基調講演

脳科学へのわが国の取組
伊藤 正男     理化学研究所脳科学総合研究センター
長年にわたり基礎研究室の中で地道に成長してきた生命科学が次第に実効を発揮し、人間への全面的な医学的応用がはかられるようになった。さらに脳科学の目覚ましい進歩により、これまできわめて困難であったこころの聖域への接近も次第に可能となりつつある。脳科学には大きくわけて三つの領域がある。第一は、r脳を知る」基礎的な科学研究領域、第二は、「脳を守る」臨床病理学的な研究領域、第三「脳を割る」情報科学的研究領域である、これらの三つの領域の相互に密接な相互作用の上に、脳科学の効果的な発展とその成果の社会への急速なフィードバックを可能にしようとするのが、「脳の世紀」、「脳科学の時代」として提唱されている日本の脳科学推進計画である、では、「脳を守る」領域の研究はどのように進むだろうか。脳神経系の病気の多く、特に精神疾患は生物学的要素と社会環境的要素の複雑な組み合わせの上に成立するが、従来複雑で測り知ることが難しかった生物学的要素の解明が急速に進み、病気の予防と治療の具体策として次の三つの方向が考えられている。(1)劇薬:神経細胞やグリアの化学的な信号伝達系、エネルギー代謝系についての新知見をもとに、細胞機能の病的状態を改善する新薬を作り出す。(2)遺伝子治療:脳神経系疾患の遺伝子損傷を解明し、それを補修する、あるいはそのよう’な損傷がおこること、起こっても表に症状が発現するのを防止する。(3)病的脳組織の再生をはかり、移植により置換する。これら三つの方策による精神神経疾患の克服は、もはや夢ではなくて現実のものとなっている。三つの方策をうまく組み合わせて使うことが必要であり、三つとも今後強力に進めねばならない。例えば、アルツハイマー病に対して、劇薬の面からは対症療法以上のものは期待しにくく、病気の原因を抜本的に除去するためには遺伝子治療、あるいは損傷された細胞を取り換える移植に待たなければならないだろう。小児科学の領域にあっては脳細胞の発生、分化、成長の制御の仕組の解明はいずれも上記三方向の応用に密接に結び付いてくるだろう。しかし、これらの三つのいずれをとってもわが国の取組は十分とは言い難い。劇薬については、製薬産業の規模、ベンチャービジネスの弱体、治験の問題など多くの阻害要因があるし、遺伝子治療についても、再生、移植の人体への適用についても、その実施に向けての組織的な体制作りが進まず、諸外国にかなりの遅れをとっている。さらにその根底には臨床病理研究と基礎研究の乖離があり、例えば、病的な組織材料や遺伝子資料が基礎研究に速やかに有効に利用されるよう体制作りを急がねばならない。脳科学の成果が臨床医学、医療に貢献することが出来るようになるためには、医学医療体制全般にわたっての大きな組み換えの必要が痛感される。


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