S−1−0 出生前診断とその問題点 |
大阪大学大学院医学系研究科、名古屋市立大学医学部 岡田伸太郎、和田義郎 |
1970年ごろから遺伝学、生化学、これに続く分子生物学研究の進歩をうけて盛んに実施されるようになった。妊娠中の羊水、羊水細胞の採取、さらに絨毛穿刺などが安全に行えるようになり、得られた材料の多彩な分析が可能になったからである。これは疾患をもつ胎児の人工中絶をめざしているので、初期には対象病患が限られて大きな問題はなかったが、多数の疾患についての診断が可能になるにつれて社会的、倫理的な議論が提起されはじめた。最近では卵子を対象として出生前診断を行い、選択的に人工授精した後に着床させる「着床前診断」も視野に入ってきて、いまや「遺伝子診療」という概念のもとに大きな問題となっている。しかし、出生前診断を受けることや、その結果どう対処するかの個々については完全に個人的な問題であり、これを多数の意見で一括してある方向へと規制することは関連いである。このような状況のもとで医師がどのような職業的行動をとるべきであろうか。医師による情報の正確な理解、患者への客観的内容の十分な伝達、それらを支援する学会組織などがどうしても必要である。このような観点から、このシンポジウムでは産科と小児科の立場から最新技術の紹介と対象疾患について紹介していただき、それをまとめるかたちで遺伝子診療における倫理・社会的問題をとりあげることにした。 |
S−1−1 出生前診断の最近の動向 |
名古屋市立大学産科婦人科 鈴森薫ー |
近年、本邦では少産傾向が定着し、低出生率が社会的問題として取り上げられている。原因としては女性の高学歴化・有識率の上昇一などによる晩婚化が指摘されている。このような状況を背景にして女性の妊娠に対する考え方も変化し、以前にも増して健常児の出産への期待が強まってきている。1970年代から染色体異常や先天代謝異常の出生前診断に焦点をおいた羊水検査が行われてきた。その後、画像診断機器の進歩や出生前診断手技の開発・向上により多様化し、最近では超音波断層法・MRIなどの画像診断と羊水穿刺・絨毛採取・胎児組織生検・胎児採血などの手技が平行して行われ、対象の痴愚に応じて選択できるようになっている。出生前診断法の開発には止まるところを知らず次々と新しい手技が登場している。二つの大きな目標を目指している。一つは非侵襲的診断法の開発である。超音波断層法は侵襲性がなく胎児奇形のスクリーニング検査として有用で、臨床の現場ではすでにルーチン化している。さらにダウン症胎児を予知する特徴的所見もいくつか報告されダウン症のスクリーニング法となり得る可能性を秘めている。複数の母体血清マーカー測定も染色体異常胎児の出生前検査として注目を集めているし、母体血中胎児細胞による出生前診断は真の非侵襲性の手技として期待されている。他方、診断の早期化に向けた努力も払われ、その究極とされているのが着床前診断である。着床前診断は卵子(極体)診断・精子診断・受精卵診断がある。難治性不妊症の治療法として注目されているのが生殖補助技術(ART)で、このARTを一躍有名にしたのが体外受精・胚移植1の成功である。我々は現在、この技術で受精卵を容易に手に入れることができるようになっているし、回収した受精卵から任意の数の割球の摘出も可能である。一方、分子生物学的手法の進歩は、遺伝病の原因遺伝子を数多く突き止めるのと同時に、たった一個の細胞からでも検出条件が整えば遺伝子診断ができるようにしてくれた。一個あるいは数個の割球から遺伝子情報を得るのが受精卵診断で、欧米ではすでに150例以上の本法受診児の誕生をみるが、本邦でも臨床応用が検討され、その慎重な対応が迫られている。 |
S−1−2 遺伝医学の視点から |
信州大学医学衛生学、信州大学病院遺伝子診療部 福嶋義光 |
出生前診断の技術的進歩はめざましく、羊水診断、絨毛診断、超音波画像診断に加えて、母体血清による胎児異常のスクリーニング的検査や着床前診断も可能となっている。一方、その結果によっては人工妊娠中絶につながる可能性があることから、さまざまな倫理的諸問題が提起されている。一方、シンポジウムでは遺伝医学の視点から出生前診断の問題点を見直し、我国においては遺伝カウンセリングを含む遺伝医療システムの構築が急務であることを強調したい。遺伝医学の目標は、遺伝的不利益のある人々とその家族が、限りなく正常に生き、子供をもち、妊娠出産、健康について十分知らされた上での選択が可能となるように支援すること、また、人々が必要に応じた遺伝サービス(診断、治療、リハビリテーション、予防)や社会的支援システムの利用が出来るように手助けすること、人々がその個性的な状態に適応することを支援すること、そして適切な新しい展開についての情報を与えることである(WHO遺伝ガイドライン、1997)。出生前診断は優性思想や障害者差別につながるのではないかという懸念の声がある一方、重篤な疾患に胎児が罹患する可衛生の高いカップルにとっては切実な要求でもある。出生前診断を遺伝医療の一部と位置づけ、以下の項目を含む遺伝カウンセリングを行った上で実施することが望まれる。1)検査により解明されると思われる病気の名前と特徴、2)出生後の疾患に対する治療の可能性、3)胎児が罹患する可能性、4)胎児に障客があると診断された場合のさまざまな選択肢、5)検査結果がはっきりしない可能性、6)行われた検査結果が正常でも、胎児に障害がないという保証にはならないこと、など。これらの出生前診断に関する遺伝カウンセリングは包括的遺伝医療システムの中で行われるのが望ましい、信州大学病院遺伝子診療部の取り組みを紹介する。 |
S−1−3 先天性代謝異常症の出生前診断〜小児科の立場から |
東北大学大学院医学系研究科小児医学講座遺伝病学分野 松原洋一、呉繁夫、鈴木洋一、成澤邦明ー |
先天性代謝異常症には、アミノ酸、有機酸、糖、脂質、ムコ多糖、金属などの様々な代謝経路の障害に由来するものがある。それらのうち、致死的または重篤な臨床症状を呈し、有効な治療法が知られていないもの、あるいは胎児期・新生児早期からの治療が必要な疾患が出生前診断の対象となっている。これらの病患の出生前診断法には、羊水・胎児血中の異常代謝産物の定量(化学診断)、羊水細胞・胎盤絨毛細胞を用いた酵素活性の測定(酵素診断)、細胞から抽出したDNAの分析(遺伝子診断)などが用いられており、各々に特徴がある。例えば有機酸代謝異常症において胎児尿に由来する羊水中の代謝産物を測定するにあたっては、安定同位体で標識した標準物質(市販されておらず有機合成が必要)と質量分析計による高精度の定量が不可欠である。また、酵素診断には熟練した手技が要求されるが、それにも拘わらず時に患者と保因者の鑑別に苦慮する場合がある。遺伝子診断法は、すでに変異が判明しているときには、クリアカットな結果が短時問で得られる有力な手段である。しかしながら、通常は家系毎に遺伝子変異を同定する必要があり、現在の技術水準ではまだ汎用性に乏しい。以上の様な診断法を複数組み合わせることによって、より精度の高い診断が可能である。先天性代謝異常症の出生前診断でしばしば問題となるのはこのような分析が、染色体検査とは異なりそれそれの疾患にきわめて特異的なため、ごく限られた数の研究室でしか行うことができないという点である。しかも、研究段階を過ぎた疾患では、研究室への経済的・人的サポートがないために、臨床サービスの中止を余儀なくされている場合も多い。欧米では、小児病院などを中心に生化学診断・遺伝子診断検査室が劉備されている。我が国でも、早急に何らかの対策を講じる必要があろう。また、先天性代謝異常症では同一の疾患でも、新生児期に発症し致死的な経過をとるものから、成人後も無症状な症例まで存在する。さらに、治療の巧拙によっても疾患予後(知能障害など)に大きな相違が生じる。したがって、これらの疾患における遺伝カウンセリングにあたっては、より高度でしかも幅広い専門知識が不可欠である。 |
S−1−4 出生前診断に関する倫理的問題と小児科医への期待 |
近畿大学原子力研究所 武部啓/B> |
出生前診断の小児科領域からの視点は、産婦人科領域とはかなり異なるかもしれないが、遺伝用談という立場からは小児科の役割がより重要であろう。遺伝的障害を含む先天的障害児の治療と健康管理にもっとも深くかかわっている小児科医は、遺伝相談(遺伝カウンセリングつを担当するのに適任である。しかしながら、わが国の現状は、出生前に妊婦が小児科医に遺伝相談することはまれである。遺伝相談を出生前診断の前後に行っては遅すぎることは、わが国での本質的な問題点である。遺伝相談は、妊娠の前、あるいは妊娠の初期に行われるべきものであり、遺伝について十分な理解を有し、遺伝相談の訓練を受けた医師、すなわち小児科医を中心とする遺伝専門医(将来は専門の遺伝カウンセラーも)が担当することが望ましい。一方遺伝相談の普及はきわめて不十分であるが、近年小児科医の遺伝と遺伝相談への関心が高まって来ており、厚生省も保険診療へのとり入れを検討中と伝えられていて、本格的に実施されるようになる日は近いのではないか。そのためには、倫理的問題を含む具体的な対応について今から十分な検討と準備が必要である。WHOが1998年に発表した遺伝医学と遺伝サービスにおける倫理的問題のガイドラインには8項目の出生前診断、および13項目の出生前診断の前に行われる遺伝カウンセリングのガイドラインが示されている。そのなかにはわが国の現状に必ずしも合致しない内容があることに留意し、日本独自のガイドラインを制定することが緊急に必要であり、日本小児科学会がそれに中心的役割を果たすことを期待したい。特に重要なことは、出生前診断の結果妊娠中絶することがあり得るが、そのことが既に存在する障害者の人権を侵害するのではないかとの意見にきちんと対応できること、および、しばしば用いられる「重篤な障害」とはなにか、をどう判断するのか、であろう。私はこれらの点にこそ医師ひとりひとりの倫理観が間われているのであり、ガイドラインや法律で定めることはできないと考える。 |