東京都恩賜上野動物園飼育課   黒鳥 英俊さん

 2000年7月3日午前10時29分、上野動物園にすむゴリラのモモコが男の子を出産した。モモコは千葉市動物公園で育ち、1999年7月に上野にやってきた。我が道を行くマイペースのモモコが、出産して母親として子育てをするようになるのか飼育係の黒鳥さんたちは心配だったのだが、50時間の陣痛に絶えたモモコは確実に母性に目覚めていた。
 ゴリラは、マウンテンゴリラ、ヒガシローランドゴリラ、ニシローランドゴリラの3亜種に分かれる。日本の動物園にはニシローランドゴリラが、現在33頭いる。ニシローランドゴリラは主にアフリカのコンゴ、ガボン、カメルーンなどの熱帯雨林に生息する。上野動物園では国内外の動物園の協力を得て、ニシローランドゴリラの繁殖のためのプロジェクトを長年の間進めてきたのだ。
 黒鳥英俊さんは、「ゴリラの森」の飼育係として20年以上従事している大ベテランである。ペットとして家庭で動物を飼うことは多くの人の経験することだが、動物園での飼育というのはどういうものなのだろうか。
 以前お話を伺った京都大学理学部の山極寿一先生の「ゴリラの父性」のお話を思い出しながら、黒鳥さんのお話を伺ってみようと思う。

 モモコの出産から2ヶ月。黒鳥さんが持参してくださったノートパソコンの画面には愛くるしいモモコの子が映し出された。大きな丸い目ときゅっと結んだ口元が本当にかわいい。もう少し成長したら人間の言葉をペラペラ喋りだしそうな、そんな錯覚をしてしまうほど私たちと近い存在に思える。その生まれたばかりの赤ちゃんの顔を、モモコは愛おしそうに舐め回している。
 『モモコは態度が大きいんですよ。あの子が上野に来たばかりのとき、群の中で遠慮をしなかったんです。他のゴリラに対して態度が大きくて、来たばかりなのに10年も前からいるような感じで、ドーンとぶつかって行ったりね。だからモモコのことは常に心配だったんです。
 妊娠末期の頃はぬいぐるみを渡したり授乳のビデオを見せたりして、母親教室みたいなこともしていたんですが、全然関心を示さないんですよ。見向きもしなかったんです。ふつうは少しくらい覗き込んだりするんですけれどね。全然興味がないんだなあと思って僕たちはほとんどあきらめていたんですけれど、長い陣痛の後、子どもが生まれた瞬間には別人のようになったんです』

   モモコのことを話す黒鳥さんは、なんだかモモコの「お母さん」のような感じがする。わがまま娘をお嫁に出し、その娘が出産を無事に終えた後の安堵のような感想がなんだかとてもあったかい。
 現在、上野動物園にはモモコを含め7頭のゴリラがいる。オスのビンドン、メスのリラコ、ピーコ、ローラ、トト、モモコ。そしてモモコのこども。以前はオスが4頭いたが、ゴリラの性質上、成獣のオスを複数で飼うのは非常に難しい。オスらしく育てるためにも繁殖のためにも、ハーレムのようにオスを1頭と複数のメスという形が理想的なのだそうだ。野生本来の形を作ることで繁殖がうまくいくようなゴリラの森を作ったのだが、動物園で育つゴリラはどんな風に生活をしているのだろうか。
 『寝ている時間が多いですね。だいたい朝の7時から8時くらいに起きているんですが、夜中も頻繁に動いたり起きたりしているみたいですね。日中も寝たり起きたりという気ままな生活なんです。  遊びが好きで悪戯も好きなんです。亡くなったブルブルも以前、よく物を隠していました。手に石を持っていて、「ブルブルー!」って呼ぶとその場に落としたりするんです。悪戯好きなんですよね。建物についているナットをはずしてしまったりもするんですよ。
 トトというゴリラは静岡からつい最近上野にやってきたゴリラなんですが、彼女はすごく飼育係のことを観察しているんです。新しい雑巾を中に入れてやったら、一生懸命飼育係がやるように雑巾で壁や床を拭き始めたんです。真っ黒になった雑巾で最後に自分の顔を拭いたりしてました。飼育係と同じことをしてみたいんでしょうね。トトはとても頭のいいゴリラなんです。棒を使うのも上手で、物を掻き寄せたりする悪戯もしていますね。他のゴリラも真似をしますが、トトほどうまくできません。
 ピーコは麻袋をかぶるのが好きでいつも麻袋をかぶっています。夏になると身体が熱くなるので身体に巻いて日除けにして、うまく使っているんです。お洒落なんですよね。雨が降ると傘代わりにしたり、冬になると地面が冷たいのでカーペット代わりにしたり。それから、彼女は団子虫がすごく好きで手のひらでずっと遊ばせてペットのように可愛がって大切にするんです。カエルなんかも好きなんですよ。ゴリラは身体は大きいし力はあるけれど、小さくて細かい動物を優しく扱うのが得意ですね。
 食べることも好きです。ゴリラは草食ですが、人間の子どもと同じように甘い果物が大好きで、バナナとかりんご、パイナップル、ぶどう、いちご、すいか、ミカンをよく食べます。バナナやミカンは皮と実の間のフワフワしたところも好んで食べます。あまり好きではないのは野菜類で、小松菜、キャベツ、にんじん、大根なんかはお腹がいっぱいだとよく残します。特にタマネギやセロリのように香りのきつい野菜は嫌いなゴリラが多いようですね。
 性質がデリケートなせいか、ちょっとしたことでも下痢してしまうんです。冬になると人間と同じように風邪も結構引くんですね。そのときに薬をやらなければいけないけれど、粉の薬は苦いので嫌がってしまうので、哺乳瓶に薬を入れて、錠剤だったら乳鉢で擦ってミルクに混ぜるんです。そうすると飲むんですが、苦いと飲まなくなってしまうんですね。薬が入っていることが1度でもわかってしまうと、もうダメですね。全く口をつけなくなってしまいます。何週間もミルクを飲まなくなってしまうんです。ゴリラにはこちらの行動をちょっとでも見破られると、ダメなんですよ』

   ゴリラは非常に観察力が鋭い。人間以上に人間のことを読んでいるから、黒鳥さんたち飼育係の人は常に安心感を与えるように努力している。陽気な日と落ち込んでいる日の波の振幅が激しい敏感な性格なのだ。
 『とにかく、ゴリラは非常に恐がりな性質なんですね。だからいつも穏やかに接してやらなければいけないんです。
 飼育係の人はゴリラと直に接触するのかという質問をよく受けます。恐くないんですか?とか。ゴリラはすごい力がありますからね。握力だって500kgくらいあるんです。だから一緒に森の中に入るということはありません。ただ、動物園で暮らすゴリラにとって、いちばん飼育係が信頼できなければいけない。ゴリラというのは身体はごついけれど気が小さいというか気が弱いんです。だからメンタルな部分を飼育係がかなり理解してやらなければいけないと思います。動物園のゴリラにはお客さんの存在がある。お客さんもいて、動物園の関係者もいて、常に人から見られているんです。そういう意味で精神的苦痛にならないように、1頭1頭の性質をよく見て、それぞれに対して違う風に接するようにしています。4人の飼育係がいるのですが仕事上、2人のときが多く、誰がどのゴリラに・・・という風に偏らないようにして、担当をローテーションを組んで行っています。
 大型類人猿というのは、オランウータン、チンパンジー、ゴリラがいますけれど、ゴリラはチンパンジーあたりと比べると全く違います。チンパンジーは気ぜわしいんですが、ゴリラは思っていることを自分の内面にしまい込んでしまうような感じがあるんです。発散するというより、自分の中に封じ込めるという感じがあるんです』

 ブルブル君というオスゴリラは数年前に老衰で亡くなったが、上野動物園の伝説のゴリラだった。威風堂々と落ち着いた様子のブルブル君にはファンがとても多くて、彼はゴリラ本来の性質の「繊細さ」を誰よりも持っていた、優しさのあふれるゴリラだった。
 『「ブルブル」はメスにとても優しかったんですけれど、私たち飼育係に対しても本当に優しかったんですよ。僕が担当になったばかりの頃は脅かされたりということもあったんですが、何年も経って気を許せるようになると、お互いに挨拶をしただけでその日の様子がわかるようになってくる。彼は訴えたいことがあるとさりげなく近寄ってきて、静かにこちらの顔を覗き込んできたりするんです。
 ブルブルには年齢的に繁殖能力はなかったんですが、ゴリラ同士をまとめるという統率力がありましたね』

 動物園育ちのオスは小さい子どものまま大人になってしまうので、どうしても社会性や群をまとめる本能に欠けているという。オスゴリラがメスゴリラをまとめるという能力は、野生の力に依るものなのだろうか。
 『野生のように、育った課程において小さな頃から同じ年代の子と遊んだり上下のゴリラの関係に揉まれたりしたゴリラだと学んでいけるんですが、日本の動物園では圧倒的に数が少ないので学べないのだと思います。オスだったら交尾の仕方がわからない、メスだったら子育ての仕方がわからない。他のゴリラから学習する機会がなかったということが影響をしているのでしょうね。
 相手を選ぶことも野生であれば多くの中から選ぶことができる。しかし動物園では限られた数でしか選ぶことができない。そういう点は可哀想だと思います。結局、相手を選ぶのはメスなんです。自分が子どもを作りたい相手を選ぶ。興味がないオスには全く知らん顔なんです。極端なもので、新しいオスが入ってきて、魅力的なオスだったらメスたちの見る目が全く違うんです。
 「ビジュ」のように若くて逞しいオスが来たばかりのときは、のぞき込むようにメスゴリラはみんなでビジュを見ていました。でも全く興味を持たれないオスもいるんですよ。興味のないオスゴリラのときは、メスによっては食べ物を食べながらゴロンと横になって完全に知らん顔しているんです。
 メスの中には、オスにわざとつっかかるようにして様子を見ているゴリラもいます。そのときに逃げ回るオスではダメなんですね。そういうメスたちを上手くまとめられるかどうかが非常にオスとして大切なことなんです。野生の世界では、メスが発情してオスに近寄っていく。そしてそれにオスが応える。けれども、動物園のゴリラにはそういうことができないオスが多いんです。学習してこなかったから、メスにあからさまに近寄られるとどうしていいのかわからない。オロオロしてしまったり逃げたりしてしまうんです』

 そういえば、私たちから見て魅力的なブルブル君は、メスからも信頼されていたが子どもを持たないまま一生を終えた。若いビジュはブルブル君以上にメスゴリラに非常に興味を持たれていた。メスゴリラから見て魅力的なオスゴリラというのは、どのような特徴があるのだろうか?
 『ディスプレイ(ドラミング)の仕方がきれいとか、身体つきが立派だとか、でもそれ以上にメスに優しいということに尽きると思います。以前、かなり暴力的なオスがいたんですけれどそういうオスではダメなんですね。ビジュを見ていると思うんですが、彼はメスの扱い方が非常に上手いんです。手加減するというのかなあ、何か揉め事があってもサッとかわして振る舞うことができるんです。メスに対して本気の力で接するオスは少ないんですが、しょっちゅう暴れ回っているようなオスはメスに恐怖感を与えます。父親として子どもと接することのできるような、統率力があって優しさがあって悠然としている。そういうオスが、メスにとっては非常に魅力的なんですね』

 そう考えると、オスの力を見抜けるメスゴリラというのもなかなか逞しく思える。人間の女性だったら、余計なものが邪魔をしてしまって、そういう本質的な男性の素質を見抜けないかもしれないから。
 山極先生のお話では「ゴリラの父性」が大変に興味深かったのだが、黒鳥さんのお話からは「逞しいメス」についてもっと知りたいと思った。
 『メス同士というのはゴリラの関係では非常に面白いんですよ。ゴリラというのは順位をつけるんですね。飼育係に対してもそうですが、ゴリラ同士も順位があるんです。仲良しのゴリラはくっついていることが多いんですが、メス同士は、たとえば、ピーコと以前いたタイコはお互いに顔を見るのもイヤで、絶対に離れているんです。トヨコとタイコは昔から上野にいたんですが、後からきたピーコとリラコは新参者と分かるらしく、二つに分かれてしまったんです。その間に入ってトヨコは、タイコと新参者のピーコとリラコの連絡係をやっていたんです。あの狭い世界でも結構複雑な争いがあるんです。そのあたりも配慮しながら、検討してゴリラの森をつくったんですけれどね。それも、人間の入り込むことのできない野生の世界なんです。
 オスにしても、新しくきたメスや若いメスにはとても興味があるんです。新しいメスが来た途端に元気がなかったオスが急に元気になって、すごくそのメスが気になっているんです。ゲンキといういちばん順位が低いメスがビジュと仲がよかったんですが、次に新しく入ってきたメスによってビジュとの仲がしっくりいかなくなって、最後の頃は吐き戻しや自分の指をかじって指を失ったりしてしまったんです。結局、京都の動物園に戻したんですけれどね。そのとき、ゴリラの関係もとても複雑で、類人猿とくにゴリラはその辺のことをきちんとケアしてやらなければダメだと思いました。
 でも、最近驚いたのは、やはりモモコですね。こんなに母親らしくなるなんて思わなかったですね。他のメスもモモコのこどもには興味を持って、じっと見ていましたね。メスにはやはり母親としての本能が備わっているのでしょうね。
 タイコはこの間死亡したんですが、彼女は気むずかしいところもあって女性の飼育係の言うことは気が向かないと一切聞きませんでした。鬱憤晴らしに女性の飼育係を脅かすんですね。陰湿なところがあって、じわじわっといやがらせをしようとしたりするんです。夕方になって、こちらがはやく帰ろうと思っていると、わざと扉のところに来てこちらの様子をうかがっているんです。扉のところにいるのだけれど中に戻ろうとしないから、私たちは帰れなくなる。そうやってこちらをからかうんですよね。
 新人の飼育係が来ると必ずいろんなことをしますよ。わざと上からオシッコをしてみたり。新人のことはバカにしたり、いろいろなことをして試したりするんです』

 気持ちの直球を投げる行動は人間同士ではなかなか難しいし、今は、人と人とのコミュニケーションの取り方が複雑でわかり辛いところが多い。それに比べてゴリラには、やはり野性的な、土臭いコミュニケーションを感じられる。
 『ストレートなんですよね。類人猿はそうなんでしょうね。ゾウもそういうところがあるらしいんですけれどね。
 とにかく類人猿は、好みがしっかりあるんですよ。「サルタン」という、以前上野にいたゴリラはとにかく気むずかしかったんです。身体が大きくて逞しい動物園の職員の男性は気に入らなくてね。そういう人が急に目の前に現れると、立ち上がってエサや糞を投げたりしていました。細身の男性だととても安心しているんですけれどね。
 ゴリラはプライドが高い動物なんです。とにかくゴリラというのは頑固者で、すごく気が小さいんです。自分でひとつひとつ噛みしめて納得していかないと次に進めないんですね。時間の感じ方が非常に緩やかなんでしょうね。
 なにかこちらが新しいことをさせようとすると、その前に見破られてしまうんです。たとえば病気で何かの治療を明日させなければならない時とか、すぐにわかってしまうんです。いつもと違うということがわかってしまうみたいです。こちらは全く同じように平然としているつもりなんですけれどね。
 麻酔をかけるのに絶食にして、吹き矢で麻酔するんですが、チラッと病院の人が目の前を通り過ぎたらそれだけで次のことを考えてしまうんです。過去に経験のあることをすぐに思い出して、考えてしまうんです。こちらの行動をよく見てるんですよね。なんだか人間とゴリラの知恵比べみたいな感じになってしまいますね。麻酔の吹き矢を当てると「痛いからもう止めてくれ」という風にこちらに吹き矢を返しに来るゴリラもいます。
 担当者のことを信頼してくれてる分、可哀想な気持ちにもなってしまいます。私たちが呼ぶと来てくれるし、それなのに注射を打ったりとか辛いことをさせることは、騙しているような感じもありますよね。
 ゴリラによっても、そのことをすごく恨むゴリラとあっさりしているゴリラといろいろなんですね。1頭1頭みんな性質が違いますからね。
 病気になっているとすぐにわかりますね。これから寒くなってくるから特に風邪を引きやすくなるんですが、具合が悪いとすぐにわかります。元気がなくなりますし、だいたい部屋の中を見るとすぐにわかるんです。糞の状態や食べ物の状態ですぐにわかります。朝一目みればすぐにわかります。部屋の散らかり具合で検討がつくんですよ』

 黒鳥さんのお話を伺っていると、どうしても、黒鳥さんがゴリラのお母さんのように思えてしまう。やわらかでふわっとした佇まいを持つ黒鳥さんは、どのような経緯でゴリラに出会うことになったのだろう。
 『僕は1952年、北海道函館市の出身なんです。
 動物は子どものころから好きでした。父親が大学の船乗りで1年のほとんど外国に行っていたので、母親と生活をしていたようなものですね。家の近所の動物園にしょっちゅう連れていってもらって、動物を見たり接したりする機会がとても多かったんです。当時は鳩を飼うのが流行っていて、中学時代は鳩を飼っていました。
 父のお土産が、剥製や生きた動物だったんです。高校のときに東南アジアからカニクイザルを買ってきてくれたんです。今はもうワシントン条約でそういうことはできなくなりましたが、あのころはオランウータンも売っているような時代でしたからね。アラスカからエスキモー犬を連れてきて飼っていたこともありました。その犬にそりを引かせたりもしていましたよ。
 僕はサルが大好きだったんです。カニクイザルは僕にすごくなついたんで、ますます面白くなったんですね。毎日行動を見ていると本当に面白くてね。その気持ちがエスカレートしていったんです。
 それで、大学は茨城大学の畜産学科に行ったんです。大学院は千葉大学に行ったんですが、当時は畜産の方面に進む人があまりいなかったんですね。高度成長の時代のせいか、工学部に行く人が圧倒的に多くてね。理系のクラスにいたので、クラスのほとんどが工学部に行きました。畜産学部に行くって言うと当時はすごく驚かれたんですよ。でも、僕はずっと子どもの頃から、畜産とか野生動物のほうに進みたいと思っていたので全く迷いはなかったですね。
 それで就職の段階になって東京都の職員試験を受けて上野動物園に入ったんです。入ってすぐに、担当してみたい動物と担当したくない動物というアンケートをとられるんです。迷わず担当してみたい動物は「ゴリラ・オランウータン・チンパンジー」という風に書きました』

 黒鳥さんは20年以上類人猿を担当しているので、その間には、オランウータンやチンパンジーの人工飼育もしたこともある。
 『僕には保育園に行っている小さな子どもがいるんですが、僕の場合はオランウータンの子育てをして、チンパンジーの子育てをして、最後に人間の子育てをしているんです。だからついつい、自分のこどもを育てるときにオランウータンとかと比較してしまうんですよ。それを奥さんに言うとすごく嫌がられますよ。だけどついつい「オランウータンは何ヶ月で起きあがった」とかそんなことを言ってしまうんですよ。チンパンジーはこうだった、オランウータンはこうだった・・・なんて。
 類人猿は成長につれて力がだんだん強くなるけれど、人間はだんだん知能が発達するという点では少し違うのかもしれないのですが、子どもの頃ってほとんど一緒だと思うんです。
 自分の子どもを育てるにあたって、オランウータンやチンパンジーにミルクを飲ませたり、離乳食を食べさせたことはとても役に立ったと思います』

 黒鳥さんが際立って物腰の柔らかな人なのかもしれないけれど、それでも、飼育係になるような人の子ども時代は、クラスの中でこれ見よがしな自己主張はしないけれど密かに信頼を寄せられるような人であったような、そういう穏やかな感じを受ける。
 『子どもの頃から僕は変わらないのかもしれないけれど、ゴリラの飼育係になってもっと忍耐強くはなったかもしれません。とにかく怒りたい時も怒れないというのがあるんです。ここで怒ったら、ゴリラはずっと言うことを聞かなくなるっていうのがわかっていますから、こちらは常に我慢しているところがあるかもしれないですね。ミルクを飲んでもそれをわざと吐き出してこちらにかけたりするんです。こちらがキャーッと反応すると向こうは面白がってまたやりますからね。そこで何もなかったかのように平然としていないとダメなんですよね。
 新人の飼育係はそれがわかるようになるまで大変なんですけれどね。でも結局、自分でわかるしかないんですよ。ゴリラがこちらの言うことを聞いてくれるようなそういう信頼関係を持てるようになれないと、仕事にはなりませんからね。飼育係のベテランがいるときはゴリラもわりに言うことを聞くんですけれど、新人だけになるとなめてしまって言うことを聞かないんですよね。でもそれも体験していって、ゴリラのことを丸ごと理解していかないといけないですからね。
 ゴリラはこちらに同じ気持ちでいてもらわないとダメなんでしょうから、やっぱりある程度ゴリラにならないとね。ゴリラは今どう思っているんだろうと常に考えて仕事をしていないと、信頼はされませんからね。何があってもあんまり驚かないで、ゴリラがのんびりゆっくり暮らせるようにいつでも配慮しなければいけないと思っています。
 あとは退屈をさせないようにというのは一番気をつけてますね。ゴリラ同士が遊んでくれるのがいちばんなんですよね。
 だから信頼関係は一番大切ですが、必要以上に人間がどっぷり傍に近寄ってはいけないと思うんです。ゴリラは第一にゴリラ同士という風にして、こちらが引くこともいっぱいあります。メスが発情すると担当の飼育係に身体をすりよせてくることがあるんです。そういうときはスッと離れて、ゴリラ同士がうまく結びつくようにします。でも一番親身になって、代弁者になってやらなければならないのが飼育係なんですよね。
 一番心配なのは、子どもを生んだメスゴリラが自分の力で子どもを育てなかった場合なんです。モモコはおかげさまで自分で子育てするようになりましたが、万が一、育てなかった場合は人工保育をしなければならない。その場合はかなり長い間、飼育係が接触するわけです。人工保育の難しさは、育てている飼育係を子どもが親だと思ってしまうという点なんですね。育てて1年以内に群などに戻さないと、こどもは人間になってしまうんです。そうしてはいけないんです。ゴリラの子どもは本当に可愛いのでついつい可愛がってしまうんですが、人工保育をやったとしてもある程度経ったら「動物にしてやらなければいけない」んです。
 人間に近いから、メスだったら男性の飼育係を異性と思うし、オスはメスほどではないけれど女性の飼育係には気を許すんです』

   それだけ頭の良い動物だから担当者が変わるときも飼育係は十分に配慮する。
 『新しい担当者に慣れるのに時間がかかるので、前の担当者は顔を出さないようにするんです。ゴリラの森を建設するとき、僕は一時事務をやることになったんですけれど、そのときは新しい担当者に慣れさせるために全く顔を出しませんでした。新しい飼育係に慣れようとしているときに前の担当者が顔を出すとゴリラにも新しい担当者に申し訳ないんですよね。
 顔を出してしまうとそのときはお互いに会えて嬉しいかもしれないけれど、結局、次の担当者が大変なだけなんですよね。長い目で見たら上手にチェンジしていかなければいけないと思うんです。他の動物園の担当者も上野に預けたらあまり顔を出さないんですよ。
 最初のときは非常に大切なんで、何日かはずっと前の担当者が傍にいて不安を和らげてやるんです。でも環境の変化にゴリラが慣れたな・・・と思ったら消えるように担当者はいなくなるんです。
 僕が上野から他に行ったゴリラのところに顔を出しても何も良いことは何もないんです。もちろん精神的に何かあったとか、そういう場合は別なんですけれど、でも遠くで見守ってやったほうがいいなと思いますね』

 黒鳥さんは、ゴリラと人間の間の「人」のようだ。人間同士では関係を言葉が支配しているところが多すぎて、ただ「見守る」ということや、「思う」ということをお互いに敏感に感じ取れずに、単純に心が通えないことが多すぎるような気もする。動物を相手にすると言葉なんて何の意味もないのではないだろうか。
 ゴリラと黒鳥さんの間に優劣は感じられない。黒鳥さんにとって、「飼育」とはどういう意味なのだろう。
 『最初は飼育係というのは、優位に立って動物をおさえるものと思っていたんです。だけど、そういう考え方ではいけないんですね。飼育側が主導権を持っているというのではなく、最近アメリカではゴリラの飼育係のことを「CARE GIVER」と言っているんですが、動物を立てるという考えです。動物に満足してもらうためには彼らをおさえつけてはいけないんです。人間の子どもと一緒で、しつけという意味で叱らなければいけないときは叱りますが、基本的ルールさえお互いに守ればいいことで、なるべく自由にしてやるんです。
 そうは言っても人間の子どもではないから、人間のように扱ってはいけない。担当者として親しくなってもらいたいし、とことん解り合いたいけれど、ゴリラ以上に踏み込まないことも必要というのかなあ。ゴリラと人間の信頼関係というのでしょうか・・・』

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 『ゴリラという動物は本当に面白いと思います。地球上に、自分たちの身近にいるんだなと思うと余計にそう思うんです。
 人間も本来はゴリラのようなものを持っていると思うんですよね。人間は長い時間をかけて目まぐるしく変わっていってしまったけれど、基になるものはゴリラのような性質なのかもしれないんですよね』
                    (インタビュアー 三上敦子) 2000.9





黒鳥英俊さん プロフィール
1952年生まれ、北海道函館市出身。1975年茨城大学農学部畜産学科卒業。繁殖生理学を専攻。千葉大学大学院に進み、1978年より東京都恩賜上野動物園飼育課に勤務。1985年動物園チームでチンパンジーの人工授精に成功。1988年にアフリカや欧米の動物園を訪れたのをきっかけに、今日まで世界でゴリラを飼育している動物園を数多く視察し、海外の飼育技術を学ぶ。現在、1996年にオープンした「ゴリラの森」で今年7月に生まれたこどもを含め7頭のゴリラを飼育し、絶滅が心配されているゴリラの繁殖に力を入れている。千葉県松戸市在住。

                          

 
                         

Edited by Atsuko Mikami