方法で父をして上京進学の道をとらしめたことと想像されます。余談になりますが、断髪令が出たのは明治四年ですが、父はそれよりもずっと以前に祖父にも無断で、幼時からなじんでいたチョンマゲを切ってしまい、家人からひどくしかられたと述懐しております。とにかく若いころの父の行動は、いつも積極的であったようです。
 父は明治十三年に東大医学部を卒業しましたが、当時すでに文部省の海外留学生の制度がありまして、父はこれの適用を受ける資格もあり、また自分もそれを熱望いたしました。しかし祖父が一人息子の父を遠く海外へ手離すに忍びず、父が再三の海外留学の要請も祖父の許可が容易に得られなかったので、ついに父も「それでは私は、あなたの死ぬのを待つより外はない」とまで言ったので、さすがの祖父もついに折れて、父の外遊を承諾したそうであります。そして父は卒業後、熊本医学校に就職して貯めた金と祖父の援助とによって、ストラスブルクに私費留学をすることになりましたが、奇しくも親友の小金井先生も父と同じ土地へ留学されたのであります。
 父は大学卒業後は、助手としてスクリバ先生の下で外科を修業し、熊本医学校でも外科を担当し、当時我が国でも珍らしい舌癌の手術をしたなどと聞きましたが、ストラスブルクの大学で小児科を修業したいきさつについてあまり詳しい事は分りません。ストラスブルクというところは、昔からドイツとフランスの問で、取ったり、取り返えされたりした領土で、父が留学したころは普仏戦争後にドイツ領になったばかりの時でしたので、ドイツは国策上から、この土地へ各方面の第一級の人物を派遣し、ストラスブルク大学にも世界的学者が揃っていたそうです。後に碩学として神様のような存在であったホップゼイラー先生やウイルヒョウ教授らと父が一所に撮った写真を見たことがあります。ストラスブルクにおける父は、生来の子供好きに加えて、故郷に残した子供等の上に思いを走せ、強い望郷心に悩んだそうであります。そして、ひまさえあれば下宿の子供らと遊んだり、下宿のおばさんの田舎へ行って子供らと遊んだりするのが唯一の慰めであったようです。同大学の小児科のコルツ教授に「そんなに子供が好きなら小児科をやったらどうか、一体、日本に小児科があるのか」と言われて「まだ講座はない」と答えると「それなら是非、小児科をやれ」と強くすすめられたことが、父を斯道に進めしめた動機とも考えられます。コルツ教授については、戦前にドイツで刊行された医学人名辞典によりますと、近代小児科学の泰斗して父が尊敬するに足る偉い先生であったようです。
 このように父の生来の子供好きが、小児科の道を踏ましめた原因とも考えられますが父が少年時代に故郷で二人の幼い妹を相次いで失ったことも、父の将来に大きな暗示を与えているように息われます。当時、家人の命で医師を呼びに行った父は、医師が直ぐに来てくれないので子供心にも非常に焦慮と憤懣を覚え、また両親の悲嘆を目のあたりに見て、あの暑い夏の日の思い出は忘れられないと、父は後年まで時折り話していたくらいです、将来は医者になって世の親の悲しみを救いたいと思う子供心が実って、後年の父を小児科医たらしめる動機の一つとなったとも考えられます。
 明治三十九年の秋には父は二度目の渡欧をいたしましたが、父の足は先ず曹遊の地ストラスブルクに向いました。十八年前の下宿のおぼさんもまだ存命していたそうです。それよりも父を一番喜ばしたのは恩師コルツ先生が健在であったことです。父がコルツ先生を訪れて玄関で下嫂に刺を通ずると、二階にいた先生は階下へ下りるのももどかしく、二階の窓をあけて大声で父の名を呼んだそうです。老師は父を抱きかかえるようにして部屋に招じ入れました。「日本に帰ってから如何にして小児科の講座を創設したか、日木の小児科学の現状はなどと、コルツ先生の質問は後から後からつづぎ、そして父の答えに非常に喜ばれたそうです。膝を交えて語るこの老師弟の話は、時の経つのも忘れていつまでも尽きなかったそうであります。父はこの時の印象を語る時に、いつも楽しそうに話してくれました。
 以上申上げたことを色々綜合して考え合せれば、父が小児科に士心したことの動機のようなものが漠然と感じられるような気もいたします。思えば、これは弘田家の私事の如きものとも考えられ、それらをここで申し上げることは如何かとも思いましたが、客観的に見るときは、日本に小児科が生れた動機の一つとして多少の御参考にもなるかと存じまして申述べた次第であります。
(この文章は昭和34年東大小児科70周年を記念して刊行された「東大小児科の生い立ち」の中から転載したものです。)


菱  俊雄